コルサの毎日がヒルクライム

(その1からの続き)


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「(第1)清崎トンネル」から南下していくと、順調に「第2清崎トンネル」につきます。
道はしっかりしていますので、ここまでなら自動車でも来る事が出来るでしょう。
「第2清崎トンネル」の内部は、両側入口から流れ込んだ土砂でが
完全に覆われていますが反対側まで歩く事が出来ます。
先に田峰駅側から崩落しているのを確認していますので自転車は、ここに置いて行きます。


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「清崎第2トンネル」の南側を内部から見た様子です。
両側の入口から土砂がトンネル内部に流れ込んでいます。


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同じく「清崎第2トンネル」の南側を外から見たところです。
外側で大きく崩れていて内部から見る様子より、かなりひどいことになっています。
崩落、樹木の繁茂で、もう少し時間がたてば出入り出来なくなりそうな勢いです。
2月初めで、この様子ですから春以降に、ここを訪ねるのは、かなり厳しいでしょう。

この部分は対岸の国道からも見る事が出来ます。


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清崎第2トンネルの南に、この区間、北から一番目の鉄橋があります。
ここは、平均台よろしく渡っていくのは怖いのですが、
幸い山側から迂回していく事が出来ます。


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鉄橋の横をよく見ると、こんな銘板がありました。
「大阪鉄工所 昭和5年」の文字が読めます。
これと同じ銘板が他の鉄橋でも見られました。
この区間は昭和何年に開通したんでしたっけ?
大阪鉄工所って、大阪の会社ですよね(多分)
それにしても、この鉄橋、地元、中京地区の製造ではなく大阪製だったんですね。


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この区間、北から二番目の鉄橋です。
小さな鉄橋ですが谷が深く立派な石垣が組まれています。
ここも山側から迂回できますので、こんな画像が取れました。
帰りは思い切って橋を渡ってみましたが、結構、高いので怖かった(笑)


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第3清崎トンネルの北側です。
かなり長いトンネルですが(田口線3番目?)内部は、まっすぐなので
反対側の入口が見えています。
実は、ここまで、来る事が出来るとは考えていなかったのでライトを自転車に
おいてきてしまいました。
恐る恐る、地面を足で探って入っていきます。


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第3清崎トンネル北側は土砂に覆われた第2トンネルなどと違って
当時の様子が良く残っています。
画像では判りにくいかも知れませんが枕木があった痕跡が残っています。


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第3清崎トンネルの南側です。
トンネル中央から南側は一部、崩落している所があります。
ライト無し、単独でここまで来るのは正直、かなり怖かったです(笑)
まあ、ライトがあっても一人では怖かったでしょうね。

(ここに限らず、危険箇所が多いので十分注意してくださいね)


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第3清崎トンネルを出ると、すぐに北から三番目の鉄橋があります。
ここは山側から迂回するのは難しいと思います。
思い切って橋を渡って先に進みます(谷も深くかなり怖いです)。

ちなみに長い橋と短い橋では鋼材のサイズが違っていました。
手のひらで測ると、広い方で幅20センチぐらいです。


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まもなく崩落現場に着きました。
この画像は、カメラを斜めにして撮ったのではありません。
水平に構えて撮った画像です。
右の大きな木を見てください。
崩落して長いのか、木が生えていた地盤ごと崩落してきたのでしょうか。
もしかして、廃線直前に崩落した場所というのは、ここなのでしょうか?

ここを渡る事が出来れば田峰駅側に抜ける事が出来ますが
今回は自転車がありますから、あきらめて国道に戻ります。
国道に戻り南下して前回走れなかった次のポイントに向かいます。


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さて、田峰駅跡から一気に南下してきました。

三河海老駅と玖老瀬駅の間に小さな「三河大石駅」があったそうです。
現在の、大石バス停の、このあたりでしょうか?

ここから少し北側の旧街道?には「大石停留所道」と彫られた道標があります。
それと関連していると思われる道標が画像の左端に見えます。
この道標には(山寺三十三箇所霊場?)と(昭和四年)の文字が読み取れました
「大石停留所道」とは田口線の駅を表しているのでしょうか?


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玖老瀬駅のあった玖老瀬の街を南に抜けると大栗平のバス停があります。
このバス停の左側が線路跡になります。
画像奥で線路跡が県道の下をくぐっていきます。
ここから線路跡を更に南下していきます。


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県道を、くぐると築堤があります。さらに進むと、こんな深い切り通しがありました。
廃線後40年もたち、また、こんなに急な切り通しですが落石はほとんど
見られないほどしっかりしています。


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麹坂トンネルの北側にたどり着きました。
以前、確認した反対側は厳重に封鎖されていましたが、
こちら側は、なぜか通行止めの「トラ柵」一つありません。
南側は、しっかりフェンスなどで封鎖されているのを確認していますので
通るのをあきらめました。
(フェンスを人間は通れても自転車を通せないかもしれないので)


今回の田口線レポートはこれまでです。
実際には、鳳来寺駅より南も少しだけ調べましたが中途半端になってしまいますので
次回、大草地区周辺から有名な橋柱周辺まで調べて第3弾として、ご報告するつもりです。

今日は(2008/2/2)田口線 廃線跡の前回、通れなかった部分を訪ねてみました。
今回、行ったのは豊橋鉄道田口線廃線跡の「清崎第一トンネル」-「田峰駅間」になります。
(麹坂トンネル北側も含む)
いったん、田峰駅側(南側)から行きましたが崖崩れの為、断念。
国道で北上、清崎第一トンネルまで行き、今度は北側から
崖崩れの場所まで行くという行程になりました。

前回のレポートは、こちら↓
田口線 廃線跡を自転車で訪ねる その2
http://blogs.yahoo.co.jp/corsa2003sp/12942532.html
田口線 廃線跡を自転車で訪ねる その1
http://blogs.yahoo.co.jp/corsa2003sp/12815279.html


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まずは車を止めた場所から国道、県道他で稲目トンネルを目指します。
途中、田口線鉄道跡が町道?になっている所で今回も「お猿さん」に出会いました。
距離はわずか3メートルほどまで近づきましたが、この後さすがに威嚇されました。
前回、サルの群れにあったところの近くでしたが今回は、この一匹しか確認できませんでした。


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中央の桜の木にサルがいます。
サルに出会った、ここは海老の町のすぐ裏です(町並みがすぐ下に広がっています)。
このあと、サルは木をおりて山に行くかと思いきや町の方に下っていきました。
今の時期、柿やミカンがまだ、なっている所もありますので食料を調達に人家の方に
降りていったのかもしれません。


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稲目トンネル(ここも、もと田口線のトンネル)を抜け橋を渡ります。
このあたりに「田峰駅」があったはずです。
現在は、道路拡張、住宅などの建設で当時の鉄道の雰囲気は残っていません。


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田峰駅があったところの西側へ少し入ると、田口線ではありませんが、
わずかに当時の痕跡を見つけました。
これは田口線に連絡していた「田峰森林鉄道」のトンネルだそうです。
今回、トンネル上部斜面で工事をしていた為か通行止めでしたが普段は遊歩道として
使われていたはずです。

また、今回、見逃してしましたが、画像の背中側に当時の貨物線用ホームの
コンクリートが、ほんの一部ですが残っているそうです。


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田峰を過ぎると線路は川の対岸に渡っていました。現在、川に橋脚などの痕跡は見られません。
(後日ネットで調べると川底に橋脚の台座らしき物があるそうです)
画像にある林道用?の橋を対岸に渡って線路跡を探します。


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対岸に渡ると川沿いに林道があります。
林道とほぼ、重なって線路跡があったようです。
(橋の近くは少し違う)


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少し行くと林道が東に曲がっていきますが線路は、まっすぐ進んでいます。
通行止めの「トラ柵」の向こうに小さな鉄橋があります。


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こんな鉄橋が残っていました。
いわゆるアイビーム橋です。鋼材の断面が「I」型の為、このように呼ばれるそうです。
先にネタをばらしてしまいますが、この区間で4ヶ所の橋がありましたので、
ここを仮に「北から4番目の鉄橋」と呼ぶことにします。


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山側は、岩の崖のままの、ところもありますが、石垣のところもあります。
ここは石垣ですが残念ながら上部から土砂が崩れてしまっています。
廃線後、40年の月日を示すように線路跡には、たくさんの木がはえています。
(この画像は北側から南側を見ています。)


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更に先に進むと、線路跡が完全に崩落していました。
画像で見るとたいしたことない斜面のように見えますが実際、現地での感覚は、かなりのものです。
それでも、人が通ったこともあるような痕跡が見られます。
自分も何とか木につかまってなら渡れそうな気がしましたが自転車もあるので
今回は(笑)あきらめます。


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最初の橋まで戻って対岸の国道に渡り、北上します。
国道からは、先ほどの「北から4番目の鉄橋」(ここは、よく見える)以外にも、
2、3ヶ所ほど鉄橋らしき物が見えます。
画像は、この区間、北から3番目の鉄橋でしょうか。
だとすると(第3)清崎トンネルの入口も、すぐ左にあるはずです。
トンネルが、なんとなく見えるような違うような(笑)

他にも清崎第2トンネルの南側入口も国道からわずかに見えます。


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国道の清嶺トンネル入口手前から南に入ったところが「長原前駅」があったところだそうです。
画像は駅があったと思われるところから線路跡(田峰駅方面)を見ています。
このあたりに駅の痕跡は感じられません。
あえていえば道が、そこだけ少し広くなっていることでしょうか。

駅跡と思われる広い部分に今は「山神」様の石碑があります。
この石碑は鉄道時代は、当然、ここにはなく鉄道廃止後、
多分、国道が今の位置になった際に、移設された物だと思います。


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駅があったところから山側を良く見ると枯れ草の間から不気味に
「(第1)清崎トンネル」が口をあけています。
ここは夏になったらトンネルに近づくのはもちろん、トンネルを見つけるのも
大変になるかもしれません。


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「(第1)清崎トンネル」の南側入口はトンネル自体が崩壊しています。


国道トンネルを通って「(第1)清崎トンネル」北側入口を探してみましたが見当たりません。
もしかしたら清崎(第1)トンネル北側は現在の国道トンネルと重なっていたのかもしれません。


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「(第1)清崎トンネル」の内部は水没していますので、よほどの決意がないと(水に入る)
こちらからトンネル北側を探すことは出来ませんね?


 ※ 清崎トンネル群の正式名が分りませんのでネットで
   アップされていた名称を使っています。

 ※ この続きは「その2」にて。

今日(30日)、少し速く仕事が終わり、日暮れまで1時間ぐらいなら自転車に乗れそうです。
早速、帰宅途中にある公園に車を置いて積んである自転車を下ろし走り出します。

場所は愛知県豊川市前芝町(旧の宝飯郡、今年、豊川市になる)、豊川の右岸(西側)周辺です。


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まずは現在の豊川河口及び、豊川放水路の西側にある「前芝の灯明台」です。

豊川放水路は豊川の増水時に水を流し氾濫を防ぐ為に1965年に完成した水路です。
(豊川上流、現在の国道362号線 当古橋周辺は、豊川下流が曲がりくねっているせいか、
しばしば増水氾濫した)

現在の位置関係を見ると、ここに灯明台を設けた意図が、わかりにくいかと思います。
その理由として上記の豊川放水路の完成と、1600年代から、ずっと行われていた干拓事業で
周辺海岸線の地形が大幅に変わっている事があげられます。

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前芝の灯明台の案内板です。
説明文中の「光の達する距離」は、ちょっと信じられないものがあります。
しかし、ほとんど人口の光がなかった時代なら十分、確認出来たのかもしれません。

「藩主が乗船していた際、現在の蒲郡市沖で難破したが大事無かった」とする文献もあります。

現在では、灯明台の必要性はピンときませんが海上交通が主体の時代だったのですね。
豊川上流、現在の新城市、長篠あたりまでも陸送より水運の方が盛んだったそうです。
(牛馬による輸送より船による輸送の方が大幅にコストが安かった)

この灯明台から上流部、吉田大橋の下流一体の豊橋市船町あたりは「吉田湊」
(吉田は豊橋の古い呼び名)と呼ばれ、かつては水運で大変に栄えたところで、
江戸時代頃には江戸、大阪、伊勢(伊勢神宮参拝など)などに向けて船が運航されていたそうです。
おかげ参りの年にあたった1730年などは5月下旬から8月上旬で3万4千8百人が吉田湊から
伊勢に渡ったという記録もあるらしい(東海道吉田宿の人口が5千5百人程度の時代)。


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さて前芝の灯明台から県道385号線(平井牟呂大岩線)に出てを少し北東に走ります。
目的地は県道385号線と飯田線、東海道線、名鉄が集中し、交差する場所です。
ここは、道が狭いのに23号線と1号線を結ぶ抜け道として交通量が多く、今まで調べたくても
行く気にならなかったところです。今日は、思い切って行って見ます。
やはり思ったとおりの場所でした。

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「渡津」の渡しの案内板です。
ここで、いう東海道は江戸時代に整備された東海道より、はるか以前のことになります。
江戸時代の東海道は、ここから上流、1キロほどのところにありました。
この案内板があるのは現在の豊川市小坂井町平井地区です。
いにしえの東海道の渡し場は地形及び海水面の変化で時代によって案内板のある平井から、
小坂井、篠束などと変化したそうです。
「渡津」の渡しも10世紀後半には寂れてしまったそうで渡津の宿駅の位置は不明だそうです。
ただ、渡津の名前は旧23号線の橋、「渡津橋」として現在も残っています。
ここがすたれた後、11世紀以降のルートは豊川市古宿または当古町あたりだったらしい。
(鎌倉街道と呼ばれるコース)

この渡し場の位置も現在からは上記の灯明台と同じくピンときませんが、
灯明台の件と同じ理由(地形の変化)のせいですね。




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「志香須賀の渡し」の案内板の、直ぐ横に、こんなところもあります。
「村中安全」を祈った場所です。明治37年と読めました。
(志香須賀は湖西市の白須賀と似ていますが、もちろん全然違う場所です。念の為)



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もう一つ、こんな石碑もありました。
「柏木濱」「菟足祭神御日蹟」と読めました。
「菟足神社」(うたりじんじゃ)は、ここから数百mの北東の旧東海道と国道1号線の間にあります。
この神社の境内には縄文時代の貝塚もあります。
また、徳川家康なども戦勝祈願に立ち寄った記録があるそうです。
菟足神社も、近いうちに訪ねなければ。


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日が暮れてきましたので、折り返して車に向かいます。
途中、平井稲荷山神社に立ち寄ります(JR西小坂井駅から800mほど)。
ここは平井遺跡と呼ばれる縄文晩期から弥生時代の遺跡があります。
現在、画像の背中側には田畑が広がっていますが当時は海岸だったと思われます。


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境内には貝殻が散乱しています。
ただ、大正、明治時代から何度も発掘調査されていますので貝殻以外はほとんど見られません。
少し探してやっと小さな土器片(中央右)を見つける事が出来ました。
この破片では判りませんが、この遺跡から出土した土器の中で縄文時代晩期中葉の
「稲荷山式土器」と名づけられて呼ばれる形式の物があります。
ここの貝塚に限らず、三河地方の、この時代の貝塚から出る貝殻はハマグリが圧倒的に多く見られます。
ただ、採りすぎてしまったからなのか残念ながら現在の三河湾ではハマグリは
まったくといっていいほど取れません。


豊川河口部には貝塚などの縄文遺跡、弥生時代稲作遺跡の瓜郷遺跡などから
歴史の古い寺社仏閣も多数存在しています。
それらを、これから少しずつ、まわって行こうと思います。

今回(1月26日)は湖西連峰の南側、前回の続きをたどりました。
前回の様子 その1→http://blogs.yahoo.co.jp/corsa2003sp/11999116.html
      その2→http://blogs.yahoo.co.jp/corsa2003sp/12165562.html
     
前回の地点に戻るのに今回は別のところからスタートすることにしました。
初めてのところを通りたいのと梅田峠という峠があるということから選びました。
スタート地点は愛知県豊橋市の東端に隣接する静岡県湖西市からになります。
具体的な場所はJR新所原駅の北側、湖西連峰ハイキングコース、梅田登山口からです。
登山口にはトイレもある立派な駐車場が整備されています。
今日は土曜日のせいか、すでに何台かの車があります。
(新所原の駅から歩いてくるハイカーも多いようです)


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山へのスタート地点は、こんな感じで、よく整備された道が続いています。
ギヤ比が低いMTBなら、しばらく乗車していけるでしょう。
自分は、直ぐに、あきらめて無理せず押していきます。


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朝から強い風だったのですが南向きの山に入って非常に静かです。
鳥の鳴き声を聞きながら進んでいたら、あっけなく梅田峠についてしまいました。
ここは4方向に道があります。

画像の左側(東、静岡県側)から登ってきました。
右側奥の道が稜線の道で西、愛知県側になります。


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梅田峠は南側のみ、わずかに展望が開けています。
左手前は「アスモ」、左奥は「鈴木自動車」の工場でしょうか。
遠くは太平洋を望めます。


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梅田峠から稜線上は、いきなり、きつい登りが始まります。
もちろん、登りだけではなくアップダウンで進んでいきます。
こんな感じの乗っていける、気持ちの良い道もあります。


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またまた、現れた、きつい登りを登りつめると、こんな大岩がありました。
ここは「仏岩」といい、上に登ると展望が開けています。
自転車を置いて岩に登っていくと、すでに2組のハイカーが休憩中でした。
挨拶をして自転車を持ってよじ登るルートを探します。

結局、楽ではありませんでしたが手前の岩の右側から、なんとか、よじ登れるコースがありました。


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仏岩からの展望です。
中央の高いビルが浜松のアクトタワーで、手前は浜名湖です。

ここから、少し行くと岩場で乗れず、女性ハイカー3人組と話しながら進みます。

彼女達に「自転車、連れて歩くのは大変ね」なんて言われちゃいます。


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岩場を過ぎて乗れるところがあり(後ろ髪をひかれるも 笑)女性ハイカー達と別れて先を急ぎます。
やっと前回、通った分岐の大岩につきました。
前回は右奥から降りてきましたが、今回は背中側から進んできました。
ここから大岩の向こう側、画像の左側(西側)へ進みます。

西に進んでから、今度は南に下り今回の目標の一つ普門寺という、お寺を訪ねます。


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一旦、普門寺に出たあと、そのまま下りきって山を眺めます。
山の稜線が緩やかにカーブしています。この形が船底の形に似ていることから、
ここは船形山と呼ばれています。

現在の普門寺は、ふもと近くにありますが、かつては、この山全体に約300ヶ所もの
寺院、坊院、付帯施設などがあった大寺院だったといわれています。

1190年、上洛する途上の源頼朝が通った鎌倉街道も、この山を越えていました(普門寺峠)。
その際、源頼朝は普門寺に宿泊したとされています。

さて、一旦下ってきた稜線を再び目指します。
(下ってきた道とは違う道で上ります)


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普門寺の鐘楼門です。
普門寺は727年、僧、行基によって開山されたと伝わっています。
一度、さびれたようですが鎌倉幕府を開いた源頼朝の叔父、化積上人(かしゃくしょうにん)
によって再興されたそうです。

ここには国指定重要文化財の阿弥陀如来、四天王像などがあります。
残念ながら年に二日しか御開帳していませんので今回は、お会いできませんでした。


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山門手前から左に上がると本堂と大師堂があります。
本堂の傍らには樹齢四百年以上という大杉もありました。
画像は1854年建立と伝わる大師堂です。

ここから、元堂跡、普門寺峠を目指し登っていきます。


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本堂からは、ずっと登りが続きます。
階段が作られているように、かなりの急勾配です。

画像の左側は、平坦地になっており、かつて坊院などがあったとされるところです。
このような平坦地がいたるところにあります(寺院施設などの跡)。
山を切り開いて、これだけの平地を確保する勢力のあった寺院だという事がわかります。

あえぎながら登っていくと、仏岩で会った女性3人組のハイカーにまた会いました。
「ご苦労様」、「こんなところで再会とは」と、大ウケしています。
「この先も、ずっと階段ばかりですよ」と、ありがたいような、ありがたくないような(笑)
情報をいただきました。


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元堂跡につきました。
なんと、現在、発掘調査中でした。
実は、ずっと歩きながら「一度、元堂も、ちゃんと発掘調査すればいいのに」と
考えていたので余計に、びっくりです。

普門寺峠北側の鎌倉街道は元堂の裏手を通っていたとのことですが・・・


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鎌倉時代の物でしょうか?かわらが出土しています。


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元堂跡からも、ずっと厳しい登りが続き、やっと普門寺峠に着きました。
中央奥が登ってきた方向(南側)で背中側(北側)に下ります。

道標があるように東西方向の稜線上にも遊歩道があります。
その為、写真を撮っている間にも数組のハイカーと出会いました。
東西の稜線上は、まだ通ったことがありませんので次回の為に
いろいろ情報を教えていただきます。


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さて、普門寺峠から北側に下っていきます。
この道は、かつての鎌倉街道の一部といわれています。
こちら側のルートはハイカーには人気がない様で荒れ気味です。
(画像の、ここはきれいなところ)


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結局、普門寺峠から北側は下りでも乗車率は、ほぼ0%でした(笑)。
高低差のあるところは岩を削って階段状に整備されているところもあります。
いつの時代の痕跡でしょうか。

それにしても、この岩だらけで、きつい場所を源頼朝も馬で通ったのでしょうか。


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やっと、下りきって豊橋市岩崎町に出ました。
手前側に尾根が一本通っていて稜線を隠していますので反対側のふもとから見た稜線とは、
ずいぶん感じが違いますね。
中央が普門寺峠でしょうか、それとも手前の尾根の陰に隠れているのでしょうか。
多分、普門寺峠は尾根の影でしょう。画像中央のあたりは前回下った
無名峠のような気がします。


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岩崎の町を北西に進むと(鎌倉街道もこのあたりを通っていたはず)鞍掛神社があります。
ここは、源頼朝が馬の鞍を寄進したことから鞍掛神社と名前を変えたと伝わっています。
神社の東側100mぐらいのところには頼朝が馬をつないだという「頼朝公駒止之桜」もあります。
ちなみに現在の桜は3代目だそうですが(笑)。

今回のサイクリングは、これで終了です。
鞍掛神社から北東に進むと赤岩寺の前を通って鎌倉街道、乗小路峠に至ります。
(以前越えた乗小路峠の様子は冒頭のアドレス その1にて)

この記事をアップしておいて言うのも何ですが、今回のコースを含む遊歩道
(湖西連峰ハイキングコース、豊橋自然歩道)は季節の良い時期の土日祭日は
さけるべきだと思います。

今回、1月、寒い日の土曜日でしたが10組以上のハイカーに出会いました。
もちろん、ハイカーに気がつけば手前で降りて道の隅によける様にしていました。
そのせいか、ハイカーの皆さんは好意的に対応してくださいました。

ただ、道も険しく狭いところも多いので、やはりハイカーが多くなる季節はさけた方が
無難だと思います。

数年前に豊橋市内の自転車店に古いデローザがあるという話を聞きました。
そこは、大きな自転車屋さんですが、サイクリング車や高級スポーツ車には力を
入れてはおらずノーマーク?でした。
早速、偵察に行くと80年代後半と思われる新車のデローサがありました。
コルサの欲しいデローサは80年代初期あたりまででしたので、そのままになっていました。
(そのお店は80年代後半、高級車や高級パーツを仕入れてみたものの売れずに残っていたらしい)
昨年末、その話を名古屋の知人にするとロード好き(特にデローサ、カンパ大好き)の彼は直ぐに
見に行くといいます。
案内すると彼にフレームサイズはぴったり、部品構成も彼の持っていない年式のカンパという事で、
そのデローサが欲しくなってしまったようです。
いずれにしても資金がないので、その日は帰ってきました。
結局、一ヵ月後、彼は何とか金策して購入資金を捻出(一部は借金らしいが 笑)。
今回、めでたく、ご購入となりました。


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※ブログ容量確保の為、画像を削除しました※

DE ROSA 「デローサ プロフェッショナルC」というモデルです。
当時の輸入元は(F.E.T極東)で定価は50万円!!でした。
カンパの部品は1987年頃の物のようです。サドルの製造刻印も87年でした。
ということで、年式は1987年としておきます。
フレーム、フォークは、もちろんスチールでコロンバス SLXというパイプで組まれています。
メインコンポはカンパニョロ Cレコードになります。
「プロフェッショナルC」としては、初期のモデルですね。
この後、フレームの塗装パターンや部品構成がが若干変わります(値段も91年頃には58万円でした)。


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この頃のヘッドマークは、こんなシンプルなタイプです。


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以前の物と違いフォーククラウンも、この頃は、こんな形になっています。
ちゃんとデローサの刻印が入っています。


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シートステイのフタの刻印は、こんな感じです。


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フォークエンドのリヤはカンパのショートロードエンドでしたが
フロントだけは、なぜか「DE ROSA ITALY」刻印入りのオリジナルエンドです。


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デローサというとBB下のハートマーク型の肉抜きが有名ですが、この頃のBB下側はこんな感じです。
デローサ オリジナルなのか他のビルダーも使っていたものなのかは不明です。
リヤ側に補強(フィン状)の物が付いていてシートステイブリッジパイプは省略されています。
よく見ると、「46」の刻印が見えます。この年の製造ナンバーでしょうか?


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パーツの刻印は、ステムだけでした。
70年代後半のデローサならステム、ブレーキレバー、シートピラー、ギヤ板などに刻印が
入っていた物ですが。(このモデルのピラーはエアロタイプで刻印しにくいですね)
ステムはチネリの「1/A」タイプです。この頃すでに「レコード」に続く新型「X/A」も
出ていたのですが以外にもチネリの古い形の物が付いています。
ちなみに、90年頃のプロフェッショナルCは「3TTT」にメーカーが変わっています。


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RDは通称、C RECORD(Cレコード)です。
1985年のカンパのカタログを見ると「RECORD corsa group」と書かれています。
このCレコRDは2型になります。
最初期はダブルテンションでしたが、この2型はシングルテンションに変わっています。
ダブルかシングルかは、この角度からは、ほとんど判りません。
ただ、ダブルの調整ネジはマイナスネジだったようです。


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好みが別れるデルタブレーキです。これも2型ですね。
1型は何らかの問題があったようで販売後、回収されています。
(一部は販売されてしまった)
画像のタイプが正式に?販売された最初の型のようです。


※ブログ容量確保の為、画像を削除しました※
タイヤはビットリアが付いています。
コルサCX「CORSA CX SQUADRE PROF」は当時の定価11000円です(1本)
さすがに、20年も経っていますから使えません。これは保管ですね。


※ブログ容量確保の為、画像を削除しました※
リムはアンブロッシオ メタモフォーシスでこれも当時1ペア、32000円という超高級品でした。
この頃、デローサで組まれたホイールには(DE ROSA CORSE)の文字がある右端のステッカーが
貼られています。
ちなみに組み方は前後とも、俗に言う?「イタリア組み」の完全に逆でした。


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先に部品の刻印はステムだけだったと書きましたが
シリカのポンプにも刻印がありました。


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※ブログ容量確保の為、画像を削除しました※
ボトルにも、もちろんマークがありました。
裏表?で若干デザインが違うんですね。


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バーテープ?は当時の高級車に流行していた「ALMARC」です。
革製で、いかにも高級そうで高そうです。



このデローサを手に入れたT君は、未使用車とはいえ20年も経っていますから
しばらくオーバーホールと磨きに忙しいことでしょう。

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