コルサの毎日がヒルクライム

'''サンツアーRD その3’’’

手持ちの整理のついでに、各モデルを紹介させていただこうと思います。
思いついたままに書いているコメントの中には私の勘違いもあるかもしれませんが
温かく見守ってやってください(笑)。
(間違いなど、ありましたら、ご指摘いただければ幸いです)


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サンツアー サイクロン セット。RDは皆さん、おなじみ、ロングケージのGTタイプ。
注目していただきたいのはFD。羽根の先端にワイドギヤ用の専用アタッチメントが
取り付けられています。
これによってワイドなギヤに対応しようとした物。これが結構、うまく出来ていて
ずれたりせず、ぴったり位置が決まるように作られている。
多分、この小物を最初からFDにセットして販売していたわけではなく部品単品で
オプションとして販売されていたのだと思います。
この状態のFD を当時、使用した方に話を聞いたところ、
「これをセットすると、わずかにFDプレートの間隔が広くなりシフトレスポンスが落ちた」
ということでした。
この小物も、ずっと探していたのですが長い間、見つかりませんでした。
数年前、シクロジャンブルで見つけた時は嬉しかったですね。


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初代シュパーブRD-2100と初代シュパーブ プロRD-3100。
左が初代シュパーブ。両者とも基本的な部分は一緒だと思います。
右の初代シュパーブ プロは上下のボルトがアルミ製になっています。
その他、プーリ-ボルトがアーレンキ式のアルミ製に変わり、それに合わせて
プ-リーケージの形状もわずかに違っています。
あと、ワイヤー固定ボルトの形状も違っていますね。ともに1982年前後ぐらいでしょうか。

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シュパーブ プロRDとシュパーブGT RD
左は85年頃のシュパーブプロRD-5200。
右は、ほぼ同じ頃のシュパーブGT RD-5800。
シュパーブGT RD-5800は、サンツアーカタログで掲載されている物を見た事がありません。
当時、販売されている物も、見た事がありませんでした。
一度だけ、サイクルスポーツ別冊のオールカタログに不鮮明な白黒写真が載っているのを見た事がありました。それも価格が書かれておらず(他のモデルには価格が入っていたのに)、その為、本当に市販されたのか、長い間、疑問に思っていた。
ところが、数年前、とあるショップの倉庫の中から箱入りの、このRDを見つけ、販売されていたことがわかりました。
このRDも見つけた時は、本当に嬉しかったですね。

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シュパーブGT RD-5800(前述の物のアップ画像)
シマノは最初のデュラエースシリーズに「クレーン」というRDがありGTタイプを用意していたが、その後のデュラエース、デュラエースEXなど、高級グレードにはGTタイプを用意していなかったと思う。その点、サンツアーは、この時代までトップモデルシリーズのシュパーブにGTタイプを用意していたのだなーと思う。

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サンツアー グランテックRD-4700(1985年頃)
これは前代未聞の本体シールド型?RD。
悪コンディションに強いという、ふれこみだったと思いますが・・・。
操作はアウターなしで前方からインナーのみで作動させるタイプ。
シュパーブテックという名前のモデルもありました。
詳細を見比べたことは有りませんが多分、グランテックもシュパーブテックも製品構造は
まったく同じ物だと思います。
(グランテックの名称がどこかの商標にかぶっていたのでは?BS?)
GTタイプもあったと思うが、両方とも、ほとんど売れなかったと思います。
なぜか、非常にそっけない白いパッケージ。



今回でサンツアーRDシリーズは終わるつもりでしたが、思いの外、古いサンツアーの変速機が残っていましたので、「その4」で、紹介させていただく予定です(時期未定)。「その1」の集合写真には写っていない古いものばかりですよ。

全日本ラリー選手権第10戦が(11月10、11日)愛知県新城市で行われました。

このレポートは土曜日の桜渕公園の様子です。
残念ながら本気で走るSS(スペシャルステージ)及び日曜日のイベントは
見にいけませんでした。
また、しょぼいデジカメ(ズーム率が低い)しか持って行かなかったので、
迫力のある画像はありませーん。

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スバル インプレッサ
これから始まる本番前にトラブルを心配してか走りに
迫力がありません、残念(笑)


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ランサー エボリューションは
観客サービスの走り。
ランエボは参加台数が多い車輌です。


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日本ラリー界のカリスマドライバー、篠塚健次郎氏と私、コルサ。

コルサは今年、スポンサーの関係で乗るラリー車がなく、しかたなく観戦に(もちろん、冗談ですよ~)

後ろの車は若かりし頃、篠塚氏も乗ったランサーGSR。この車はコルサの友人、「ランサーS木氏」の所有(数台のランサーを、お持ち)
ランサーS木氏は三菱旧車乗りで知らない人はもぐり?といわれるくらいの方です。
篠塚氏はデモ走行、トークショーの合間に旧車会のブースに遊びに来てくれました。
そのおかげで、ゆっくりお話も出来ましたし一緒にカメラに収まる事が出来ました。
(篠塚氏は撮影会では大人気で順番待ちの人並みが切れることはなく全員にはサービスできなかった)



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ランサーGSRと篠塚氏の走り。
この車輌は旧車愛好家の個人所有車輌。


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新型スバル インプレッサ。
PWRCでポイントリーダーの荒井選手のデモ走行。


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こんな車も出ています。FF、ホンダ インテグラ タイプR。


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こんな車も出ています。トヨタ セリカ。


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こんな車も出ています。ミドシップのトヨタMR-S。

これ、以外に珍しいところでは「ロータス エキシージ」が参加していたのですが
土曜日には見当たりませんでした。
(日曜日に見に行った友人から報告有り)


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世界で戦うランサーWRCカーのデモ走行。
市販車とは、まったく違います。
左ハンドルとはいえドライバーの姿が見えませんし見えるハンドルの位置も後ろ過ぎます。
重量配分の良好化の為、ステアリングコラムは延長され乗員は極端に後ろに座っています。
ナビゲーターなどは、ほとんど後部座席に近い?ちょっと大げさですがドライバーより更に後ろです。


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ランサーWRCカーのコクピット。
ごっついロールバー、カーボンだらけの内装。ステアリングコラムが延長されているのがお判りになりますよね。
またインパネに「N」の文字が見えますか?これはギヤポジション表示でニュートラルの意味。


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新型スバル インプレッサ
フロントデザインは・・・新型も好みが別れますね。


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地元の三菱は歴代のラリーカーを展示。
(もちろん、新型ランサー エボリューションⅩも展示売込しています)
奥から1974ランサー(サファリ)
中、1985パジェロ(パリダカール)
手前、1984スタリオン 4WD
スタリオンは市販車とフロントが全然違いますがベース車を思い出せますか?
そうです、市販車はもう少しノーズが長くリトラクタブルヘッドライトでしたね。
市販車もレアーな一台です。覚えている人も少ない?(コルサはスタリオン大好きです)

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こちらは、三菱旧車愛好家のブース。個人所有の車輌です。
手前の白い車は前述の「ランサーS木」氏の愛車の中の一台。
良く見るとこの車はオープントップ(屋根がキャンバスであく)に改造されています。


※皆さんがラリーカー以上に期待?する「キャンペーンガール」「レースクイーン」+コルサの
 画像は残念ながら諸事情により封印されています(爆)

清崎の集落と海老の集落の間にあるのが与良木峠です。
(東栄町などにも同名の峠が有ります)
峠には明治時代に出来たというトンネルがあります。しかし現在は田口鉄道、廃線後(昭和43年廃線)のトンネルを拡張して作られた稲目トンネル(昭和53年開通)が主要道路になっており、与良木峠を通る車は、ほとんどありませんので静かな道です。
静かな道ですし清崎側からは緩斜面で登っていきますので標高差の割りに気持ちよく登れる峠道です。


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順調に峠のトンネルに着きました。画像は雰囲気のあるトンネル南側から北側を見たところになります。
トンネルの上にも旧道跡が残っていますが、実際の与良木峠は、ここから尾根伝いに更に東に行ったところにあります。


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トンネルの上の旧道の様子です。ここには馬頭観音が、ひとつだけあります。
(画像、向かって右側)
年代は判りませんでしたが建てたのは「その2」の石畳を下りきったところにあった東田内村の久屋利右衛門という人のようです。


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与良木峠へはトンネル南側から東側へ、荒れた田畑跡の脇を進んでいきます。
途中、アケビ?の皮が散乱していました。甘い種子の部分がないところを見るとサルか何かが食い散らした跡かもしれません。


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ここが峠を登りきる直前から東側を見たところです。
山深い静かな雰囲気の道を登りきると・・・

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登りきった途端、突然、多数の石仏群が目に入ってきて驚きます。


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まず、広場、一番西側の天保時代(江戸時代)の馬頭観音など。
この画像後方に写っている石仏なども全て天保時代の物のようです。


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そして、これは、どういったものでしょうか。


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とにかく、おびただしい数の石仏群です。
これは、昔、商人達がこの街道を通る人々の安全を祈り、お金を出し合って
寄進したものだと伝えられています。


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峠の広場、一番、東側にある石仏群です。
年代はほとんど読み取れませんでしたが「彫り」が立派な石仏が多く見られます。


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石仏群のアップです。いろいろな形の石仏がある事がお分かりになるかと思います。


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こちらは、峠の広場から、少し下った、ところにある石仏。


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こちらも少し離れた、ところにある石仏。こちらは大正八年三月の文字がはっきり読み取れます。これが、見つけた中では一番新しい年号でした。
前述のトンネルが出来たのが明治26年と聞きますが、その後も、この峠はしばらくの間、
利用されたのでしょうか。
峠には130年ほど前、「ますや」「すしや」という2件の茶店があって大変にぎわったと峠の朽ちた案内板(連谷小学校名で)にありました。看板は、かなり古そうでしたので140年以上前になるかもしれません(笑)

峠の南側は、すぐ下まで車で来ようと思えば通れる道がありますが(峠、直下南側にも民家があります。現在は廃屋のようです)、非常に狭く急な道ですからから地元の人も登ってくる人は、まずいません。
今回は、旧道を途中まで下ってから明治に改修された道に出て帰ることにしました。


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これは、かしやげ峠に向かう際、連谷小学校(れんこく、と読むらしい)北側の
急カーブのところで写しておいた画像です。
ここからが伊那街道、与良木峠への南側登り口です。
画像の右手に進むと、かしやげ峠、仏坂峠に至ります。左手に行けば海老の集落方面です。
与良木峠を南側から見ている画像ですが峠付近にも家があるのが、お判りになりますか。
かなり険しいルートである事が、この画像から感じていただけるでしょうか。


その1で越えた、かしやげ峠からなぜ、江戸時代に、こちらの与良木峠に主街道が移ったのでしょうか。
以前から疑問だったのですが、先日「愛知の歴史街道 中根洋治著」を読んでみると、このような記述がありました。(下記、要約)
「与良木峠は約410m、かしやげ峠は標高480mと標高に差がある。登りは与良木峠から石畳の道(その2 アンザの道)を利用し下りは、かしやげ峠を利用した時代があったかもしれません。川の水量の多い時は石畳の道は沢沿いで通りにくく、山の中腹を進む、かしやげ峠を選んだとも考えられます。いずれにしても石仏などの年代から同時代に使われており、道幅からかしやげ峠のが古いのではないか」

この記述を読み疑問だったことが、ほぼ納得出来る答えを得た気持ちでした。

「その1」につづいて伊那街道の旧道をたずねます。

その2では江戸時代以降の伊那街道の一部「アンザの坂」の様子をご報告します。
このルートの探索は北の田口地区より南下しています。


さて国道257号線を登り田口の町に着きました。
アンザの坂は与良木峠の北、清崎から田口への片峠で
現在の国道257号線の西側の沢伝いにあります。
まず、田口から旧道入口の部分を探して道に迷います(今日は本当についていない)。
国道から、第一候補の林道 「本町萩平安沢線」に入ってみます。
結果的には、ここが伊那街道で間違いなかったのですが、街道はこの林道からすぐ途中で
左手に別れていきます。
ところが標識もない、民家の間の、ごく細い道で気がつきませんでした。それで、そのまま、
山林に迷い込んでしまいます。
道もなくなり山林に入ると、人が歩いた跡が続いています。自転車を置いて、あちこち、
偵察に行きますが、どう考えても地形が違います。林道を少し戻って別の道を探します。
やっと見つけた街道は第2候補の「上原根ノ後林道」から入ったところでした。

現在の田口は役所も置かれ、このあたりの中心地となっていますが、江戸時代には、
このあたりは高原湿地?だったという話も有り「田口」の地名はなかったそうです。
そうはいっても萩平、中嶋、東路、西路という四ヶ所に別れた地名だったという
明治の初め頃には馬宿が7軒ほどあったそうで、やはり、にぎわった町だったようです。


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田口から、ほとんど標高を稼がずに、すぐに峠がありました。ここからが
「アンザの坂」とよばれる、いわゆる片峠です。
ただ、アンザの坂は峠道全体の呼び名ではなく、後述の途中の部分を呼ぶとの説もあります。


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峠から南に少し下ると、道端に、こんな石仏がありましたが残念ながら
年号などは確認できません。


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石仏のすぐ近く、道から少し入ったところには、祠に入った石仏がありました。
この石仏は何を祭っているかわかりませんが、まわりが湿地帯で水源のような地形ですから
それに関係する物かもしれません。


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峠から舗装の林道を下っていくと右に分かれる旧道があります。
分かれ道から石畳になっていますが入口付近は平成になってから石畳を
整備しなおしたとの事でした。
そこから100mちょっと下ったところ、あたりから当時の石畳がそのまま残っています。
これは江戸時代頃、峠道の難所を人馬が通りやすくするように石畳に
整備したところだそうです。
この石畳あたりを「アンザの坂」と呼ぶという意見もあるようです。
(いずれにしてもアンザの意味は、自分には不明)


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結構、石畳が荒いところもありますが、ここはかなり綺麗な石畳になっています。
沢に沿っていますので、大雨などの時や長雨の後は通行に支障が出たとも考えられます。


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人馬の通行の為に整備した石畳だそうですが
「靴底に金具の付いたMTBシューズとクロカン車」には、あまり優しくない道でした(笑)。


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ここが「大曲り」と呼ばれる、難所です。ヘタな画像で判りにくいですが
画像の右側下手前から登ってきてカメラの前でぐるっとカーブして画像左に一旦より
右上へと登ります。
そこから、また折り返して画像上部左側へと道が抜けています。
狭く、険しいので荷物を積んだ馬も大変だったでしょう。


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「安沢の石橋」というところです。
沢を平らな大石で橋にして渡っています。
画像は橋の下が真っ黒ですが、これは上流側に木の枝などがひっかかり
ふさいでしまっている為です。


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橋の近くで、おもしろい植物を見かけました。
サトイモ科の植物「マムシ草」の種子だと思います。


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あまり尋ねる人もないのか結構、道は荒れています。
倒木の下に風化してしまった馬頭観音などもあります。


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途中、所々、広い道が残っています。
このルートで一番状態の良いところはこんな感じです。
この後、下ると、また道が荒れてきます。


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途中、東側の沢に、簡単な橋がかかっていますが、どんどん旧道跡を捜して沢伝いに
下ります。
この辺りから、かなり荒れて道がほとんど消えかかっています。踏み跡も、
判らなくなくなるところもあります。
「あれー前方に堰堤が!!なんで!!」
堰堤の先にも、わずかな道跡がありますが、旧街道の跡ではないようですし、
(堰堤下から、しばらくは旧街道の跡は失われている様子)
自転車を持っていけるような傾斜ではありません。
ここで、先ほどの橋の意味がわかりました。
あの橋で現在の国道に出ろ、ということですね。とほほ。


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やっとのことで橋まで戻りました。
ここから、国道まではかなりの急斜面で自転車を担いでなくても楽ではありません。
自転車を引きずるようにして、必死で登っていきます。
国道に出て南に下れば、すぐに清崎の町に着きます。
現在の国道にあたる道は明治時代に清崎から田口まで改修されたとの事なので
その頃から今回下ってきた石畳のある旧街道は使われなくなってきたのかもしれません。


さあ、清崎の町から今度は与良木峠に向かいます。

その模様は その3にて。

伊那街道 その1 かしやげ峠

記事が前後しましたが11月2日に伊那街道を訪ねました。
(信州街道、三州街道とも呼ばれる)

伊那街道は現在の愛知県豊橋市(三河地方)あたりから最終的には信州伊那谷(長野県)につながる街道です。
今回、訪ねたのは豊橋方面から新城地区を通り山間部に入って最初の難所だったところです。

その1では江戸時代まで良く使われた「かしやげ峠」周辺の様子。
その2では江戸時代以降の伊那街道の「アンザの坂」の様子。
   (アンザの坂は与良木峠の北、清崎から田口への片峠になります)
その3では江戸時代以降「かしやげ峠」に、かわって使われるようになった「与良木峠」周辺を、ご報告いたします。。

行程の都合上、かしやげ峠は南から北へ。
アンザの坂と与良木峠は田口地区より南下しています。

かしやげ峠は江戸時代前期まで良く使われた峠で戦国時代の伊那街道とも言われます(地元では、「かしゃげ」とも呼ぶ)。
1573年、現在の新城市野田城を攻めていた際、病気になった武田信玄が甲斐に戻る際、越えたといわれています(鉄砲で撃たれたとの説も有り)。峠の北にある田口、福田寺には信玄の墓もありますし、更に北の津具地区には信玄塚などもあります。


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海老の集落(かつて馬、荷車の中継地だった交通の要衝)を出発して、しばらくすると県道沿いに馬頭観音などが、たくさんあります。
ただ、元々、ここにあったものだけでなく、近隣の道路工事の際に
ここに移設された物も多いのではないかと思われます。


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海老の集落から四谷地区に登り、すっかり、刈り入れの終わった棚田を眺めます。
向かって右側の鞍部が海老街道の仏坂峠方面になります。
(海老街道は、その先で別所街道に合流し信州に続く旧街道)
本日の目的地、かしやげ峠は向かって左側になります。


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仏坂峠に通じる車道から旧道(車輌行止り)に入ると、祠?石仏などが目に付きます。
ここでは明和、元禄(ともに江戸時代)などの年号が確認できました。


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なかには、こんなデザインの物も。


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長い歴史を持つ旧道らしく、あちこちに石仏が見られます。
後の画像の脇道も気になります・・・

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車道が行止りになり山道に入ると、すぐに東海自然歩道に合流します。


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東海自然歩道は、おおむね、こういった感じの道が続きます。
ただし、この部分は旧伊那街道ではないと思われます。
(ただし、仏坂峠からの道が古くから有った可能性はあり)
本来の伊那街道は民家の入口から、すぐ脇を登るので通行は遠慮しました。


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民家の脇を急登する旧道の上に出ると、こんな景色が見られます。
今回は前述の通り民家側は遠慮し東海自然歩道側から、回り込んでみました。
秋らしい、柿の枝越しに棚田を眺められます。
(このあたりの柿は品種改良された木ではないようで小粒のものが多数なっています)


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東海自然歩道が旧伊那街道と合流した旧道の様子。
長く使われた旧道らしく深い掘割になっており石段、石垣など整備されています。


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かしやげ峠に着きました。南から北側を眺めます。
東海自然歩道は、ここから右に折れて鞍掛山方面にいきます。
(以前MTB で行きましたが辛かった。乗車率5%以下?)
左には清崎の集落に下りると聞く旧道がありますが、まだ訪ねたことはありません。
峠右手に、いくつかの石碑、馬頭観音などがあります。
ここは「戦国時代の伊那街道」ともいわれますが石碑などには江戸時代の天保等の年号が
読み取れますから江戸時代に入っても使われていた事がわかります。


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峠から北に抜ける旧街道は、おおむねこういった感じのルートでMTBでテクニックのある人なら
8割ぐらいは乗車していけるでしょう。
自分は、テクニックがないしクロカン車だったので、無理せず乗ったり降りたりして行きます。
(結構、左の斜面が急なところがあり、万一、落ちるとやばそうで)

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今回は旧道から、はずれ前回と違う道で下ってみようと思います。
峠から少し下った別れ道を西に向かいます。たぶん、ここも清崎に向かうはずだと思いますが。
初めは、こんな感じで、いい雰囲気?の道が続きます(今になってみると、すでに踏み跡も薄れ怪しいが)。


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ところが、しばらく、急斜面を降りていくと谷底に出て完全に道がなくなってしまいました。
自転車を置いて、あちこち偵察に出ますが、まったく道の痕跡はありません。
しかたなく、もと来た道を引き返すことに。
ただ、かなり下ってきた事を考えると気分がしずみます。

ところが!!下ってきた道すら、良く判りません、正直、かなり、あせリを感じて
汗が冷えたわけでもないのに悪寒が走ります。


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山林を道を探して迷っていると思わぬ光景が。
まったく予期していなかったガードレールが斜面の、かなり上に見え隠れしています。
そこまでも道はありませんし、かなり荒れていますが何とか登れそうです。
やっとの思いで荒れていますが舗装された林道に出る事が出来ました。
正直、「無事生還」といった感じでした(大げさ過ぎる?)。
この道は、峠の北側へ下る旧道を行けるところまで行って、旧道を見失うところから下ってくる道で
一度走ったことのある林道でした。山の中で方位を完全に失っていたようです。

このあと清崎から旧街道に、ところどころ、かぶっている林道を探しながら塩津地区に抜けるつもりでしたが残念ながら道路崩壊で通行止めとの事で断念しました。
しかたなく新鮮味のない(車で良く通るので)国道257号線に迂回して田口の町を目指します。

※その2、その3に続きます。

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