その1より続く
(その2)で回ったところ
鳶ヶ巣山砦 ~ 鳥居強右衛門磔死之跡碑 ~ 新昌寺にある鳥居強右衛門の墓 ~馬 場美濃守信房の墓
~ 小山田五郎兵衛昌晟之墓 ~ 横田十郎兵衛康景之碑
(その2)で回ったところ
~ 小山田五郎兵衛昌晟之墓 ~ 横田十郎兵衛康景之碑
ちょっと画像ではわかりにくいのですが現在、段々畑のようになっているのは
武田軍が構築した防御の為の「切岸」だといわれています。
武田軍が構築した防御の為の「切岸」だといわれています。
長篠城攻撃の為、想像以上に大規模な、このような工事が行われていたとは驚きます。
ここに武田軍の砦があり武田信玄の弟、武田信実などがいましたが、
織田軍の酒井忠次による奇襲攻撃により討ち死に。
残念ながら杉林になってしまい、まったく見通しがありません。
合戦当時は切り払われて長篠城が良く見えたことでしょう。
画像のように地面が平らにならされているのは砦を構築した際の作業によるものかもしれません。
実際、まわりを歩いてみると自然の地形とは思えず人の手が入っていることを感じさせます。
画像のように地面が平らにならされているのは砦を構築した際の作業によるものかもしれません。
実際、まわりを歩いてみると自然の地形とは思えず人の手が入っていることを感じさせます。
中央付近に見える町並みの、やや左よりに長篠城があるのですが
手前の樹木で残念ながら見えません。
手前の樹木で残念ながら見えません。
帰ってきてから知ったのですが(残念)鳶ヶ巣山の中腹、やや西側からだと
現在も長篠城が見渡せるようです。
いずれ、もう一度登って「切り岸」を確認しながら展望を見てきたいと思います。
現在も長篠城が見渡せるようです。
いずれ、もう一度登って「切り岸」を確認しながら展望を見てきたいと思います。
画像の中央、やや手前寄りにある、こんもりとした森が大通寺のあるところ。
大通寺山にも武田軍陣所があったらしい。
ここは、もう長篠城と接していると言っていいほど近い。
大通寺山にも武田軍陣所があったらしい。
ここは、もう長篠城と接していると言っていいほど近い。
「一筆啓上 山火事注意」と、あります。
この文面を見て「にやり」としたあなたは、さすがです。
この元ネタは長篠の戦いに参加した徳川方の武将「本多作左衛門重次」の有名な手紙でしょう。
「日本一短い手紙」?として知られる、この手紙は長篠の戦いの陣中から妻あてに書いたものです。
その手紙を、ご紹介しましょう。
「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」
この手紙を元ネタにした地元、「新城市消防本部」「新城防火協会」 なかなか、やりますね(笑)
「長篠の戦い」「設楽原の戦い」は織田信長が大量の鉄砲を効果的に使い、武田勝頼の
騎馬隊を打ち破り大勝したことで知られていますが、この合戦には、
もう一人重要な人物が存在していました。
騎馬隊を打ち破り大勝したことで知られていますが、この合戦には、
もう一人重要な人物が存在していました。
詳しくは画像の文面を読んでいただければと思います。
このあたりで、磔にされたようです。
鳥居大権現の文字もありました。
馬場美濃守信房は敗走する武田軍の殿(しんがり 最後尾のこと)を務め
大将勝頼の退却を見届けた後、戦死。
大将勝頼の退却を見届けた後、戦死。
実際に討ち取られたのは、もっと北の方で、そちらにも墓があるそうです。
ここには首が葬られているとのこと。
ここには首が葬られているとのこと。
「小山田五郎兵衛昌晟之墓」
「横田十郎兵衛康景之碑」
不勉強で良くわからないのですが武田軍家臣で長篠城の南西側を監視して武将のようです。
今回の長篠付近、探索はこれで終了。
次回は、今回見逃した場所+いよいよ、両軍決戦の古戦場に行く予定です。
次回は、今回見逃した場所+いよいよ、両軍決戦の古戦場に行く予定です。
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