2月28日は仕事が豊川市で11時頃終わりました。

早速、車で移動、その後、自転車に切り替えて「長篠の戦い」の主戦場になった
場所を探索してきました。

以前、訪ねたのは長篠城と武田勝頼本陣を中心とした地域でした。



今回は、織田信長が鉄砲を使った新戦術で武田騎馬隊を破ったことで有名な戦場を
中心に回ります。
(歴史好きでも、普通の人はあまり回らない様な所ばかり・・・)

主戦場となった現地は「設楽ヶ原決戦場」と呼ばれます。
北から南へ連呉川が流れこの川をはさんで東に武田軍、西に織田、徳川連合軍が布陣しました。
現地の地図(主戦場、南北の中心あたり)→



今回は主戦場を南側から北側に見ていきます。



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一番南側の戦場といって良い「勝楽寺前激戦地」
やや右寄りの森に勝楽寺があり武田軍の「山県昌景」の軍が布陣していたと言われます。



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勝楽寺前激戦地から、やや北上したところの「竹広激戦地」
右手が武田軍側陣地、左手が織田徳川軍側陣地になります。



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武田軍「山県昌景」の陣地があった丘の上近くから見た織田徳川軍陣地方向
(国道工事で様変わりしようとしています)

丘の左端が「徳川家康の物見塚」と言われるところでです。
(ここは断上山古墳群9号墳でもあります)
この物見塚の奥(西側)に徳川家康の戦地本陣がありました。
織田信長は開戦、直前、ここより北側に置いた自らの本陣から移動して、
ここで指揮をとったといわれています。



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「徳川家康の物見塚」から「竹広激戦地」を見降ろしたところ。
向こうに見える丘に武田軍が布陣していました。
現在、水田になっているところで両軍の激しい戦いが行われたのでしょう。



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同じく「徳川家康の物見塚」から北側、「柳田前激戦地」方向を見ます。
中央の連呉川をはさんで両軍が布陣していました。
ここから、更に北まで戦場が広がっていました。



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ここが先の地図アドレスの中心あたりです。

ここには長篠の戦で有名な「馬防柵」が再現されています。
画像は馬防柵の内側から武田軍陣地方向を見ています。

この柵で武田の騎馬隊を食い止め、柵の内側から鉄砲で狙い撃ちしたと言われています。

また、よく新戦術「鉄砲の三段撃ち」と言われますがコルサは
「三段撃ち否定説」を支持しています(笑)
その理由は・・・長くなるので・・・


ところで、三段撃ち否定説とは別の話ですが・・・
鉄砲三千丁を撃ったという話の割には現地で弾丸があまり見つからないといわれています。
資料館を作る際に地元農家などにも、弾丸の提供を依頼したそうですが弾丸は、
ほとんど見つからなかったそうです。
(地元、農家に弾丸を保管していた家はほとんどなかった)
それで、実際の戦いでは実弾はほとんど使われず、空砲だったのではと言う説もあります。
その理由として実弾ではなく空砲を撃つだけでも馬が銃声に驚いて制御不能となり武田騎馬隊を
混乱させる効果が十分あったという意見です。
当時の金属製の弾(銅、鉛などを使用)は高価なものだったと思われ多量に使うには強い経済力が
必要だったはずです。その為、粘土などを固めた弾も使われたと言われています。

ただ、戦いがあったのは400年も前のことです。最近の調査で地元の農家に弾が
伝わっていない(また、最近、周囲を掘り起こしても出てこなかった)からと言って、
金属製銃弾が、あまり使われていなかった決め付けるのはいかがなものでしょうか?
空砲だけで武田軍にあれだけの被害が出たのでしょうか?
(一説には武田軍だけで一万人ほど戦死したという)

戦いから何百年ものあいだ地元の農家が耕作して見つけた弾は江戸時代頃までの
田舎では貴重な金属だったはずです。
多少でも価値があれば売られてしまうでしょうし利用されてしまった
のではないか?(それで現在に伝わらなかった)とコルサは考えているのです。



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武田軍側から見た馬坊柵
馬坊柵だけではなく背後の丘にも土塁、切岸、空堀などの決戦に備えた築城跡が
残っていると言われています。
(その後の耕作による地形なのではという説もある)

織田信長が武田勝頼と主力決戦を前にして僅かな期間で十分な準備をしていた事がうかがえます。
(馬防柵の丸太も岐阜から兵が運んできたという説もある)



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戦場の北側、「大宮前激戦地」水田の中に、まるで古墳のように突き出た
「丸山」から南側を見たところ。

丸山陣地は両軍の対峙した中間地点といえる位置にあり、
開戦時、織田徳川軍の「佐久間 信盛」が布陣していましたが後に
「馬場 信房」に奪われます。

画像の右手の丘に織田の主力軍が布陣、左手の山には武田軍 内藤昌豊らが布陣していました。
また、戦闘中は武田勝頼が戦地本陣より、移動して、
この画像、左手の丘(画像には写っていない)で観戦したといわれています。



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「丸山」から北東の方角を見たところ。
このあたりが武田軍の右翼の端で「馬場信房」の軍が布陣していたところ。

武田軍は、この画像の左奥方向に敗走していくことになります。
武田軍の「しんがり」をつとめた「馬場信房」(信春)は勝頼の撤退を見届けた後、
この先で戦死します。



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織田徳川軍陣地となった弾正山から北西、大宮川を越えた方向の茶臼山に織田信長の
戦地本陣がありました。
画像は石座神社の南側から織田信長の本陣、茶臼山を見ています(中央)。
そして、更に、その右手側奥に「羽柴 秀吉」(木下 秀吉)が布陣していました。



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現在、茶臼山には山住稲荷社が祭られていました。

ここに織田信長は戦地本陣をおき、北側に羽柴秀吉を従え主戦場に望む弾正山に徳川家康を
配したことになります。
前述した通り、開戦直前、信長は家康本陣に移動、指揮をとったと言われています。
確かに、ここでは主戦場からはやや遠く戦況がつかみづらいと思われます。



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茶臼山にはわずかな期間に主郭、腰曲などの本格的、築城工事が行われていたと言われています。
山中に見られる、このような地形は当時の築城工事の名残でしょうか。



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3枚(前)の画像で眺めた秀吉陣地に登ってみます。
この辺りが秀吉陣地だったようです。
画像の背中側の山林も不自然に?平らになっていますから陣地構築の跡かもしれません。
主戦場方向は現在は竹やぶで見通しは悪くなっています。



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秀吉陣地から少し下ったところ(中腹)から眺めた主戦場方向。
中央付近を横切るのが織田徳川軍の主力が布陣した弾正山あたり。
更にその先が設楽ヶ原決戦の主戦場です。

画像には写っていませんが、すぐ右手に信長戦地本陣の茶臼山があります。
また左手にも織田徳川軍が布陣していたといいます。



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「信玄塚」
戦が終わり、村人が村に戻ると多くの戦死者の屍が残されていました。
村人が戦死者を手厚く葬ったと言われるのが、この「信玄塚」です。
画像は「大塚」で、すぐ近くに「小塚」もあります。
ただ、この二つの塚だけでは武田軍だけで一万人ほど戦死したという戦死者の、
ほんの一部しか葬ることは出来ないでしょう。
名もない兵士を葬った現在には伝わっていない埋葬地が、あったのだと思いますが・・・
(設楽ヶ原地区周辺には名のある武将の墓は点在しています)

長篠の戦いの時には、すでに武田信玄は病死しており武田勝頼が総大将でした。
しかし、なぜか、この塚には「信玄」の名前が付けられています。
武田勝頼は、ここ長篠で大敗していますが、それまでには多くの武功をあげており、
けして実力のない武将ではなかったと言われています。
しかし、武田軍といえば、
やはり偉大な「信玄」の事が思い浮かび、このような名前が付けられているのかもしれません。