今回は4月16日、会社帰りに訪問したまま記事をアップしそこなっていた
ネタを取上げます(笑)



豊橋市から蒲郡市方面に向かう時、よく通る国道23号線の脇に気になる神社があります。
そこで、仕事帰りに探索してきました。



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この神社は「引馬神社」(ひくまじんじゃ)といいます。

国道23号線に沿って南向きの鳥居があり、そこから境内に入り進んで行くと
90度曲がって東向きの鳥居があります。
(画像は東向きの鳥居)

面白いのは、この画像の向かって右側奥の反対側にも次にアップしますが立派な
鳥居があることです。
(中心線は、ずれるが東にも西にも立派な鳥居があることになるのです)



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これが西側にある立派な鳥居。
この画像の向かって右手、東向きに社があります。
(前の画像の反対側から見ていることになります)



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神社については、不勉強で良くわかりませんので画像にて。


案内板の最後に「その他」とあり「斉藤茂吉の筆跡による万葉碑」があるとありますね。
早速、境内の「万葉碑」を探してみます。



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ありました、ありました。
これが「斉藤茂吉の筆跡の万葉碑」ですね。

えー、なんて書いてあるのか良くわかりませんので案内板の画像を(笑)



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この句は持統上皇行幸の際の、お供した二人のものだそうです。

案内板には・・・・
「この2首の地名については現在御津町所在説が有力である」とあります。

ここで言う地名とは「引馬野」(ひくまの)の事です。
神社の名前が引馬神社と呼ばれるように、この辺りには引馬の地名が残っています。
そう言えば句の中の「安礼の崎」という地名も、現在の、この近辺にあります。

上記の説に対しては異論もあります。
これは賀茂真淵が「万葉考」のなかで「この句の地名は静岡県浜松市の引馬町」である、
といった説を唱えているからなのです。



先の案内板、「万葉遺跡引馬野」の中に持統上皇行幸と書かれていましたが、
すぐ近くに持統上皇行幸の際の行在所跡という場所もあるそうですから
探しにいって見ました。



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ここですね。
場所は先ほどの引馬神社のすぐ東側を流れる音羽川右岸にあります。


「持統上皇行幸」って「何」?といわれる方もいるかもしれませんので
不勉強ながら簡単に、ご説明を・・・


有名な645年の「大化の改新」で一部の豪族に独占されていた政権を取り戻し天皇を
中心とする中央集権国家の樹立が図られました。
その後、地方行政区画の整備が勧められ、愛知県の東三河地方も、それまでの三河国と穂国
(大雑把に言えば現在の豊橋市と豊川市を中心とした場所だったらしい)
が合併され「三河国」(みかわのくに)となりました。
三河国にも国府が置かれ国司が赴任しました。


この行幸で三河国とその周辺の諸国に対し、天皇の権威を示し律令制支配の強化を
計る事がねらいだったと言われているようです。
ちなみに国府の近くには国分寺、国分尼寺、三河国の総社なども置かれていたそうです。



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河口の堤防から引馬神社を眺めてみます。
右手の森が引馬神社です。

画面の右側に画像からは切れていますが音羽川が流れ込んできています。

中央奥、山のふもとあたりが国分寺、国分尼寺、三河国の総社などがあった場所です。
(現在、国府という地名の場所がありますが国府自体の場所は特定できていないようです)
(今、地名で国府と書くところの現在の読みは「こう」です)

画像左端のあたりは江戸時代に定められた「三州五か湊」の一つの「御馬湊」の跡だと
言われていて現在も小さな湊があります。
(江戸時代、近郊近在から、また新城市、遠く稲武地区の年貢米の積出港だったらしい)


このあたりの地名は御津町御馬(みとちょうおんま)です。
「津」は港を表すそうですが、わざわざ「御」の字をつけた港です。
字(あざ)は「御馬」です。こちらも「馬」に「御」の字を付けています。
この「御」の意味するところは・・・
この地名だけでも、いかにも、何か、いわくありげですよね(笑)

先にも書いたとおり、江戸時代の「三州五か湊」が有ったそうですが多分、音羽川河口近くには
もっと古くから重要な湊があったのだと思います。

国分寺、国分尼寺、三河の国総社などがあった場所も、ここ音羽川を、さかのぼって行った、
すぐ近くに存在していますからね。