小学生の頃から憧れていた(笑)石舞台古墳を初めて、この目で見る事が出来ました。

小学生の時、母が買ってくれた歴史の本で見た、あまりに異様な姿が印象的で、
ずっと記憶に残っていたのです。



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石舞台の名前の由来は「月夜の晩に狐が、この上で踊っていたから」(笑)
とか諸説があります。



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被葬者は蘇我馬子で間違いないだろうといわれています。

理由としては

①古墳の所在地、島庄地域には蘇我馬子の屋敷があったといわれていること。
(島庄は蘇我氏の所有地だったらしい)
②巨石を使った大型古墳であること
③7世紀前半に作られたと推定されていること
 (馬子は626年没とされる)

等があげられています。
以上から当時、天皇に匹敵する権力を持つ者、蘇我馬子の桃原墓の
可能性が高いと言われています。



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約4.7mあるという玄室の高さには驚いてしまいました。



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形式は両袖式横穴式石室でした。
実際行ってみて初めて玄室内部三方の壁沿いに排水溝が設けられていることを知りました。
画像のように羨道中央には排水溝が設けられています。
子供の頃は、この排水溝が異質に思え観光用の為、現代になって作られた物かと
勝手に思っていましたが、そうではありませんでした(笑)



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少し離れた丘から見た画像。
一般の人は、その石室の天井石の巨大さに関心を示すだけのようですが・・・
まわりにも少し注意して、いただきたいのです。

まわりには幅の広い空堀があります(その更に外側には堤があります)
これは古墳築造時からの物だそうです。
だとすると、その形から、この古墳の基礎部分は方墳だった事が判ります。
(一辺約55mあるそうです)
上部の土は失われていますから墳丘上部がどのような形だったかはわかりません。
(方墳だったのか上円下方墳なのか)

また石室の天井石がむき出しになっている姿は本来の古墳の姿ではありません。
これは蘇我氏への怒りから後年、墓が壊されたからと言われています。

ただ、コルサの妄想では
「本当に盛土が崩されたのか?もともと完成しなかったのではないか?」
と思ってしまうのです。
でも当時の蘇我氏の権勢(馬子、蝦夷、入鹿と続く)から見れば、
何らかの理由で未完成で終わるということは、まず考えられないでしょうけど。

完成した古墳を現在のような姿に破壊するのは簡単ではないはずです。
では、それを命令した権力者は誰だったのか?・・・・



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戦前の発掘調査で、たいらに加工された石材(凝灰岩)の破片が石室から見つかっているそうです。
そこで、同時代の別の古墳の石棺を参考に再現したものが南側に置かれています。



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石舞台古墳から北西150m程のところから20年ほど前、島庄遺跡が発見されています。
ここは嶋宮と呼ばれた離宮跡と推定されています。
この離宮は蘇我馬子の邸宅跡地に立てられたのではないかといわれているようです。

乙巳の変(大化の改新)後、馬子の邸宅は取り壊され天皇家に接収され
離宮として作り直されたと推定する説があるようです。
これと時期を同じくして石舞台古墳も破壊されたのでしょうか?
(離宮造営に墳丘土も使われた?これはコルサ個人の妄想ですが)

それはともかく島庄は今でもこのような雰囲気です。
このあたりの道も飛鳥時代の道と、それほど変わっていないのかもしれません。