9月19、20、21日は関西方面にカーサイクリングに行ってきました。
600キロ近くを走りながら例によって有料道路代0円、
宿泊は2泊ともホテル「ホンダ フリード」(要するに車中泊のこと)の貧乏旅行です。

これから何回かに分けて、そのカ-サイクリングの模様を、ご報告していきたいと思います。

3日間の様子を大雑把に分けると・・・
①19日 明日香村と明日香村南部の旧街道と史跡めぐり
②20日 大阪 百舌鳥(もず)古墳群めぐり
③21日 奈良「山辺の道」周辺の古社、古墳めぐり

今回は19日の明日香村南部の旧街道と史跡をご報告します。


今日は明日香村、国営公園「甘樫丘」(あまかしのおか)近くの駐車場に車を置いてスタートします。
これから辿る道は、明日香村から吉野 上市にいたる古道です。
今回はその古道を芋ヶ峠まで登って折り返す予定です。
(実際は本当の古道ではなく舗装道路ばかり)

※記事の中の文章はコルサに、よるもので現地にある案内板などとは必ずしも一致しません。
 あきらかな間違いに、お気付きの方は、ご遠慮なく、ご指摘いただければ幸いです。



イメージ 1

天武朝頃を起源とすると言われる古道で現在でも幹線道路である道を、
まずは石舞台古墳方向に向かいます。

南側には聖徳太子の生まれたとされる「橘寺」、左手には「川原寺跡」(かわらじ)があります。
画像は彼岸花に彩られる「橘寺」



イメージ 2

こちらは北側の「川原寺跡」、柱の礎石等が残っています。

奥に見えるのは仏陀山 弘福寺(ぐふくじ)



イメージ 3

石舞台古墳を過ぎて飛鳥川沿いの道へ右手に曲がると間もなく前回も、ご紹介した
謎の石造物「マラ石」があります。
自転車の間から顔?をだしているのが「マラ石」・・・・

画像は前回6月13日、撮影のもの。



イメージ 4

マラ石の先、西側に7世紀後半頃の「飛鳥稲淵宮殿跡」とされる遺跡があります。

また、一説には653年、中大兄皇子が難波から飛鳥に戻って一時期住んだ
「飛鳥川辺行宮」(あすかかわべかりみや)ではないかとする説もあるようです。

いままでに掘立柱の建物が4棟、大型の玉石を敷き詰めた中庭などの遺構が
見つかっているようです。

周辺は、まだ未発掘の場所があり、今後の発掘調査が期待されます。



イメージ 5

マラ石から東側の山手に登ったところには「坂田寺」跡とされる場所があります。
坂田寺は「わが国最初の尼寺」といわれています。

日本最初の尼は渡来系氏族・「鞍作村主司馬達等」(くらつくりすぐりしばたつと)の
娘、「嶋」だと言われています。

「蘇我馬子」の勧めにより嶋を出家させ「善信尼」と名乗ったのが日本最初の尼だそうです。

ちなみに達等の孫が飛鳥大仏を作った「止利仏師」の名前で有名な
「鞍作鳥」(くらつくりのとり)になります。

坂田寺は飛鳥最古級の寺院で7世紀後半になると飛鳥の五大寺として隆盛を極めたそうです。
(現在も存続するのは飛鳥寺のみ)

しかし、格式の高い寺院であったというのに画像でも判るように山の急斜面にあり、
のちに土砂崩れなどの被害にあったようです。
(打ち捨てられた直接の理由は不勉強にて不明)



イメージ 6

坂田寺から、のどかな田園地帯を登っていきます。
このあたりは「日本の棚田百選」にも選ばれた場所だそうです。
画像は、のどかに見えますが写真を撮る人やハイキングの人で、大変賑わっていました。



イメージ 7

稲淵集落の入口、勧進橋(かんじょばし)にある「飛鳥綱掛神事」の「勧進縄」。
(画像上部に見える谷に渡された綱)

ここは「男綱」で、村の反対側(南側)にもあり、そちらは「女綱」と呼ばれています。
それぞれに、藁で作った男女のシンボル?が付けられているとのことでしたが見当たりませんでした。
神事が行われるのが毎年、一月の成人の日らしいので、落ちてしまったのかもしれません。
(女綱の画像については、あとで)

新道に止められた車や人は、ほとんどが観光客。
撮影している背後には売店まで出て大賑わいでした。



イメージ 8

「男綱」を上流側から見たところ。

イメージ 9

稲淵集落、立派な石垣や立派な家が多い。
昔から先ほどの棚田での稲作で裕福だったのでしょうか。



イメージ 10

集落の中から、飛鳥川に降りていく小道。

この先に、コルサが、ずっと憧れていた場所があります。



イメージ 11

ずっと、憧れていた場所、それがここ。
「えっ、なに、ただの飛び石じゃん」と言われるかもしれませんが。

稲淵(昔は南淵と呼ばれたらしい)の集落には
「南淵請安」(みなみぶちのしょうあん)が住んでいたそうです。

あまり知られていませんが南淵請安は「遣隋使 小野妹子」に同行し、隋、唐に32年間、
滞在し日本に戻りました。

日本に戻った後、開いた私塾には中大兄皇子、中臣鎌足らが通い、その教えが
大化の改新に大きな影響を与えたと言われています。

ですから、この飛び石を、かつて南淵請安の私塾に通った中大兄皇子、中臣鎌足らが
通ったのかもしれません(笑)
そして先の画像の小道も飛び石に続く当時から残る古道なのかもしれません。
そう思うと急にありがたく見えてくるでしょう?(笑)


イメージ 12

今日は、まだ19日でシルバーウイーク以前の平日なんですが。
飛び石の回りも、こんな様子でして・・・やれやれ。



イメージ 13

イメージ 14

南淵請安の墓は現在、稲淵集落の高台にありますが、
元々は別の所に有ったと言われ、ここにあるのは近世に作られたものだと言うことです。

一枚目の画像で、「この祠がお墓?」と思ってしまったのですが、念の為、
周囲を探索すると祠の裏にありました。

ただ、崖っぷちで距離がとれず、画像の位置から取るのが精一杯でした。



イメージ 15

稲淵集落を抜け飛鳥川沿いを登っていきます。
すると、こんなに長い名前を持つ神社があります。

式内社 「飛鳥川上坐宇須多伎比賣命神社」
(あすかかわかみにいますうすたきひめのみことじんじゃ)と言います。



イメージ 16

まずは153段?前後のまっすぐな石段。
手摺もありませんから下りは怖いですよ。



イメージ 17

合計、190段以上の階段と坂道を登ると、やっと山の中腹に拝殿があります。



イメージ 18

当社の御神体は「宮山」(神奈備山)そのものであり、ここには拝殿のみで本殿がありません。

この神社は「宮山」と呼ばれる山の中腹にあります。
宮山は642年、皇極女帝が行幸し雨乞いをした地だといわれています。
(たちまち大雨が降り人々は至徳天皇[いきおいましますてんのう]と褒め称えたと言う)


「宇須多伎比賣命」とは・・・
この神社の前の飛鳥川は岩盤が露出、その岩も長年に渡って削られ曲がりくねり
渦を巻いています。

そうした様子から神体山である宮山にウスタキヒメ命(渦滝媛命)という
女神が祀られたのだそうです。


※後編に続く。