※過去にアップできなかった記事を今頃アップしています(笑)


先日、百舌鳥古墳群を回った記事を書きましたが9月19日は、
もう一ヶ所、重要な史跡を訪ねました。

帰り道に、その名も「太子町」で見つけたのは
「磯長山」(しながさん)「叡福寺(えいふくじ)」で聖徳太子の墓所とされる
「叡福寺北古墳」があるのだそうだ。
これは日暮れも近く疲れているが(11時間近くも古墳巡りをした帰り道なので)
寄らないわけには行きません(笑)


最近では「聖徳太子虚構説」もありますが・・・
虚構説はともかく「聖徳太子と言う名前は亡くなった後につけられた「おくり名」と言われ
生前は厩戸皇子と呼ばれていたそうです。
最近の教科書からは徐々に「聖徳太子」との記載は消えているそうで残っている場合でも
「厩戸皇子(聖徳太子)」などと記載されているのだそうです。



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まずは立派な石段を・・・疲れた体に、この階段はキツイ(笑)



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国指定文化財の聖霊殿(画像なし)、多宝塔もあるというだけに立派なお寺です。
画像、左は府指定文化財の金堂、正面奥は聖徳太子の墓所。

叡福寺は聖徳太子墓を守護するために、推古天皇によって建立され、
奈良時代に聖武天皇が大伽藍を整備したと伝えられています。
その後、聖徳太子信仰の霊場として発展したのだそうです。



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右が金堂、左が多宝塔です。



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聖徳太子の墓所



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宮内庁では、このように呼ぶようです。
「磯長」は、お寺の山号(磯長山 しながさん)と一緒ですね。
(どちらか先かは知らない)



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角度をずらしてみると、こんな感じです。
叡福寺北古墳と言うことですが古墳の全景、方向などの位置関係は、まったく判りません。
この丘が古墳なのでしょうか。


ただ、ネットなどで調べてみると意外にも情報がある事がわかりました。
(宮内庁管理下にある古墳は研究者の立入りも禁止されているので情報がない事が多い)

明治時代に調査されたようで古墳は約直径55メートルの円墳で、横穴式石室をもち、
内部には3基の棺が安置されているらしい。
中央の石棺に穴穂部間人皇女(母)が葬られ、東と西の乾漆製(麻布を漆で貼り固めたもの)の
棺には東に聖徳太子、西に膳部菩岐々美郎女(妻)が葬られているとされている。
ただ、調査の際に、棺は確認できたが、遺骸は風化して残っていなかったとされている。

明治12年の修復調査が実施された際に、横穴入口をコンクリートで埋めてしまったため、
中を調査する事は困難である。
(それ以前に、現在のままでは宮内庁が許可を出さないでしょうが)


叡福寺周辺には
用明天皇陵、孝徳天皇陵などなど、まだ行ったことのない重要な史跡が多数ありますし
「近つ飛鳥博物館」も有りますから、いずれまた訪ねることになるでしょう。