今回は昨年、訪ねながら諸般の事情で(単にものぐさだっただけ?)記事を
アップできなかった奈良県の史跡をご紹介していきます。
アップできなかった奈良県の史跡をご紹介していきます。
この企画は今回だけでなく、不定期にしばらく(時々)続くと思われます(笑)
今回は甘樫丘(2009年10月31日訪問)です。
甘樫丘(あまかしのおか 標高148m)というのは奈良県の奈良盆地南東部、明日香村の
西側にある丘陵です。
(その為、甘樫丘は飛鳥の西の防壁だったとも言われる)
甘樫丘(あまかしのおか 標高148m)というのは奈良県の奈良盆地南東部、明日香村の
西側にある丘陵です。
(その為、甘樫丘は飛鳥の西の防壁だったとも言われる)
ここ甘樫丘は7世紀、蘇我蝦夷とその子、入鹿が屋敷を並べ立てたと言われる場所です。
ちなみに645年の乙巳の変(大化の改新)で入鹿が命を落とした翌日、
蝦夷は屋敷に火を放って自害したといわれています。
近年の調査で甘樫丘南東部から「焼土層」が発見され蝦夷、入鹿の屋敷跡に関係するのではないか?
と言われる「甘樫丘東麓遺跡」も見つかっています。
蝦夷は屋敷に火を放って自害したといわれています。
近年の調査で甘樫丘南東部から「焼土層」が発見され蝦夷、入鹿の屋敷跡に関係するのではないか?
と言われる「甘樫丘東麓遺跡」も見つかっています。
画像は入鹿が切られたと言う「伝 飛鳥板蓋宮」(いたぶきのみや)から見た甘樫丘。
(2009年9月18日撮影)
最近では見えている上層部分は「飛鳥浄御原宮跡」(きよみはらみや)で
中層部分に「板蓋宮」が埋まっている、
その他計4つの時代の宮が、ここに重なって埋まっているという説もあるようです。
(飛鳥岡本宮、後飛鳥岡本宮、飛鳥板蓋宮、飛鳥浄御原宮が連続して同じ場所に立てられたとする説)
(飛鳥浄御原宮以外の宮は全て火災で焼失したといわれ実際火災の跡も発見されている)
中層部分に「板蓋宮」が埋まっている、
その他計4つの時代の宮が、ここに重なって埋まっているという説もあるようです。
(飛鳥岡本宮、後飛鳥岡本宮、飛鳥板蓋宮、飛鳥浄御原宮が連続して同じ場所に立てられたとする説)
(飛鳥浄御原宮以外の宮は全て火災で焼失したといわれ実際火災の跡も発見されている)
それでは10月31日、早朝に登った甘樫丘の様子をご紹介しましょう。
甘樫丘は現在、丘陵全体が「国営飛鳥歴史公園 甘樫丘地区」として景観の維持が図られ
画像のような遊歩道が整備されています。
自転車の通行は、はっきり禁止されていますから歩きで登って行きます。
画像のような遊歩道が整備されています。
自転車の通行は、はっきり禁止されていますから歩きで登って行きます。
訪ねたのが10月末でしたから、丘陵全体、その名のとおり樫の実だらけでした。
甘樫丘北側にある万葉展望台から東側を見た景色。
日の出直前の明日香村。
(背後の山に遮られ明日香村の日の出は遅い)
(背後の山に遮られ明日香村の日の出は遅い)
中央手前に、わが国初の本格寺院とされる「飛鳥寺」があります。
この画像の左手には飛鳥座神社などもあります。
この画像の左手には飛鳥座神社などもあります。
上の画像とは逆に飛鳥寺から甘樫丘、万葉展望台側を見たところ。
(2009年9月18日撮影)
画像を撮影している付近は、かつての飛鳥寺西門付近。
「乙巳の変」の際は、中大兄皇子、中臣鎌足の軍勢は、ここに集結。
そして甘樫丘の蘇我蝦夷、入鹿の屋敷を、にらんでいたとされます。
中央に見えるのは蘇我入鹿の首塚(鎌倉時代に立てられたもの)
そして甘樫丘の蘇我蝦夷、入鹿の屋敷を、にらんでいたとされます。
中央に見えるのは蘇我入鹿の首塚(鎌倉時代に立てられたもの)
ふたたび万葉展望台から北側を見ます。
中央奥が大和三山の耳成山(140m)
耳成山の手前(画像上は手前と言うより、やや左より)に藤原京、藤原宮がありました。
(大極殿跡なども発掘されています)
耳成山の手前(画像上は手前と言うより、やや左より)に藤原京、藤原宮がありました。
(大極殿跡なども発掘されています)
同じく大和三山、天香久山(152m)
手前の水田では「大官大寺跡」なども発見されています。
やっと日が昇りました。
展望台から西側を見ます。
大和三山の畝部山(198m)
画像では判りにくいと思いますが畝部山の左側に、うっすらと
「ふたこぶらくだのような」二上山のシルエットが見えています。
画像では判りにくいと思いますが畝部山の左側に、うっすらと
「ふたこぶらくだのような」二上山のシルエットが見えています。
かつては大和三山(北に耳成山、東に天香久山そして西に畝部山)に藤原京は
囲まれていたと言われていましたが近年の発掘調査、研究では
藤原京の範囲は、実はもっと広大で藤原京の範囲の中に大和三山も、
すっぽり含まれていたようです。
囲まれていたと言われていましたが近年の発掘調査、研究では
藤原京の範囲は、実はもっと広大で藤原京の範囲の中に大和三山も、
すっぽり含まれていたようです。
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