コルサの毎日がヒルクライム

2007年12月

もう12月30日です。年末ですが家にいても、たいした事もしませんし(笑)
知人を訪ねれば迷惑でしょうから、サイクリングに行くことにしました。

まずは豊橋市東部の多米町に車を置き、そこから北上、別所街道に入り「和田辻」交差点より
本坂街道(姫街道)を訪ねます。
・「別所街道」は愛知県豊橋市方面から信州に抜ける旧街道です。
・「本坂街道」(本坂通)(姫街道)は東海道の脇往還で、東海道見付宿(静岡県磐田市)から
浜名湖北部を、とおり本坂峠を越え嵩山宿(すせしゅく)を経て東海道御油宿(愛知県豊川市)
に抜けています。

姫街道の、いわれは東海道、浜名湖今切(難所)の渡船と新居の関所を、さけるため「お姫様」が
好んで通った道というのが通説です。
しかし最近では「ひなびた街道」という意味の「ひね街道」が、なまったという説が有力で、
東海道より歴史が古いといわれています。

資料によれば1708年の一年間で大名などの本坂峠越えは300回以上!?あったそうです。
(千人以上の行列が16回、百人の行列50回)
ちなみに1707年からの7年間で、お姫様は一人しか通っていないそうです。

面白い話としては、
1718年には八代将軍吉宗の実母、浄円院が一万人!の行列を連ねて通ったという記録もあります。
また、1729年には安南国(ベトナム)から将軍に献上された象も、ここを越えたそうです。
(ここより東、引佐峠の手前に、急な坂道に象が鳴いたという象啼坂という所もあります)

ちょっと話が長くなりました。


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別所街道を北上、「和田辻」交差点を右(東)に折れ「本坂街道」に入ります。
本坂街道に入るとすぐに一里塚がありました。
最近作られた物のようで築山(昔は道の両側に一里塚の目印に築山があったという)もありません。
ここからだと江戸より京のほうが、かなり近いようです(笑)


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稜線の低いところがこれから向かう本坂街道、本坂峠でしょう。
右は現国道(有料トンネル)で左が旧道、嵩山宿(すせしゅく)になります。
旧道側に入ると更に先で大正時代に整備された道と、旧街道の本坂街道と別れます。
嵩山宿には幕末頃、旅籠11軒と本陣があったそうです。
現在は宿場を感じさせるものはあまりなくわずかに石垣、門、蔵がある家などが往時をしのばせます。
今日は12月30日ということもあり昔懐かしい石臼と杵で餅つきを準備している家が数件見られました。
もう少し遅い時間に通れば、つきたてを、ご馳走になれたかもしれません(笑)

のんきな事を言っていますが、実際は天候が悪くのんびりとはしていられません。
雨が降り出して路面が濡れ始めているのがお判りになりますでしょうか。

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本坂峠に向かい山道に入りました。
画像の右側奥に築山(前述のとおり一里塚の目印)があり、ここが嵩山の一里塚です。
ここから東海道 御油宿まで四里だそうです。
それにしても、この山道を大名行列が越えたのでしょうか。
籠を、かつぐ家来はもちろんですが籠に乗る大名も大変そうです。

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旧道の途中から大正時代に作られた道に出て旧トンネルに着きました。
トンネル手前から本坂街道に再度、入ります。


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旧道に入るとこんなところもあります。
その昔、弘法大師が、この地を訪れた時、この清水を飲んだそうです。
残念ながら最近は水がかれています。


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本坂峠(標高328m)につきました。右が静岡県側、左側が豊橋側になります。
10年ほど前に、ここ姫街道を訪れた時は若いハイカーの「お姫様」達に、
たくさん出会ったのですが・・・
今日は、さびしいかぎりで誰もいません。
まあ、あまりたくさんの人がいる時に、自転車で行くのも気が引けるので良しとしましょう(笑)

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ここ本坂峠から湖西連峰を稜線伝いに南下します(豊橋自然歩道)。
こんな気持ちが良く、乗車していけるところもあります。

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富士見岩につきました。ここは休日にはハイカーの休憩場所(景色の良い食事ポイント)として
賑わうところですが年末で天候が悪いこともあってか誰もいません。

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岩の上から浜名湖南部を望みます。遠くに見えるの遠州灘(太平洋)です。
左上部に見えるのは浜名大橋?でしたっけ?旧浜名バイパス(現、国道1号線)です。
天気が良ければ、ここから富士山も見えるそうですが、今日はあいにくの天気です。
雨は幸い、やみましたが時々、みぞれが降って寒くて仕方ありません(その上、強風)。
あまりの寒さに岩の上で、たったまま(足踏みしながら)パンを食べて、早々に出発します。


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凄い傾斜で乗っていけないところもありますが、おおむね、こんな感じのところで
乗車出来るところも結構あります。
ただ落葉の下に鋭利な岩が隠れているので気をつけないとバーストの可能性があります。

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山道を行くと、突然こんな所に出ます。国指定史跡、大知波峠廃寺跡です。
ここは静岡県湖西市側になるようで、湖西市教育委員会が発掘調査、整備しています。
石垣などが綺麗に保存されていて気持ちの良いところです。
この山寺は文献などに記録がないそうで謎とされていましたが近年、発掘調査の結果、
いろいろ判って来たようです。
それによると時代的には10世紀中頃(平安時代中頃)から建設され11世紀末には
廃絶したといわれています。

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寺は山を背にしていて南向きなので風がさえぎられ、温かく感じます。
でも大知波峠の写真を撮っているうちに体が冷えて寒くなってきました。
ここから西に下れば石巻山の林道で簡単に下れます。
しかし、出会ったハイカーと話をしているうちに、やはり当初の予定通りもう少し
自然歩道を行くことにします。
ただ、ハイカーが言っていた「けっこう、担ぎがありそうですよ」の言葉を少し甘く見ていたようです・・・・

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本坂峠から大知波峠までの道より大知波峠の南側の道は、かなり険しかったのです。
画像では傾斜が判りにくいのですが、ここは自転車無し、の歩きでも怖いくらいの斜面です。

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稜線を南下、多米峠(標高266m)に付きました。
ここは直下にトンネルがありますが旧道はほとんど知られていません。
画像の右側が静岡県湖西市側、左側が愛知県豊橋側になります。
判りにくいのですが中央右奥から稜線を伝ってきました。

多米峠のトンネルは豊橋のサイクリストで越えた事がなければもぐりといわれる?ほどメジャーな峠です。
(峠自体はたいした所ではないが、ここを越えると浜名湖などサイクリング、トレーニングに最適なところ)

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予定では多米峠から更に稜線を南下するつもりでしたが楽しみは先に残しておくことにしました。
旧多米峠からトンネルのある県道に下ることにします。
峠から県道まで700mとのことですが、自転車にはきつい路面でもっと長く感じました。
そのなかで、ここは比較的、路面の良いところです(ここを下ってきた)。

まもなく県道に出て無事、今年、最後のサイクリングを終えました。

今回、ご紹介するのは昭和42年10月(1967年 なんと40年前)の

「サンツアー総合部品単価表」です。

もちろん、一般ユーザーに向けたものではなく問屋さん、小売店さん向けの物です。
この単価表から、一部のページをアップしてみました。
(単価表のサイズはA4です)
掲載されている変速機の、いくつかは過去のブログに実物の画像をアップしています。
http://blogs.yahoo.co.jp/corsa2003sp/9865643.html

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1枚目 
表紙の青い部分の左上には小さくサンツアーのパテント、「スラントパンタ機構」のイラストがあります。
イラスト下に「SLANTING PANTOGRAPH MECHANISM」の文字が入っています。

表紙の右下には「Maeda Industries,Ltd」と入っています。
サンツアーの67年当時の正式社名は、(株)前田鉄工所でした。

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2枚目
グランプリRD No.2300
グランプリの名前からなんとなくレース仕様かと思ってしまいますが、
のちにトップノーマルに変更したコンペティションRDがレース向として販売されました。
(グランプリはローノーマルですが、もちろんレースに使われたかもしれません)

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3枚目
グランプリRDの部品価格表です。右上に「昭和42.10」の文字が見えますか?
当時のRD の価格が1800円だった事がわかります。
40年前の価格ということを考えると結構、高いような気もします。
ちなみに小売店渡価格(卸価格)は1200円です(66.7%)。
グランプリ5段セット、グランプリ10段セットが価格表に載っているのも興味深いですね。

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4枚目
スキッターNo.2200
ベストセラー変速機。80年代までカタログに載っていました。

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5枚目
ヒーローNo.2700
あまり見かけないヒーローRD、コルサは一度入手しましたが熱心な
サンツアーファンの方に譲ってしまいました。
ヒーローの名前で少し違う形の物も、この時代にありました。
また、80年代にもヒーローの名前を持つRDが短期間?販売されていました。
(BLのネーム違いだと思います)


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6枚目
以前、当ブログに画像をアップしたキャパシティが変更できるアジャスタブルガード。

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7枚目
スパートFD No.3700
マイナーチェンジを繰り返し80年代までカタログに載っていた名作?FD。
トップノーマル式です(ワイヤーを緩めた時アウター側に変速する)。
この部品単価表に載っているFDは、このスパートだけですが、
この時代、スライド式FDもあったはずです。

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8枚目
WL及びSL。
なぜか「レバーワイヤー」と書かれています。
裏の価格表を見ると納得、インナー、アウターワイヤーの単価が載っています。

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9枚目
60~70年代に結構、軽スポーツ車に採用されていたロングレバー。
このページ以外にもシングルレバーが2ページ紹介されています。

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10枚目
フリーの名作?パーフェクトが載っています(パーフェクトも寿命が長い)。
他に3段、4段のフリーが載っています。
良く見ると多段フリーでありながら適応チェーンが1/8(いわゆる厚歯)の物もありますね。
余談ですが古い国産チェーンのパッケージで1/8(厚歯)サイズの物に
「ディレイラーチェーン」と書かれた物もあります。このフリーに適合するわけですね。
また変速機のケージにも(1/8用)とか、あったと思います。


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11枚目
右の2点に注目してください。実演台A型、実演台B型とあります。
変速機の実演をして普及促進する為に作られたのでしょうね。
60年代は、まだまだ、変速機が目新しい?時代だったのでしょう。


※2008年も、まだまだサンツアーネタ、取上げていきます。
  (くどい、なんて言わないでね)

すでに、他の参加者の方々のレポートで、ご存知かと思いますが(笑)、
23日、岡崎市 千万町「萱葺屋敷」に、けったさんのプランニングで行って来ました。
千万町は町名ではなく「ぜまんぢょう」と読みます。旧の額田郡額田町千万町地区になります。

コルサにとって千万町はクラブレースや車でよく通った、なじみのコースですが萱葺屋敷には寄った事がなく、けったさんにプランニングをお願いして今回のサイクリングが実現しました。
今回は(も)天気が心配されましたが(実際、コルサの家付近では当日朝も雨が降っており、走行はあきらめてました 笑)、コルサ以外の皆さんの日ごろの行いが、よほど良いらしく、天気は、あっという間に回復、総勢6人で楽しいサイクリングとなりました。

詳しいサイクリングの模様は
kokoさん、http://blogs.yahoo.co.jp/koko_car_suki/39465646.html
けったさん、http://www.tcp-ip.or.jp/~ketta/index.htm
reynolds531jpさん、http://blogs.yahoo.co.jp/reynolds531jp/39491621.html



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萱葺屋敷の軒先に、並んだ参加者の自転車たち。
コルサのロードは自主規制により写っておりません(笑)
コルサは雨で濡れてもサビないようにカーボンのロードで参加しましたので(笑)



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taro427scさんが、いろりの火をおこして?います。
煙でreynolds531jpさんが隠れてしまうほどで、凄く、けむそうですが
座っていれば、それほどでは?ありません(立つと煙いですね)



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いつもながら食事が済んでも自転車談義で、なかなか出発できませんね~(笑)



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千万町にあった、「野仏」群。
これは、この地区各地ににあったものを移転、集合させたものの由。

千万町地区(千万町街道)は戦国時代「長篠の戦い」の際、鳥居強衛右門勝商が
通ったともいわれています。
(千万町街道を通らず南側の男川沿いの道を通ったという説もある)

ちなみに、武田軍は、長篠の戦いの前、旧、飯田街道で足助地区に進出し、そこから南下、
ここ千万町から東に、わずか数キロの作手地区をとおり吉田方面(現在の豊橋市)に出たあと
東に転じ長篠城に向かっています。

武田勢に囲まれた長篠城から鳥居強衛右門勝商(とりいすねえもんかつあき)が志願して長篠城を
脱出、岡崎城(織田、徳川連合軍)まで助けを求め走ったといわれています。
その知らせに織田、徳川連合軍が出動し「長篠の戦い」に至ります。

「長篠の戦い」については、ご存知かと思いますが
1575年 織田信長、徳川連合軍が鉄砲隊で武田騎馬軍団を打ち破ったことで有名な合戦です。
この大勝利で織田信長は天下統一への道のりを一歩、進めますが信玄以来の重臣の多くを失った
武田勝頼は、その損失を回復出来ぬまま滅亡していくことになります。

ずいぶん話がそれてしまいましたが、
いずれにしても歴史のある山村で戦国時代以前から、人々が往来した街道があったと
いわれていますから石仏が多いのも頷けます。



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六地蔵、薬師如来、馬頭観音など、いろいろな物がありますが、
これは、ひとつの石に三十三体の観音仏が彫られているという珍しい物。



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前回のサイクリングの際、ご紹介した宮崎地区の猪垣です。
今回は、立派な石碑をメインに画像をアップします。
この立派な石碑、なんと、個人の寄贈だそうです。

猪垣の画像他、前回の様子
http://blogs.yahoo.co.jp/corsa2003sp/9708210.html



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日も傾いてきたなか、東海道(国道1号線)本宿を目指します。
地元、けったさんの巧みなコース設定で、車の多い道を、あまり通らず、
こういった道を縫うように走ります。
おかげで、車におびやかされず安心して、みんなで走る事が出来ました。


けったさん、kokoさん、reynolds531jpさん、taro427scさん、mako454jpさん、
皆さんお疲れ様でした。
また、一緒に遊んで(走って)くださいね。

今回はコルサの自転車、ラーレーを、ご紹介させていただきます。
この自転車、ロードーレーサーに次ぐ出動回数を誇ります?が、
出動回数が多い割りに走行距離は伸びません。
というのは行き先がコンビニ、郵便局、ホームセンター+(たまにポタリング)という
足代わりの自転車だからです。


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車名は「ラーレーRF8」といいます。
ラーレーはイギリスのブランドでしたが今はアジア製がほとんどだと思われます。
今回のモデルも「台湾製」で販売はアラヤが行っています。
アラヤ ラーレーHPアドレス→http://www.raleigh.jp/index.htm
まず、外観上の特徴はシングルスピードに見えるところでしょうか。しかし実際には
シマノ ネクサーブ インター8という内装8段式のリヤハブになっています。
コルサのモデルは2006年式ですが、ほぼ同型で2007年も販売されています。

画像の状態はコルサ好みに、少し改造されている部分もあります。
タイヤはパナのTサーブの中古に、サドルもビニールサドルからセラ イタリア ターボの
ボロ中古に変えています。
それ以外の改造点は後ほど、ご紹介させていただきます。

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これが後ろハブまわりで、これで8段変速が可能です。
画像の外装ギヤは歯数の違う物に変更可能になっています。
さて、皆さんが、一番、興味のあると思われる内装8段のギヤ比ですが、ラーレーの
カタログには、このように表されています。
「トップ52×13T相当、ローギヤ30×23T相当」との事です。
(フロントチェンリング44T、リヤ外装ギヤ18Tの場合)
これをギヤ比で見ると「4.0」~「1.304」ですから、このギヤ比を8枚のギヤで
割り振ると一段一段がかなり、離れている事がお判りになるかと思います。
その為、フロントWまたはTでリヤ8~10速のシフトに馴染んだ人には、最初、
非常に使いづらく感じられると思います。
最近の多段外装の駆動系で言えば一度にリヤを2~3枚ぐらいチェンジしてしまった
感じといえばわかりやすいかもしれません。
正直、コルサも始めて乗った時は「ギヤ比がワイドすぎて使えねー」と思いました(笑)。
ただ、普段乗っているロードとの比較の問題で、やはりシングルより、
チェンジが出来るのはありがたいですね(笑)
コルサのラーレーはフロント44Tから42Tに変更してありますが、それでもトップ側の
ギヤはほとんど使えません。
リヤを大きくする手もありますが、そうすると、今度は軽い方のギヤが軽すぎて
使いにくくなってしまします。
やはり、もう少しギヤ比をクロスにした方が使いやすいように思います。

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これがシフトのコントロールボタンになります。
右側の「+」表示のレバーを押すと「トップギヤ側」に変速、左側の「-」表示のボタンを押すと
「ローギヤー側」にチェンジしていきます。
チェンジは停止状態でも作動するのでトップ側の重たいギヤで停車してしまっても、
再発進の際、停止状態でローギヤにチェンジしてから発進する事が出来ます。

ギヤのポジションが表示されているのは便利ですよ、外装式なら、リヤを覗けば、だいたいの
ギヤポジションがわかりますが内装式は、どこに入っているかまったくわかりませんから。

また、シマノのカタログでは「軽い負荷」がかかった状態でもチェンジできます」と
書いてありますが、逆に?結構な負荷を掛けた状態(ダンシング等)でも問題なく
チェンジします(メカに負担を掛けるので、お勧めは出来ませんが)。

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駆動系です。
チェンホイールはシュパーブのクランク+マイティ インナーギヤに交換してあり、
旧車ファンの方への話題の「つかみ」も可能なように配慮しています(笑)。
チェンガードはギヤ板の加工ではなくスギノのシクロクロス用ガードを外側だけつけています。
BBはスギノのマイティ ロード用でチェンラインは、ほぼ問題ないレベルで
おさまっています。

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ペダルは、三ヶ島シルバン プロムナードに交換しています。
このモデルは生産中止になってしまい、プロムナードの名前は他のモデルに使われています。
現在、シルバンにはツーリングというペダルがありますが、このプロムナードの
方が左右の幅が狭く、コルサは気に入っています。


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リキセン カウル(リクセン カウル?)というブランドのフロントバックをつけています。
これは「バギー」というモデルになります。
ここの製品は作りは、しっかりしていますが、やや高めのお値段が気になります(笑)。
リクセン カウルhttp://www.g-style.ne.jp/products/rix/index.html


※ブログ容量確保の為、画像を削除しました※
リキセンカウルのアタッチメントは、画像の赤いボタンを押すとワンタッチで
バックの脱着が出来て便利です。

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リキセンカウルには、こんなカゴも用意されています。
カゴには取っ手もありますので買い物用のエコバック?としても使用出来ます。
ポタリング時にはナイロンバック、買い物などにはカゴと簡単に交換出来るのは思いのほか
便利で重宝しています。


※ブログ容量確保の為、画像を削除しました※
ポタリング中の公園にて。
あと、万能?の「足自転車」とするには泥除け(雨上がりに乗れるように)を付ける事と、
スタンドの装備でしょうか?
泥除けは着ける気になれば問題なく付きそうです(クリアランスが綺麗に出るかどうかは不明)。

スタンドはリヤハブの近くにつけるタイプは好みではありません。
BB後ろに付けるセンタースタンドなら我慢できる範囲ですね。
ただ、このラーレーはチェンステイブリッジなども付いているのでセンタースタンドを
つけるスペースが、ほとんどありません。
さすがにチェンステイブリッジパイプを切断する勇気は・・・ないですね(笑)。

まとめてして、ラーレーRF-8は内装式ハブのシンプルなスタイル、乗りやすさで非常に
気に入っています。
あえて難点をあげるとしたら乗り心地の固さでしょうか。カーボンフォークを使っていますが
アルミフレームのせいか乗り心地は、かなり硬い感じがします(同じ自転車に乗る友人も同意見)。
これには現在、装着のタイヤ、空気圧も影響していると思います。
もう少し太目のタイヤを低圧で乗れば、当然、乗り心地は良くなるでしょう。

シマノ インター8内装ハブについては、シンプルな外見は二重丸です。
ただ、前述のとおりワイドすぎるギヤ設定は、ちょっと使いずらいですね。
それから、フリクション(内部抵抗)が、外装式変速システムより、非常に大きいのが
気になります。ギヤ比が、うまくセッティングできたとしても、内部抵抗を、
もっと軽減出来ない限りレースには使えないと思います。
もうひとつ、気になる点として細かいことですが、2枚目の画像どおり内装ハブの固定が
15ミリナットの固定になっていることですね。Qレバーでない為、パンクした際、
チューブ交換には15ミリのスパナが必要なのでサイクリングの際持参しなければ
ならないことです。
(15ミリスパナは結構大きいですから)

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ここにサンツアー シュパーブのカタログがあります。


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広げてみるとこうなっていて、2ヶ所で折り目が付けられています。
向かって左側部分が裏表紙、中央が表紙になり右側に中折される部分(半ページ分)があります。
一枚の紙の裏表に印刷されたもので、裏表紙に当たる部分に小さく「1975」の
文字がありますから、当然、その年に印刷された物でしょう。


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では裏返して紹介されている製品を確認してみましょう。
このカタログに載っている製品はこれで全てです。
「あれ、表紙にはシュパーブとあったはずなのに」
この後の拡大画像2枚で、よく確認してみましょう。


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サイクロン変速機、ウイナーフリー、ピスト用固定ギヤ、フレーム材料などしか
載っていません。
「シュパーブ部品はどこに載っているの?」でも前述のとおり紹介されている
部品はこれで全てです。


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別の資料を見てみましょう。
これは、79年のショップ用厚口カタログの1ページです。
このページには初代シュパーブのロード部品が一式載っています。
(ブレーキレバー、FDなどは最初期の物から既に変更になっています)

そこで、改めて、いろいろ確認してみると・・・・・なんと!?
1枚目の画像のカタログ表紙は「SUPERB」
このカタログ写真を見ると「SUPERBE」になっています。
あれれ、アルファベットのつづりが違います。そう、末尾に「E」が増えています(笑)


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もう一度、カタログを良く見てみましょう。
中折部分の文章を読んでみてください。


読んでみると、なるほど、このカタログの時点(1975年)では「SUPERBE」シュパーブという、おなじみの部品群は、まだ発売前だった事がわかります。
1973年にシマノはデユラエース コンポーネントを発表し、またカンパはそれ以前からコンポーネントとしての部品を販売しています。

カンパ、デュラエースのコンポーネントに対応しなければならなくなったサンツアーは当然、新しいコンポーネントを開発し、シリーズ名を検討することになったはずです。
その時、上記のカタログの表紙に使った「SUPERB」の言葉が思いだされたのでしょう。
そう、「SUPERBとは華麗で気品高く他の追随を許さない物だけに許される・・・」という新しい、高級コンポーネントにふさわしい名前です。
ただ、そのまま「SUPERB」の文字を使うことに何らかの抵抗があり末尾に「E」を加えて「SUPERBE」としたのでしょう。
(このあたりの経緯について当時の雑誌かカタログにも紹介されていそうですが(いたような)、探してみても今のところ見つかりません)

「SUPERBE」シュパーブ コンポーネントは1976年のケルンショーで初披露され、雑誌「サイクルスポーツ」に、しっかり紹介されたのは1977年2月号です。
そのページを見るとロード、ピストの部品が白黒写真で4ページにわたって紹介されています。
説明文を読むと「当初の生産量は月産2000セット、厳しい品質管理を売り物にしていきたい」とありサンツアー及びJEXグループ(スギノ、三信、吉貝、三ヶ島)の意気込みが伝わってきます。
ちなみに、これ以前から雑誌広告も掲載されていましたがパッケージ(化粧箱)の白黒写真だけで製品は、まったく写っていません。

サイクルスポーツ1977年4月号ではデュラエースとシュパーブの部品を組んだロードを、それぞれ用意し比較試乗を行っています。
21ページにわたるもので当時のシュパーブへの注目度と期待度が伝わってきます。
この記事を当時、高校生だった(生意気にもデュラフルセットのロードを買ったばかりだった)自分は一喜一憂、ドキドキしながら読んだ物です(笑)

実際に初代シュパーブの部品が販売されるようになったのは77年中頃ではなかったかと思います。
このあと、コルサはサンツアーの独創的な部品群に、どんどん傾倒していくことになったのです(笑)

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