今日(30日)、少し速く仕事が終わり、日暮れまで1時間ぐらいなら自転車に乗れそうです。
早速、帰宅途中にある公園に車を置いて積んである自転車を下ろし走り出します。
早速、帰宅途中にある公園に車を置いて積んである自転車を下ろし走り出します。
場所は愛知県豊川市前芝町(旧の宝飯郡、今年、豊川市になる)、豊川の右岸(西側)周辺です。

まずは現在の豊川河口及び、豊川放水路の西側にある「前芝の灯明台」です。
豊川放水路は豊川の増水時に水を流し氾濫を防ぐ為に1965年に完成した水路です。
(豊川上流、現在の国道362号線 当古橋周辺は、豊川下流が曲がりくねっているせいか、
しばしば増水氾濫した)
現在の位置関係を見ると、ここに灯明台を設けた意図が、わかりにくいかと思います。
その理由として上記の豊川放水路の完成と、1600年代から、ずっと行われていた干拓事業で
周辺海岸線の地形が大幅に変わっている事があげられます。

前芝の灯明台の案内板です。
説明文中の「光の達する距離」は、ちょっと信じられないものがあります。
しかし、ほとんど人口の光がなかった時代なら十分、確認出来たのかもしれません。
「藩主が乗船していた際、現在の蒲郡市沖で難破したが大事無かった」とする文献もあります。
現在では、灯明台の必要性はピンときませんが海上交通が主体の時代だったのですね。
豊川上流、現在の新城市、長篠あたりまでも陸送より水運の方が盛んだったそうです。
(牛馬による輸送より船による輸送の方が大幅にコストが安かった)
この灯明台から上流部、吉田大橋の下流一体の豊橋市船町あたりは「吉田湊」
(吉田は豊橋の古い呼び名)と呼ばれ、かつては水運で大変に栄えたところで、
江戸時代頃には江戸、大阪、伊勢(伊勢神宮参拝など)などに向けて船が運航されていたそうです。
おかげ参りの年にあたった1730年などは5月下旬から8月上旬で3万4千8百人が吉田湊から
伊勢に渡ったという記録もあるらしい(東海道吉田宿の人口が5千5百人程度の時代)。

さて前芝の灯明台から県道385号線(平井牟呂大岩線)に出てを少し北東に走ります。
目的地は県道385号線と飯田線、東海道線、名鉄が集中し、交差する場所です。
ここは、道が狭いのに23号線と1号線を結ぶ抜け道として交通量が多く、今まで調べたくても
行く気にならなかったところです。今日は、思い切って行って見ます。
やはり思ったとおりの場所でした。

「渡津」の渡しの案内板です。
ここで、いう東海道は江戸時代に整備された東海道より、はるか以前のことになります。
江戸時代の東海道は、ここから上流、1キロほどのところにありました。
この案内板があるのは現在の豊川市小坂井町平井地区です。
いにしえの東海道の渡し場は地形及び海水面の変化で時代によって案内板のある平井から、
小坂井、篠束などと変化したそうです。
「渡津」の渡しも10世紀後半には寂れてしまったそうで渡津の宿駅の位置は不明だそうです。
ただ、渡津の名前は旧23号線の橋、「渡津橋」として現在も残っています。
ここがすたれた後、11世紀以降のルートは豊川市古宿または当古町あたりだったらしい。
(鎌倉街道と呼ばれるコース)

まずは現在の豊川河口及び、豊川放水路の西側にある「前芝の灯明台」です。
(豊川上流、現在の国道362号線 当古橋周辺は、豊川下流が曲がりくねっているせいか、
しばしば増水氾濫した)
その理由として上記の豊川放水路の完成と、1600年代から、ずっと行われていた干拓事業で
周辺海岸線の地形が大幅に変わっている事があげられます。

前芝の灯明台の案内板です。
説明文中の「光の達する距離」は、ちょっと信じられないものがあります。
しかし、ほとんど人口の光がなかった時代なら十分、確認出来たのかもしれません。
豊川上流、現在の新城市、長篠あたりまでも陸送より水運の方が盛んだったそうです。
(牛馬による輸送より船による輸送の方が大幅にコストが安かった)
(吉田は豊橋の古い呼び名)と呼ばれ、かつては水運で大変に栄えたところで、
江戸時代頃には江戸、大阪、伊勢(伊勢神宮参拝など)などに向けて船が運航されていたそうです。
おかげ参りの年にあたった1730年などは5月下旬から8月上旬で3万4千8百人が吉田湊から
伊勢に渡ったという記録もあるらしい(東海道吉田宿の人口が5千5百人程度の時代)。

さて前芝の灯明台から県道385号線(平井牟呂大岩線)に出てを少し北東に走ります。
目的地は県道385号線と飯田線、東海道線、名鉄が集中し、交差する場所です。
ここは、道が狭いのに23号線と1号線を結ぶ抜け道として交通量が多く、今まで調べたくても
行く気にならなかったところです。今日は、思い切って行って見ます。
やはり思ったとおりの場所でした。

「渡津」の渡しの案内板です。
ここで、いう東海道は江戸時代に整備された東海道より、はるか以前のことになります。
江戸時代の東海道は、ここから上流、1キロほどのところにありました。
この案内板があるのは現在の豊川市小坂井町平井地区です。
いにしえの東海道の渡し場は地形及び海水面の変化で時代によって案内板のある平井から、
小坂井、篠束などと変化したそうです。
「渡津」の渡しも10世紀後半には寂れてしまったそうで渡津の宿駅の位置は不明だそうです。
ただ、渡津の名前は旧23号線の橋、「渡津橋」として現在も残っています。
ここがすたれた後、11世紀以降のルートは豊川市古宿または当古町あたりだったらしい。
(鎌倉街道と呼ばれるコース)
この渡し場の位置も現在からは上記の灯明台と同じくピンときませんが、
灯明台の件と同じ理由(地形の変化)のせいですね。
灯明台の件と同じ理由(地形の変化)のせいですね。

「志香須賀の渡し」の案内板の、直ぐ横に、こんなところもあります。
「村中安全」を祈った場所です。明治37年と読めました。
(志香須賀は湖西市の白須賀と似ていますが、もちろん全然違う場所です。念の為)

もう一つ、こんな石碑もありました。
「柏木濱」「菟足祭神御日蹟」と読めました。
「菟足神社」(うたりじんじゃ)は、ここから数百mの北東の旧東海道と国道1号線の間にあります。
この神社の境内には縄文時代の貝塚もあります。
また、徳川家康なども戦勝祈願に立ち寄った記録があるそうです。
菟足神社も、近いうちに訪ねなければ。

日が暮れてきましたので、折り返して車に向かいます。
途中、平井稲荷山神社に立ち寄ります(JR西小坂井駅から800mほど)。
ここは平井遺跡と呼ばれる縄文晩期から弥生時代の遺跡があります。
現在、画像の背中側には田畑が広がっていますが当時は海岸だったと思われます。

境内には貝殻が散乱しています。
ただ、大正、明治時代から何度も発掘調査されていますので貝殻以外はほとんど見られません。
少し探してやっと小さな土器片(中央右)を見つける事が出来ました。
この破片では判りませんが、この遺跡から出土した土器の中で縄文時代晩期中葉の
「稲荷山式土器」と名づけられて呼ばれる形式の物があります。
ここの貝塚に限らず、三河地方の、この時代の貝塚から出る貝殻はハマグリが圧倒的に多く見られます。
ただ、採りすぎてしまったからなのか残念ながら現在の三河湾ではハマグリは
まったくといっていいほど取れません。
歴史の古い寺社仏閣も多数存在しています。
それらを、これから少しずつ、まわって行こうと思います。