コルサの毎日がヒルクライム

2008年01月

今日(30日)、少し速く仕事が終わり、日暮れまで1時間ぐらいなら自転車に乗れそうです。
早速、帰宅途中にある公園に車を置いて積んである自転車を下ろし走り出します。

場所は愛知県豊川市前芝町(旧の宝飯郡、今年、豊川市になる)、豊川の右岸(西側)周辺です。


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まずは現在の豊川河口及び、豊川放水路の西側にある「前芝の灯明台」です。

豊川放水路は豊川の増水時に水を流し氾濫を防ぐ為に1965年に完成した水路です。
(豊川上流、現在の国道362号線 当古橋周辺は、豊川下流が曲がりくねっているせいか、
しばしば増水氾濫した)

現在の位置関係を見ると、ここに灯明台を設けた意図が、わかりにくいかと思います。
その理由として上記の豊川放水路の完成と、1600年代から、ずっと行われていた干拓事業で
周辺海岸線の地形が大幅に変わっている事があげられます。

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前芝の灯明台の案内板です。
説明文中の「光の達する距離」は、ちょっと信じられないものがあります。
しかし、ほとんど人口の光がなかった時代なら十分、確認出来たのかもしれません。

「藩主が乗船していた際、現在の蒲郡市沖で難破したが大事無かった」とする文献もあります。

現在では、灯明台の必要性はピンときませんが海上交通が主体の時代だったのですね。
豊川上流、現在の新城市、長篠あたりまでも陸送より水運の方が盛んだったそうです。
(牛馬による輸送より船による輸送の方が大幅にコストが安かった)

この灯明台から上流部、吉田大橋の下流一体の豊橋市船町あたりは「吉田湊」
(吉田は豊橋の古い呼び名)と呼ばれ、かつては水運で大変に栄えたところで、
江戸時代頃には江戸、大阪、伊勢(伊勢神宮参拝など)などに向けて船が運航されていたそうです。
おかげ参りの年にあたった1730年などは5月下旬から8月上旬で3万4千8百人が吉田湊から
伊勢に渡ったという記録もあるらしい(東海道吉田宿の人口が5千5百人程度の時代)。


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さて前芝の灯明台から県道385号線(平井牟呂大岩線)に出てを少し北東に走ります。
目的地は県道385号線と飯田線、東海道線、名鉄が集中し、交差する場所です。
ここは、道が狭いのに23号線と1号線を結ぶ抜け道として交通量が多く、今まで調べたくても
行く気にならなかったところです。今日は、思い切って行って見ます。
やはり思ったとおりの場所でした。

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「渡津」の渡しの案内板です。
ここで、いう東海道は江戸時代に整備された東海道より、はるか以前のことになります。
江戸時代の東海道は、ここから上流、1キロほどのところにありました。
この案内板があるのは現在の豊川市小坂井町平井地区です。
いにしえの東海道の渡し場は地形及び海水面の変化で時代によって案内板のある平井から、
小坂井、篠束などと変化したそうです。
「渡津」の渡しも10世紀後半には寂れてしまったそうで渡津の宿駅の位置は不明だそうです。
ただ、渡津の名前は旧23号線の橋、「渡津橋」として現在も残っています。
ここがすたれた後、11世紀以降のルートは豊川市古宿または当古町あたりだったらしい。
(鎌倉街道と呼ばれるコース)

この渡し場の位置も現在からは上記の灯明台と同じくピンときませんが、
灯明台の件と同じ理由(地形の変化)のせいですね。




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「志香須賀の渡し」の案内板の、直ぐ横に、こんなところもあります。
「村中安全」を祈った場所です。明治37年と読めました。
(志香須賀は湖西市の白須賀と似ていますが、もちろん全然違う場所です。念の為)



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もう一つ、こんな石碑もありました。
「柏木濱」「菟足祭神御日蹟」と読めました。
「菟足神社」(うたりじんじゃ)は、ここから数百mの北東の旧東海道と国道1号線の間にあります。
この神社の境内には縄文時代の貝塚もあります。
また、徳川家康なども戦勝祈願に立ち寄った記録があるそうです。
菟足神社も、近いうちに訪ねなければ。


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日が暮れてきましたので、折り返して車に向かいます。
途中、平井稲荷山神社に立ち寄ります(JR西小坂井駅から800mほど)。
ここは平井遺跡と呼ばれる縄文晩期から弥生時代の遺跡があります。
現在、画像の背中側には田畑が広がっていますが当時は海岸だったと思われます。


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境内には貝殻が散乱しています。
ただ、大正、明治時代から何度も発掘調査されていますので貝殻以外はほとんど見られません。
少し探してやっと小さな土器片(中央右)を見つける事が出来ました。
この破片では判りませんが、この遺跡から出土した土器の中で縄文時代晩期中葉の
「稲荷山式土器」と名づけられて呼ばれる形式の物があります。
ここの貝塚に限らず、三河地方の、この時代の貝塚から出る貝殻はハマグリが圧倒的に多く見られます。
ただ、採りすぎてしまったからなのか残念ながら現在の三河湾ではハマグリは
まったくといっていいほど取れません。


豊川河口部には貝塚などの縄文遺跡、弥生時代稲作遺跡の瓜郷遺跡などから
歴史の古い寺社仏閣も多数存在しています。
それらを、これから少しずつ、まわって行こうと思います。

今回(1月26日)は湖西連峰の南側、前回の続きをたどりました。
前回の様子 その1→http://blogs.yahoo.co.jp/corsa2003sp/11999116.html
      その2→http://blogs.yahoo.co.jp/corsa2003sp/12165562.html
     
前回の地点に戻るのに今回は別のところからスタートすることにしました。
初めてのところを通りたいのと梅田峠という峠があるということから選びました。
スタート地点は愛知県豊橋市の東端に隣接する静岡県湖西市からになります。
具体的な場所はJR新所原駅の北側、湖西連峰ハイキングコース、梅田登山口からです。
登山口にはトイレもある立派な駐車場が整備されています。
今日は土曜日のせいか、すでに何台かの車があります。
(新所原の駅から歩いてくるハイカーも多いようです)


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山へのスタート地点は、こんな感じで、よく整備された道が続いています。
ギヤ比が低いMTBなら、しばらく乗車していけるでしょう。
自分は、直ぐに、あきらめて無理せず押していきます。


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朝から強い風だったのですが南向きの山に入って非常に静かです。
鳥の鳴き声を聞きながら進んでいたら、あっけなく梅田峠についてしまいました。
ここは4方向に道があります。

画像の左側(東、静岡県側)から登ってきました。
右側奥の道が稜線の道で西、愛知県側になります。


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梅田峠は南側のみ、わずかに展望が開けています。
左手前は「アスモ」、左奥は「鈴木自動車」の工場でしょうか。
遠くは太平洋を望めます。


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梅田峠から稜線上は、いきなり、きつい登りが始まります。
もちろん、登りだけではなくアップダウンで進んでいきます。
こんな感じの乗っていける、気持ちの良い道もあります。


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またまた、現れた、きつい登りを登りつめると、こんな大岩がありました。
ここは「仏岩」といい、上に登ると展望が開けています。
自転車を置いて岩に登っていくと、すでに2組のハイカーが休憩中でした。
挨拶をして自転車を持ってよじ登るルートを探します。

結局、楽ではありませんでしたが手前の岩の右側から、なんとか、よじ登れるコースがありました。


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仏岩からの展望です。
中央の高いビルが浜松のアクトタワーで、手前は浜名湖です。

ここから、少し行くと岩場で乗れず、女性ハイカー3人組と話しながら進みます。

彼女達に「自転車、連れて歩くのは大変ね」なんて言われちゃいます。


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岩場を過ぎて乗れるところがあり(後ろ髪をひかれるも 笑)女性ハイカー達と別れて先を急ぎます。
やっと前回、通った分岐の大岩につきました。
前回は右奥から降りてきましたが、今回は背中側から進んできました。
ここから大岩の向こう側、画像の左側(西側)へ進みます。

西に進んでから、今度は南に下り今回の目標の一つ普門寺という、お寺を訪ねます。


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一旦、普門寺に出たあと、そのまま下りきって山を眺めます。
山の稜線が緩やかにカーブしています。この形が船底の形に似ていることから、
ここは船形山と呼ばれています。

現在の普門寺は、ふもと近くにありますが、かつては、この山全体に約300ヶ所もの
寺院、坊院、付帯施設などがあった大寺院だったといわれています。

1190年、上洛する途上の源頼朝が通った鎌倉街道も、この山を越えていました(普門寺峠)。
その際、源頼朝は普門寺に宿泊したとされています。

さて、一旦下ってきた稜線を再び目指します。
(下ってきた道とは違う道で上ります)


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普門寺の鐘楼門です。
普門寺は727年、僧、行基によって開山されたと伝わっています。
一度、さびれたようですが鎌倉幕府を開いた源頼朝の叔父、化積上人(かしゃくしょうにん)
によって再興されたそうです。

ここには国指定重要文化財の阿弥陀如来、四天王像などがあります。
残念ながら年に二日しか御開帳していませんので今回は、お会いできませんでした。


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山門手前から左に上がると本堂と大師堂があります。
本堂の傍らには樹齢四百年以上という大杉もありました。
画像は1854年建立と伝わる大師堂です。

ここから、元堂跡、普門寺峠を目指し登っていきます。


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本堂からは、ずっと登りが続きます。
階段が作られているように、かなりの急勾配です。

画像の左側は、平坦地になっており、かつて坊院などがあったとされるところです。
このような平坦地がいたるところにあります(寺院施設などの跡)。
山を切り開いて、これだけの平地を確保する勢力のあった寺院だという事がわかります。

あえぎながら登っていくと、仏岩で会った女性3人組のハイカーにまた会いました。
「ご苦労様」、「こんなところで再会とは」と、大ウケしています。
「この先も、ずっと階段ばかりですよ」と、ありがたいような、ありがたくないような(笑)
情報をいただきました。


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元堂跡につきました。
なんと、現在、発掘調査中でした。
実は、ずっと歩きながら「一度、元堂も、ちゃんと発掘調査すればいいのに」と
考えていたので余計に、びっくりです。

普門寺峠北側の鎌倉街道は元堂の裏手を通っていたとのことですが・・・


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鎌倉時代の物でしょうか?かわらが出土しています。


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元堂跡からも、ずっと厳しい登りが続き、やっと普門寺峠に着きました。
中央奥が登ってきた方向(南側)で背中側(北側)に下ります。

道標があるように東西方向の稜線上にも遊歩道があります。
その為、写真を撮っている間にも数組のハイカーと出会いました。
東西の稜線上は、まだ通ったことがありませんので次回の為に
いろいろ情報を教えていただきます。


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さて、普門寺峠から北側に下っていきます。
この道は、かつての鎌倉街道の一部といわれています。
こちら側のルートはハイカーには人気がない様で荒れ気味です。
(画像の、ここはきれいなところ)


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結局、普門寺峠から北側は下りでも乗車率は、ほぼ0%でした(笑)。
高低差のあるところは岩を削って階段状に整備されているところもあります。
いつの時代の痕跡でしょうか。

それにしても、この岩だらけで、きつい場所を源頼朝も馬で通ったのでしょうか。


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やっと、下りきって豊橋市岩崎町に出ました。
手前側に尾根が一本通っていて稜線を隠していますので反対側のふもとから見た稜線とは、
ずいぶん感じが違いますね。
中央が普門寺峠でしょうか、それとも手前の尾根の陰に隠れているのでしょうか。
多分、普門寺峠は尾根の影でしょう。画像中央のあたりは前回下った
無名峠のような気がします。


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岩崎の町を北西に進むと(鎌倉街道もこのあたりを通っていたはず)鞍掛神社があります。
ここは、源頼朝が馬の鞍を寄進したことから鞍掛神社と名前を変えたと伝わっています。
神社の東側100mぐらいのところには頼朝が馬をつないだという「頼朝公駒止之桜」もあります。
ちなみに現在の桜は3代目だそうですが(笑)。

今回のサイクリングは、これで終了です。
鞍掛神社から北東に進むと赤岩寺の前を通って鎌倉街道、乗小路峠に至ります。
(以前越えた乗小路峠の様子は冒頭のアドレス その1にて)

この記事をアップしておいて言うのも何ですが、今回のコースを含む遊歩道
(湖西連峰ハイキングコース、豊橋自然歩道)は季節の良い時期の土日祭日は
さけるべきだと思います。

今回、1月、寒い日の土曜日でしたが10組以上のハイカーに出会いました。
もちろん、ハイカーに気がつけば手前で降りて道の隅によける様にしていました。
そのせいか、ハイカーの皆さんは好意的に対応してくださいました。

ただ、道も険しく狭いところも多いので、やはりハイカーが多くなる季節はさけた方が
無難だと思います。

数年前に豊橋市内の自転車店に古いデローザがあるという話を聞きました。
そこは、大きな自転車屋さんですが、サイクリング車や高級スポーツ車には力を
入れてはおらずノーマーク?でした。
早速、偵察に行くと80年代後半と思われる新車のデローサがありました。
コルサの欲しいデローサは80年代初期あたりまででしたので、そのままになっていました。
(そのお店は80年代後半、高級車や高級パーツを仕入れてみたものの売れずに残っていたらしい)
昨年末、その話を名古屋の知人にするとロード好き(特にデローサ、カンパ大好き)の彼は直ぐに
見に行くといいます。
案内すると彼にフレームサイズはぴったり、部品構成も彼の持っていない年式のカンパという事で、
そのデローサが欲しくなってしまったようです。
いずれにしても資金がないので、その日は帰ってきました。
結局、一ヵ月後、彼は何とか金策して購入資金を捻出(一部は借金らしいが 笑)。
今回、めでたく、ご購入となりました。


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※ブログ容量確保の為、画像を削除しました※

DE ROSA 「デローサ プロフェッショナルC」というモデルです。
当時の輸入元は(F.E.T極東)で定価は50万円!!でした。
カンパの部品は1987年頃の物のようです。サドルの製造刻印も87年でした。
ということで、年式は1987年としておきます。
フレーム、フォークは、もちろんスチールでコロンバス SLXというパイプで組まれています。
メインコンポはカンパニョロ Cレコードになります。
「プロフェッショナルC」としては、初期のモデルですね。
この後、フレームの塗装パターンや部品構成がが若干変わります(値段も91年頃には58万円でした)。


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この頃のヘッドマークは、こんなシンプルなタイプです。


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以前の物と違いフォーククラウンも、この頃は、こんな形になっています。
ちゃんとデローサの刻印が入っています。


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シートステイのフタの刻印は、こんな感じです。


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フォークエンドのリヤはカンパのショートロードエンドでしたが
フロントだけは、なぜか「DE ROSA ITALY」刻印入りのオリジナルエンドです。


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デローサというとBB下のハートマーク型の肉抜きが有名ですが、この頃のBB下側はこんな感じです。
デローサ オリジナルなのか他のビルダーも使っていたものなのかは不明です。
リヤ側に補強(フィン状)の物が付いていてシートステイブリッジパイプは省略されています。
よく見ると、「46」の刻印が見えます。この年の製造ナンバーでしょうか?


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パーツの刻印は、ステムだけでした。
70年代後半のデローサならステム、ブレーキレバー、シートピラー、ギヤ板などに刻印が
入っていた物ですが。(このモデルのピラーはエアロタイプで刻印しにくいですね)
ステムはチネリの「1/A」タイプです。この頃すでに「レコード」に続く新型「X/A」も
出ていたのですが以外にもチネリの古い形の物が付いています。
ちなみに、90年頃のプロフェッショナルCは「3TTT」にメーカーが変わっています。


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RDは通称、C RECORD(Cレコード)です。
1985年のカンパのカタログを見ると「RECORD corsa group」と書かれています。
このCレコRDは2型になります。
最初期はダブルテンションでしたが、この2型はシングルテンションに変わっています。
ダブルかシングルかは、この角度からは、ほとんど判りません。
ただ、ダブルの調整ネジはマイナスネジだったようです。


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好みが別れるデルタブレーキです。これも2型ですね。
1型は何らかの問題があったようで販売後、回収されています。
(一部は販売されてしまった)
画像のタイプが正式に?販売された最初の型のようです。


※ブログ容量確保の為、画像を削除しました※
タイヤはビットリアが付いています。
コルサCX「CORSA CX SQUADRE PROF」は当時の定価11000円です(1本)
さすがに、20年も経っていますから使えません。これは保管ですね。


※ブログ容量確保の為、画像を削除しました※
リムはアンブロッシオ メタモフォーシスでこれも当時1ペア、32000円という超高級品でした。
この頃、デローサで組まれたホイールには(DE ROSA CORSE)の文字がある右端のステッカーが
貼られています。
ちなみに組み方は前後とも、俗に言う?「イタリア組み」の完全に逆でした。


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先に部品の刻印はステムだけだったと書きましたが
シリカのポンプにも刻印がありました。


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※ブログ容量確保の為、画像を削除しました※
ボトルにも、もちろんマークがありました。
裏表?で若干デザインが違うんですね。


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バーテープ?は当時の高級車に流行していた「ALMARC」です。
革製で、いかにも高級そうで高そうです。



このデローサを手に入れたT君は、未使用車とはいえ20年も経っていますから
しばらくオーバーホールと磨きに忙しいことでしょう。

最近はアヘッド、インテグラルヘッドなどでヘッドパーツも様変わりしています。
それでも、うちにある多くの自転車は昔ながらのヘッドパーツを使ったものがほとんどです。
今回はヘッドパーツ工具について考えてみました。


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一般的にヘッドパーツをセット、調整するのに使うのは、この手の工具が多いのではないでしょうか。
画像はシマノでサイズは32ミリ。


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MTB用だとオーバーサイズ(パイプ径が大きい物)が増えサイズが大きいスパナが
必要になったりします。画像のスパナのサイズは36-40ミリ。


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ツーリング車に使われるヘッド小物は34ミリのサイズが多いですね。
画像は輪行などに持参するスパナ。

サイズも多様ですが、もう一つ気になるのがヘッド小物の材質です。
70年代半ば頃から軽量化を意識してアルミ製の製品が増えてきました。
ヘッドパーツは緩みやすいので、しっかり締め合わせする必要があります。
そうするとアルミ製のヘッドパーツは角(かど)が変形してしまったり、最悪な場合、
なめてしまうこともありました。
まあ、変形までいかなくても、角が少しずつ傷んでくるのは悲しいものがありました。


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アルミヘッド小物の傷みを低減することを考えて見つけたのが、この工具です。
形的には「モーターレンチ」といいます。日本では一般的では有りませんが特に英国人で車や
モーターサイクルを、いじる人に使われているような気がします。
普通は当然、スチール製ですが、この画像の物は材質がアルミ製のものです。

日本での用途として配管工事の人たちに愛用者が多いようです。
水道、お風呂、トイレなどの配管でメッキが綺麗で目に付くところがありますよね。
そういった所で使われるのが、このアルミ製モーターレンチです。
理由はクロームメッキされた目に付く部分の配管に
傷をつけてはいけないのでアルミ製の工具で作業するのです。
ということはヘッドパーツのアルミ製ナットにも使えます。
配管まわりはパッキンが入っているので大トルクで締め付ける必要は、ほとんどありません。
その為、傷つけにくくアルミ製で軽量な使いやすい工具が好まれるのです。
それとサイズが大きい物も回せますので便利です。
もちろん、この工具で上ナット、下側はシマノなどのスパナを併用します。


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数年前、アメリカンブランド 「パークツール」の自転車工具カタログを見ていて思わず
「探していたのは、これだ!」と思ったのが、この工具「パーク HW-2」です。
この工具だと普通のスパナが2面しか当らないのに、このスパナだと7面にトルクが
掛かることになります。
当然、面圧が下がりアルミナットを傷めにくいはずです。
すぐに取寄せ使ってみました。


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上記のように7面に当たることでアルミ製のナットに優しく傷めにくくなりました。
また錆び付いたスチール製のナットを回す際でも安心感があります。

8面の形状も考えられますがハンドル、ステムが付いていたら使えないので完成車の場合、
使いづらくなってしまいます。


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傷めにくい理由は、このように工具の厚みにもあります。
右がシマノ製、左がパーク HW-2です。
7面と、この厚みでしっかりナットにセットできますので錆び付いたナットをはずす時にも、
なめにくく、工具も外れにくく安心感があります。
ただ、32ミリと36ミリサイズだけなのでツーリング車用の34ミリに対応できないのが
残念なところです。
あと、材質がスチール製で重量が450グラム弱と重いのが難点ですね。でも耐久性と
使い勝手(厚みによる)を考えればアルミよりスチール製でしょうね。

それから、もちろん、8各のナット専用になります。
リッチーWCSのような4角、MTBに多い6角には当然使えません。




さて、アルミ製のナットに、いい工具が見つかりましたが34ミリナットの工具で良い物が
見つかりません。
現在、34ミリを回す工具として、まあ、こんなところかな、と思っているのが、この工具です。
34ミリナットのヘッドパーツは、ほとんどスチール製なので角を傷める心配は
多少すくなりますから。


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34ミリの上ナットを回すのに使っていたのは画像3枚目の輪行用スパナと画像4枚目の
モーターレンチでした。
モンキーレンチという手も考えられますが、普通のモンキーレンチで34ミリサイズのナットと
なるとレンチ全長が300ミリぐらいの物でないと回せません(大きく重く扱いにくい)。
画像の一番下の250ミリタイプで、やっと30ミリのナットが回せる程度です。
30ミリではヘッドパーツには使えません。
(まん中の200ミリでは25ミリのナットぐらいが限度)


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ところが最近、出回っている開口部が大きい通称「デカモンキー」だと200ミリタイプで
38ミリぐらいまで回す事ができます。
(アップ画像の前の)画像の一番上のタイプがそれです。まん中の普通タイプのモンキー200ミリと
ほぼ同じ全長ですが
「あご」が大きく開き34ミリなら楽々です(最大38ミリ可)。
普通のタイプのモンキー(34ミリが回せる300ミリ)と大きさ、重量を比較すれば使いやすく
便利なことは圧倒的です。

画像はモンキーレンチで昔から有名なスウェーデンの「バーコ BAHCO」製、タイプ9031です。
バーコは最近、スナップオンの取り扱いになりましたので入手も比較的、容易になりました。
少し気になるのはアゴのサイズを調整する部分の回転が日本のモンキーレンチとは逆なことですね。
輪行スパナの肉薄で、ずれやすい工具と比べれば、このスパナの使いやすさは助かりますね。
(バーコではなくても他社から同様の製品が出ていますからホームセンターなどで入手できます)

2008年1月14日 
豊橋鉄道 田口線 廃線跡を自転車で訪ねました。
そのレポート第2弾です。

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三河海老駅の先も線路跡を車で通る事が出来ます。
そして県道32号線に出る直前、線路跡はここから左になります。
この民家は廃線後に出来たのでしょうか?それとも・・・


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上記の分岐を過ぎると、こんなジャングル状態に。
実は、ここが滝上駅です。画像右側寄りを良く見ていただくとホームの
コンクリートが見えるかと思います。

1月で、この状態ですから夏ごろ訪れるとホームにたどり着くことすら
大変な状態でしょう。
訪ねるなら草が生える前、今の時期がよいですね。


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滝上駅を出ると直ぐに小さな海老トンネルです。
ここは、直ぐ東側を県道32号線が走っています。
このトンネルは近所の人が資材置き場に使っています。
このトンネルは通れます。


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海老トンネルを出て少し進み稲目トンネル手前から振り向いたところ。
中央石垣上のポールの右側に「お猿さん」が2匹こちらを見ているのが判りますか。
この2匹の他にもサルが何匹か林の中にいるのがわかりました。

この右側の石垣の上が線路跡でしょうか。
道路は県道32号線、非常に交通量が多いところです。


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海老トンネルを出ると線路跡と県道32号は重なります。
そして今日最大の難所?稲目トンネルです。
このトンネルは、もともと田口線のものです。
拡幅工事され現在は県道として使われています。このトンネルが出来て車の通行は
大変便利になりました。
ちなみに国道とは稲目トンネルを出た北側で合流します。
国道は今も道が狭く曲がりくねっており、稲目トンネルの方が安全で便利です。
ただ、長さは1511mもあり、暗く排気ガスが充満しており自転車にとっては、いやなところです。
(自転車にとっては難所?)

稲目トンネルを抜けると田峰駅跡で、そこから鉄道跡は道路の対岸に渡っていたそうです。
今回は、この区間はパスして先をいそぎます(次回調べます)。


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国道257号線、清嶺トンネルの南側に田口線の清崎トンネルがあります。
入口付近が崩壊(トンネルの一部自体も)していますし草だらけで、しばらく気がつきませんでした。
枯れ草越しに、よくみると不気味にトンネルが口をあけています。
トンネル内は湧き水?がたまり水没していました。

このトンネルは進入出来ませんので国道、清嶺トンネルを進みます。


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トンネルを抜けると清崎の町です。
画像の道路の左側に97年頃までプラットホームのコンクリートや
駅名表示が残っていたと思います。
(具体的な位置が、どこだったのか詳しくは覚えがありません)

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清崎の信号交差点を越えると直ぐに、このゲートがあります。
国道257号線は、もちろん右です。
このゲートの先が田口線跡です。
ここからは田口線あとを、終点の田口駅まで、ずっと車でたどる事が出来ます。
交通量は少ないのですが道が狭いので注意が必要です。

ここには2月?にアマゴが解禁されると「渓流釣マニア」が押しかけると思われます。
そうすると路肩に無理やり駐車する車も多いでしょう。
今回はすれ違った車は1台のみでした。
それ以外に工事車輌と思われる駐車車輌が数台ありました。


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ゲートをくぐると、いきなり弁天橋です。
画像の右端がゲート方向(長篠側)になります。


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橋を渡ると最後の民家です。この先には田口まで民家はありません。
そして田内トンネルです。
道路左側の表示板が光って読めませんが「トンネル内、段差あり」だったと思います。
実際、トンネル内の路面は悪く、照明もありませんからオートバイ、自転車は慎重に
行ったほうが良いと思います。コルサは念の為、自転車を降りて押していきました。


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田内トンネルを過ぎると築堤になっていました。


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そして入道島第一トンネル(南側)


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入道島第一トンネルを出ると高鉄橋(平野橋)があります。橋の脇から降りていけば、
その名の通り高い鉄橋の写真が取れるそうですが、すでに疲れて気力がありません(笑)
画像は高鉄橋を渡りきり入道島第一トンネル側(長篠方面側)を見たところ。


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高鉄橋を渡るとすぐに入道島第二トンネルです。
画像は南側。


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入道島第三トンネルです。
画像は南側。


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入道島第三トンネルを出ると川沿いの開けた所に出ます。

季節が良ければ気持ちもいいでしょうが、今日は、くもりで気温は約4~5度(寒い)、
疲れもたまってきて・・・
季節の良い時期、車窓から見れば最高だったでしょうね。


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今度は大久賀第一トンネル。画像は南側。


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大久賀第二トンネル。画像は南側。
内部、出口は線路状の鋼材で補強されていました。
トンネルがたくさんあり、かつて乗車した子供達は楽しんだのでしょうね。


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いよいよ、田口駅に到着です。
ネット上の画像で見ていたとはいえ、
倒壊しかかった駅舎の様子を目の当たりにすると、
さびしいものを感じます。

手前側の完全に倒壊している部分が柱の少ない改札口や待合室だったのでしょうか。

線路は駅舎建物の向こう側(画像の右手)、川沿いの、わずかな部分にあったと聞きますが、
見に行ってみると川まで狭く現状からは、ちょっと信じられない感じがします。
線路跡が川側に崩れてしまったのでしょうか。


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駅舎から南側(清崎駅、本長篠駅方向)を見ます。
広々としているのは森林鉄道と接続し木材の積み下ろしが行われていた為と聞きます。

画像の左側、山側には、ぐるっとコンクリートの壁上の構造物があります
(動物の線路内進入防止の為でしょうか?)。


さて、田口駅から田口の街の中心部まで行こうと思います。
よく廃線跡は、傾斜がなだらかで自転車には走りやすいといいます。
実際、その通り、ここまでは順調にきました。

ただ、ここ田口駅から田口の街の中心部までは最初に書いたように(その1)
鉄道を引けなかった約200mの高低差がある事を思い出しました。
しかたありません、昔の田口の人々の苦労を偲ぶため?山道を登っていきます。
田口駅から田口の中心部までは狭い道ですが4輪の通行も問題ありません。


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田口の駅から、線路跡の道を引き返さず田口の町まで、わざわざ登って来たのは訳があります。
田口線で使われていた車輌が田口の郷土資料館に保存展示されているからなのです。
ここまで来て電車を見ないでは帰れません(笑)

やっとの思いで、田口駅から田口の街まで登り、郷土資料館を探すと、
なんと更に山の、てっぺんに登ったところではありませんか(笑)。

まあ、何とか登って、田口線の車輌とご対面です。
現車は大正14年製造だそうです。ちなみに製作は日本車輌でした。


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車輌内部は開放されており、中には資料が展示されています。


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運転席にも入る事が出来ます。
昔の電車の運転席って、こんなに狭かったかな~。
コルサは田口線に乗った事は有りませんが豊橋鉄道渥美線は
ご幼少の頃?からずっと乗っています。
渥美線の車輌も古い物が多かったですね。


以上で、今回の豊橋鉄道田口線のレポートは終わりです。
夏になって草が、おいしげる前に、
もう一度、今回パスした部分を中心に訪ねたいと考えています。

なお、ほとんど当時の状態を残している清崎~田口間ですが近年、ダム建設工事が
進んでおり、ダムが完成すると清崎より北の鉄道跡は水没してしまうとの事です。
ご興味のある方は、そうなる前に訪ねてみる事を、お勧めいたします。

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