コルサの毎日がヒルクライム

2008年11月

今日は豊田市に用事がありましたが昼過ぎに終了。
あまりに良い天気なので車に積んである自転車で少し走ってから帰ることにします。
ただし、明日はレースなので、軽く走るだけにしなければなりません。

考えた末、安城市の遺跡を巡ることにしました。



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24日に安城市歴史博物館で行われていた企画展「三河の古墳」という展示を見ました。
その際、資料本を購入したのと隣接する埋蔵文化財センターでいただいたパンフレットを
参考にポタリングすることにします。
画像は企画展の資料本、写真多数、80ページ以上で800円、安い(笑)資料性価値高い。

安城市歴史博物館の駐車場に車を置いてスタート、まずは南下します。



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早速、桜井地区で「本日の第一古墳発見!」
ここは古墳時代前期の「碧海山古墳」でした。
直径約25mの円墳だそうです。



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碧海山古墳から少し西に入り、古墳ではありませんが堀内貝塚を探します。
ここは縄文時代の貝塚で人骨も何体か出土しています。
隣接して戦国時代の遺跡もあったのですが発掘調査後、現在はアパートになっています。
堀内貝塚も住宅地などになってしまい痕跡はないかも?と思っていたら道路脇に
こんな風に残されていました。

壁面の窓、2ヶ所からは貝塚の様子がわかるようになっていました。

現在の海岸線からは10キロ以上も離れている、この地に貝塚があるのは不自然に思えます。
しかし縄文時代には「縄文海進」と言って現在の海面より最大3mも海面が高かったといい、
かなり内陸まで海が入り込んでいた時代があったそうです。
その後、海面は徐々に下がり、また矢作川の運ぶ土砂が積もって海が
段々遠くなっていったのでしょう。



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こんな風に貝の堆積状況が見られます。
低い方の窓は泥はねで見にくくなっていましたが。
ハイガイ(寿司ネタの赤貝に似る)、赤ニシ、マガキなどの貝殻が確認されます。
ハイガイが特に多いなどアサリ、ハマグリが多い豊橋市や渥美半島の貝塚とは違いが見られます。



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堀内貝塚からすぐ南側の住宅地の中に堀内古墳(天満山古墳とも呼ばれる)がありました。
こちらは古墳時代後期の円墳のようです。直径は20m少々。



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さて、更に2キロほど南下して姫小川町で姫小川古墳を探します。
住宅の影に隠れ少し迷いましたが発見。
ここは古墳時代前期後半ぐらいの前方後円墳だそうです。



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姫小川古墳の、すぐ近くに姫塚古墳を発見。
ここは古墳時代前期から中期ぐらいと推定されています。
崖の地形をそのまま生かして古墳を作ったようです。



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姫塚古墳を反対側から見たところ。
反対側は住宅がせまり、かなり削られたりしているようで
もともとの古墳の形は不明とされています。



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姫塚古墳に隣接した民家の庭にあった「姫地下拡」と呼ばれる墳墓の跡。
石で囲んだ所がかつての穴のあった位置らしい。
かつては地下に二つの部屋が確認出来たようですが昭和中頃に崩れてしまったようです。
古墳時代後期に地下に穴を掘り、墓地とした遺構と推定されているとのこと。



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姫小川古墳から南下したところにあるという加美古墳を探したのですが見つかりませんでした。
それらしいところはあったのですが他の古墳のように案内板がなく特定できません。
どうも民家の庭にあったようです。

上の画像は古墳を探している時に見つけた石碑。
「岡崎西尾街道」「古道」「高札所」とあります。
この細道が、かつて岡崎と西尾を結ぶ街道だったようです。



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だいぶ日も傾いてきましたので帰る事にします。

北上しながら獅子塚古墳に立ち寄ります。
ここは、かつて55m前後もあった前方後円墳だったとのことです。
ただ、明治時代に堤防工事の為に、前方部は削り取られ現在は残念ながら後円部を残すのみです。

それにしても、このあたりの古墳は神社として祭られているところが多いですね。



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そして最後に立ち寄ったのが「二子古墳」です。
ここは岡崎西尾線(先ほどの古道の現代版?道路)と呼ばれる交通量の多い街道脇にあります。
(画像の反対側が岡崎西尾線)
その為、以前から仕事などで通るたびに気になっていましたが、やっと訪ねる事が出来ました。

ここは3~4世紀頃と推定される比較的古い時代の古墳です。
全長68,2mと言われる大きな前方後方墳です。

このあたりは古井遺跡群と呼ばれ遺跡がたくさんあるところです。
古墳の手前の水田も「二夕子遺跡」(ふたご)と呼ばれる遺跡地区で弥生時代から
平安時代の土器や木製品が出土しているそうです。



今回、回った遺跡群の中でも古墳の数々は矢作川の右岸に作られた古墳ばかりです。
20キロ足らずの距離で、これだけの古墳を見る事が出来ました。
この他にも名前は知られていても確認出来なかった古墳もありました。

今まで不勉強で、このあたりの遺跡は、あまり知りませんでしたが古墳以外にも、
興味深い遺跡が多数あるようです。

これからまた少し調べてみなければ。

少し遅くなりましたが
11月23日に今年度の天狗党カップ最終戦を行いました。

今回のレースはデュアスロンでした。

内容は
①1.8キロのラン
②2.6キロのコース×5周(13キロ)自転車
③1.8キロのラン
④2.6キロのコース×5周(13キロ)自転車
としました。
合計するとランが3.6キロ、自転車が26キロとなります。

レースの結果、年間ポイントランキングは天狗党HPにて
http://www2.starcat.ne.jp/~tengu/




今回は、レースの模様を画像にて。
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※※ブログ容量確保の為、画像を削除しました※※

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スペシャルステージが終わり、次のステージに向けて点検整備を行うロータス エリーゼ
アルミ接着シャシーは過酷なラリーでも大丈夫なのでしょうか?



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ラリーショー会場でデモランを行う展示車輌



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三菱は、こんな展示車輌も持込んでくれています。
フェンダーに「アンドリュー コーワン」の名前も見えます。



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同じく三菱の展示車輌 ギャランVR-4
1992年篠塚健次郎氏アイボリーコースト総合優勝車両とのこと



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これは三菱旧車クラブ?の方が持込んだ車輌



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おなじく三菱旧車クラブ?の方が持込んだ車輌
これらの車輌もデモランに参加したようです。
(残念ながら見れなかったが)
奥の白い車輌は三菱旧車の世界では有名な「ランサー○木」氏の愛車。
コルサの知人でコルサもこの車輌をドライブした事があります。



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デモランを走る三菱ランサー 
ドライバーは篠塚健次郎氏



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開催地の新城市はヨコハマゴムがあります。
その為、こんな車輌も展示されました(実車版映画撮影用車輌ヨコハマタイヤ装備)

実動車なのか、どうか詳細は確認しておらず・・・



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こんな、ブースもあります。
これは「ソープボックスダービー」レース用車輌
単に斜面を無動力で走行する競技用車輌。
もともとはアメリカの子供達が「石鹸箱」(日本で言うりんご箱のような物か)に
車輪を付け坂道を下っていた遊び。
それを非行防止に結びつけ競技にしたもの。
自動車メーカーがスポンサーに付き専用コースが作られ成績上位者には奨学金を出すなどした為、
アメリカでは、かつて凄いブームになったらしい。
この画像の車輌はステアリング、ブレーキも見られず専用コースしか走れないもの。
となると勝敗は回転部の抵抗低減と空気抵抗のみ?。
その為か、かつて見たこのレースの写真はドライバーがとにかく小さくなって乗り空気抵抗を
減らしていました。

岡崎でもレースが開催されていましたがアメリカのレースとは違い上級クラスは
コーナーリング性能もブレーキ性能も、かなり要求されるコースで上位陣は本職の
レース車輌製作会社、○○レーシングさんなどでコルサは参加を断念した経緯があります。



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そして、こんな車輌の展示も(豊川市の自衛隊から)
これは4輪の通称「アーマーライト」、「軽装甲機動車」。

室内の写真は禁止とのこと。中をのぞくとドリンクホルダーが2個装備されていました。
これが国家防衛上の機密事項なのでしょうか(笑)



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そして、自衛隊車輌もデモ走行しちゃいます。
アーマーライトに続いて6輪装甲車輌もデモラン(笑)



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こんな自衛隊車輌もありましたが、こちらは残念ながら走行はなし。
でもまたがって写真を撮るのはOKでした。


結構、楽しそうでしょ。
一日楽しめて、なんたって無料なんですから(笑)
コルサは見逃しちゃいましたが(残念)レースクィーンの撮影タイムもありました。

興味ある人、来年はぜひ。

全日本ラリー選手権 第10戦 新城ラリーに行ってきました。
(22日の土曜日に行きました)

ラリーの行われた新城市はコルサの住む豊橋市に近く会場まで車で一時間ほどです。

今回は10キロほど手前まで車で行って自転車を下ろし、会場入りしました。

昨年はスペシャルステージを見れませんでしたので今年はSS観戦がメインの目的です。
スペシャルステージ(ギャラリーステージ)は「ラリーショー会場」から距離にして
600m程度と近いので時間さえあれば観戦は、お気楽??コースです。
とはいえ普段は、ただの山の中ですから、ほとんど登山です(笑)
それでも、地元のボランティアの方によって草刈、仮設階段の設置などが、されているので助かります。



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ギャラリーステージSS3 池側ポイント
熱心なファンが詰め掛けています。



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しかし、コース路面より観戦ポイントが低い為、車の動きは、しっかり見られません。
ちょっと残念です。
でも仮設ステージを作るのは大変ですよね・・・

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池側ポイントでも一番上まで登れば、かなり車が良く見えますが
ここは多くても十数人ぐらいしか並べないぐらい狭くて・・・



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ギャラリーステージSS6 山側ポイント
SS6といっても実は、SS3と同じコースです。



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観戦ポイントは午前中の池側ではなく山側ポイントです。
山側ポイントは何ヶ所か車の見えるところがあります(結構、観戦ポイントの数がある)
ただし、足元が険しいのでスニーカーなどの靴でないと登るのが大変です。
いや、スニーカーでも大変だったりして(笑)
でも、その分、車はしっかり見る事が出来ます。
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ヘッドライトを付けて走るロータスエリーゼ
ナイトステージではありません。
ちょっと露出を変えてナイトステージっぽく(笑)



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同じくナイトステージっぽく・・・



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これは「ラリーショー会場」のデモランの様子



次回、「その2」では、旧車や、あっと驚く?車輌を紹介します。

以前、渥美半島遺跡巡り(中世編)に行った記事をアップしました。

今回は同じ渥美半島ですが縄文時代編です(笑)
(なお、このサイクリングは記事が前後しますが11月11日に行ったものです)

今回は地元、渥美半島にある、縄文時代の貝塚が目的です。
以前、何度か訪ねた事がありますが、久しぶりの所もあり、現状を見に行きます。
(川地貝塚は今回が初めて)



まずは半島先端の伊良湖岬に程近い「川地貝塚」です。
ここは縄文時代後期の貝塚です。
しかし、現在は西の海岸にも東の海岸にも直線距離で数キロ離れています。
また、地形的にも平坦な畑で過去に海岸線が近くにあったとは到底思えません。
それなのに、ここに貝塚があるのが不思議でなりませんでした。
(縄文海進と言って縄文時代に現在より2~3m海面が高い時代もあった)

ここは、初めて訪ねましたので場所がわかりません。
田原市の文化財マップでかなり詳細な位置が示されているので間違いなく近くには来ている筈です。
しかし、貝塚らしい痕跡(貝殻とか)も見つかりませんので近くの農家の方に聞いてみました。
すると、場所はコルサが目を付けていたあたりで間違いなく、具体的に教えていただく事が出来ました。

ついでに地形の事を聞くと今までの疑問が一気に解決する、お話を聞く事が出来ました。
それによると以前は、ずっと低い土地であり稲作をしていたそうですが、
稲作から畑に転換することになり大量の土砂を運び込んで低い土地を全て埋めてしまい
現在のような畑になったのだそうです。

以前、田んぼだった時代は少し深く掘ると貝殻はもちろん、石器なども出てきた事があるそうです。
貝塚のあった所は、それほど低い土地ではなかったようですが、それでも上に土砂を入れてしまった為、
現在の地表には貝殻も見つけられなくなってしまったとのことでした。



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画像は「川地貝塚」があったという場所の現在の様子。
一面、畑になっており、海岸から遠く離れ貝塚があったとは信じられない土地になっています。
ここからは石錘(せきすい)と呼ばれる網に付ける石の錘や多くの遺物が発掘、報告されています。




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さて、川地貝塚の場所もわかり地形の謎も解明し?
次は東に向かい「渥美半島 三大貝塚」のひとつ「保美貝塚」を目指します。

ここは画像のようにまわりは畑で残された貝塚跡も樹木に覆われてしまっています。



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それでも、少し歩けば土器片、骨片などが見つかります。
中央の骨は軽く、細長いことから鳥類の物かもしれません。
(貝塚からは多くの鳥類の骨も報告されています)



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さて、保美貝塚から国道259号線を東進し「伊川津貝塚」(いかわづ)に向かいました。
伊川津の神明社の敷地に貝塚があります。

画像の奥、左が拝殿で貝塚は正面奥に小さく見える小さな祠の裏あたりに広がっています。
ここからも多くの遺物が見つかっています。
人骨も今までに200体弱見つかっています。
特に有名なのは健康な歯を決まりによって抜く「抜歯」が施された人骨が多数、出土していることです。
抜歯は成人あるいは結婚の際に行われたと儀式と推定されています。
(抜歯人骨は伊川津貝塚だけでなく前述の保美貝塚、この後の吉胡貝塚からも発見されています)



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伊川津貝塚を南側から見たところ。
手前の田んぼは縄文時代には海が入り込んでいたと推定されています(福江湾の一番奥)。
貝塚の北側には干潟が広がっていた筈で貝類、魚類の採集には適していた地形なのが
今でも伺える遺跡です。

境内では今でも貝殻が見られますが、ここも貝塚のほとんどの部分は
樹木に覆われてしまっています。


そして今回、最後に訪れたのが「渥美半島三大貝塚」の中でも、もっとも有名な
吉胡貝塚(よしご)です。
ここは最近、吉胡貝塚史跡公園として整備されました。


この貝塚は大正時代頃から発掘、調査がされており、多くの人骨、遺物が採取され
人類学、考古学関係等、各方面から多くの注目を集めました。
その為、文化財保護法に基づく国内第一号の発掘調査が行われ更に多くの
遺物などが発見され大きな成果を挙げています(国指定史跡になる)。
特徴的なのは日本各地の貝塚の中でもだんとつに多くの人骨が発見されていることで
これまでに延べ340体の人骨が発見されています。


※※(ここからはコルサの素人見解・過去、同様の書籍の記述もあり影響を受けました)
ただし、この340体の人骨が全て縄文時代の物なのかコルサは疑問に、ずっと思っています。
というのは、このあたりは中世の墓地にも利用されていたと言われ中世の人骨が
含まれていたのではないかと考えています。(すぐ横には現在の墓地もある)
貝塚を掘り込んで中世に葬られても副葬品もほとんどなく墓標もなければ縄文人骨と間違えてしまいます。
実際、縄文貝塚に葬られた中世人骨の発見例も近く、豊橋市の貝塚にあります。
とくに大正時代の調査などは、現在では考えられないほど、短時間に、かなり広い面積を
発掘しており、人骨の収集が主目的の、かなり雑な?発掘だったと思われる為です。

しかし、最近、発行された書籍の記述では「(吉胡貝塚)出土人骨の総計は340体にのぼっている。
しかも90㌫以上の人骨において抜歯が認められ」という記述もある。
そうだとしたら、ほとんどが縄文人骨で間違いないことになるが・・・

①340体の人骨が全て歯の状態が確認できるほど保存状態が良かったのだろうか?
②340体が全て成人であったとは思えない(だとしたら不自然)。
 子供の人骨が含まれていれば成人以前で 抜歯が実施されているとは思えない。
 それが残りの10㌫?というのも、ちょっと疑問。
③過去の発掘の主導が、まちまちで出土人骨も保管されているところは一ヶ所ではないはず?
 そんな、状態で全ての人骨の歯の状態を調査出来たのだろうか?
以上は、コルサの素人考えです、あくまでも。



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現在の吉胡貝塚の様子です。
整備される前は畑と空き地で貝殻が散乱していました。
その当時の様子の方が、縄文時代そのまま?に近く縄文の時代をしのぶには良かったような気もしますが。
良くも悪くも綺麗な史跡公園になってしまいました。



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丘の上、左端に見えるのが吉胡貝塚資料館です。
資料館の展示を見終わると屋外の、この丘に出るように作られています。
そして、画像の中央に見える白い屋根の部分に来るように順路が作られています。
白い屋根の下には実際の貝塚を地下に掘り込んであり、貝塚に埋葬された人骨の様子が
わかるような展示になっています(人骨はレプリカ)。

ところで貝塚に埋葬と言うと「ゴミ捨て場の貝塚に人を埋葬するとは?」と、よく言われます。
しかし、それは縄文人が無頓着?や、おおらか?だったからではなく
貝塚がゴミ捨て場ではなく、「復活、再生を祈る場所」だったからで、それゆえ人も貝塚に
埋葬されたのではないか?という考え方が現在では一般的です。



今回は、かなりマニアックな記事になってしまいました。
特に吉胡貝塚の出土人骨については・・・あくまでも素人コルサの妄想なので(笑)
詳しくご存知の方がお見えになれば、ご教授いただきたいものです。

次回は気軽に史跡を尋ねます?(笑)

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