今日は豊田市に用事がありましたが昼過ぎに終了。
あまりに良い天気なので車に積んである自転車で少し走ってから帰ることにします。
ただし、明日はレースなので、軽く走るだけにしなければなりません。
あまりに良い天気なので車に積んである自転車で少し走ってから帰ることにします。
ただし、明日はレースなので、軽く走るだけにしなければなりません。
考えた末、安城市の遺跡を巡ることにしました。
24日に安城市歴史博物館で行われていた企画展「三河の古墳」という展示を見ました。
その際、資料本を購入したのと隣接する埋蔵文化財センターでいただいたパンフレットを
参考にポタリングすることにします。
画像は企画展の資料本、写真多数、80ページ以上で800円、安い(笑)資料性価値高い。
安城市歴史博物館の駐車場に車を置いてスタート、まずは南下します。
早速、桜井地区で「本日の第一古墳発見!」
ここは古墳時代前期の「碧海山古墳」でした。
直径約25mの円墳だそうです。
碧海山古墳から少し西に入り、古墳ではありませんが堀内貝塚を探します。
ここは縄文時代の貝塚で人骨も何体か出土しています。
隣接して戦国時代の遺跡もあったのですが発掘調査後、現在はアパートになっています。
堀内貝塚も住宅地などになってしまい痕跡はないかも?と思っていたら道路脇に
こんな風に残されていました。
壁面の窓、2ヶ所からは貝塚の様子がわかるようになっていました。
現在の海岸線からは10キロ以上も離れている、この地に貝塚があるのは不自然に思えます。
しかし縄文時代には「縄文海進」と言って現在の海面より最大3mも海面が高かったといい、
かなり内陸まで海が入り込んでいた時代があったそうです。
その後、海面は徐々に下がり、また矢作川の運ぶ土砂が積もって海が
段々遠くなっていったのでしょう。
しかし縄文時代には「縄文海進」と言って現在の海面より最大3mも海面が高かったといい、
かなり内陸まで海が入り込んでいた時代があったそうです。
その後、海面は徐々に下がり、また矢作川の運ぶ土砂が積もって海が
段々遠くなっていったのでしょう。
こんな風に貝の堆積状況が見られます。
低い方の窓は泥はねで見にくくなっていましたが。
ハイガイ(寿司ネタの赤貝に似る)、赤ニシ、マガキなどの貝殻が確認されます。
ハイガイが特に多いなどアサリ、ハマグリが多い豊橋市や渥美半島の貝塚とは違いが見られます。
堀内貝塚からすぐ南側の住宅地の中に堀内古墳(天満山古墳とも呼ばれる)がありました。
こちらは古墳時代後期の円墳のようです。直径は20m少々。
さて、更に2キロほど南下して姫小川町で姫小川古墳を探します。
住宅の影に隠れ少し迷いましたが発見。
ここは古墳時代前期後半ぐらいの前方後円墳だそうです。
姫小川古墳の、すぐ近くに姫塚古墳を発見。
ここは古墳時代前期から中期ぐらいと推定されています。
崖の地形をそのまま生かして古墳を作ったようです。
姫塚古墳を反対側から見たところ。
反対側は住宅がせまり、かなり削られたりしているようで
もともとの古墳の形は不明とされています。
姫塚古墳に隣接した民家の庭にあった「姫地下拡」と呼ばれる墳墓の跡。
石で囲んだ所がかつての穴のあった位置らしい。
かつては地下に二つの部屋が確認出来たようですが昭和中頃に崩れてしまったようです。
古墳時代後期に地下に穴を掘り、墓地とした遺構と推定されているとのこと。
姫小川古墳から南下したところにあるという加美古墳を探したのですが見つかりませんでした。
それらしいところはあったのですが他の古墳のように案内板がなく特定できません。
どうも民家の庭にあったようです。
上の画像は古墳を探している時に見つけた石碑。
「岡崎西尾街道」「古道」「高札所」とあります。
この細道が、かつて岡崎と西尾を結ぶ街道だったようです。
「岡崎西尾街道」「古道」「高札所」とあります。
この細道が、かつて岡崎と西尾を結ぶ街道だったようです。
だいぶ日も傾いてきましたので帰る事にします。
北上しながら獅子塚古墳に立ち寄ります。
ここは、かつて55m前後もあった前方後円墳だったとのことです。
ただ、明治時代に堤防工事の為に、前方部は削り取られ現在は残念ながら後円部を残すのみです。
ここは、かつて55m前後もあった前方後円墳だったとのことです。
ただ、明治時代に堤防工事の為に、前方部は削り取られ現在は残念ながら後円部を残すのみです。
それにしても、このあたりの古墳は神社として祭られているところが多いですね。
そして最後に立ち寄ったのが「二子古墳」です。
ここは岡崎西尾線(先ほどの古道の現代版?道路)と呼ばれる交通量の多い街道脇にあります。
(画像の反対側が岡崎西尾線)
その為、以前から仕事などで通るたびに気になっていましたが、やっと訪ねる事が出来ました。
ここは3~4世紀頃と推定される比較的古い時代の古墳です。
全長68,2mと言われる大きな前方後方墳です。
全長68,2mと言われる大きな前方後方墳です。
このあたりは古井遺跡群と呼ばれ遺跡がたくさんあるところです。
古墳の手前の水田も「二夕子遺跡」(ふたご)と呼ばれる遺跡地区で弥生時代から
平安時代の土器や木製品が出土しているそうです。
古墳の手前の水田も「二夕子遺跡」(ふたご)と呼ばれる遺跡地区で弥生時代から
平安時代の土器や木製品が出土しているそうです。
今回、回った遺跡群の中でも古墳の数々は矢作川の右岸に作られた古墳ばかりです。
20キロ足らずの距離で、これだけの古墳を見る事が出来ました。
この他にも名前は知られていても確認出来なかった古墳もありました。
20キロ足らずの距離で、これだけの古墳を見る事が出来ました。
この他にも名前は知られていても確認出来なかった古墳もありました。
今まで不勉強で、このあたりの遺跡は、あまり知りませんでしたが古墳以外にも、
興味深い遺跡が多数あるようです。
興味深い遺跡が多数あるようです。
これからまた少し調べてみなければ。