コルサの毎日がヒルクライム

2009年11月

本日、「第4回 古典ロード走行会」を無事行う事が出来ました。
ご参加いただいた皆様は、もちろん、今回、所用等で参加出来ずも
応援してくださった皆様、ありがとうございました。

今回は、埼玉、長野、大阪などの遠方を含む14人(私もいれて)の方に集まっていただき
好天の一日を楽しく過ごす事ができました。

ご参加の皆様、ありがとうございました。
そして、お疲れ様でした。
(t-bikeさんは、この時間も埼玉に向かって帰途の途中のはず、お気をつけて)



今後も「古典ロード走行会」は続けていくつもりです。
気が向いて、お時間がございましたら、また、ご参加いただければと思います。


今回の様子は、この後、記事にしてアップする予定です。
(もし、まともな画像が撮れてなかったらごめんなさいね 笑)

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先日、「桜井茶臼山古墳 石室一般公開」に行った話を記事に書きました。


愛知県から奈良県まで行ったのですから、もちろん、それだけで
帰ってきたわけではありません(笑)

と言う事で続きの史跡巡りの記事を書いていきます。(2009・10・30 その2)


桜井茶臼山古墳に行ったからには、どうしても訪ねない訳には行かない?古墳があります。
南西に1,6キロほど離れた場所にある「メスリ山古墳」です。

桜井茶臼山古墳とメスリ山古墳は比較的近い位置にあり、
両者とも前方後円墳ですが、特に「柄鏡型」といわれ形態的に似ていること、
この地区では最大級の前方後円墳で時代的にはメスリ山古墳は桜井茶臼山古墳に
続いて作られたのではないかと言われています。



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メスリ山古墳の周囲を観察していると西側に小さな古墳がありました。
案内板は、ほとんど表示が消えていますが地図を調べると「コロコロ山古墳」でした。

この画像を撮っていると女性のグループに声をかけられました。
彼女達も桜井茶臼山古墳の見学に来て(静岡県から)、そのあと近所の古墳を
見て回っているのだそうです。



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最初はフェンスの外からコロコロ山古墳の入口の画像を撮っていたのですが・・・
彼女達の知り合い(偶然、桜井茶臼山古墳で出合ったらしい)の男性いわく、
「ここの古墳はフェンスから中に入れますよ」とのこと。
(フェンスはあるが出入り口は施錠されていなかった)



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早速、みんなで内部を見学することに。
ここは天井石がなくなっていたようで現在はコンクリートの屋根で覆われていました。
奥壁の石など結構、立派な石室です。



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内部から羨道側を見た画像。
いわゆる両袖式の石室ですね。
石棺などは残されていませんでした。



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さて、今度はメインの?メスリ山古墳を西側から見たところ。
手前側が前方部で奥に樹木が茂っているのが後円部になります。



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一旦、古墳の南側に回って全景を確認して見ます。
メスリ山古墳は東西に主軸を持つ前方後円墳で全長は約224mの巨大古墳で
前方部を西に向けています。
(最近の調査では更に後方部が長かったのではないかと言われています)
画像の右手の樹木が茂っているのが後円部、左手の低く見えるのが果樹が
植えられている後方部になります。



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後円部の北側に小道がありましたので登ってみることにします。
後円部の状態は良いようで斜面には「葺き石」が今でも確認できます。



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後円部の上部に登って見ると窪地があり石が並んでいるのが見えます。
数えてみると8枚あります。
メスリ山の天井石は8枚と聞いていましたので、これが石室の天井石に間違いなさそうです。
(現在も天井石が見えるとは知らなかった)
ただ、帰宅して資料を調べてみると発掘当時、両端の天井石が外に向かって
持ち上がるような置かれ方をしていたようです。
この画像を見る限り両端の石も、ほぼ水平に置かれているような気がしますが。

この古墳の特徴は
①石室の東側に未盗掘の副室があったこと(副室自体が珍しい)、
②石室(主室)の周りを大型の円筒埴輪(最大では2m40cm程度)で四角く囲んでいたことです。
 (合計100本以上)
残念ながら、それらは現在確認できませんでした。
副室は埋め戻されているのでしょう。(円筒埴輪は橿原考古学研究所付属博物館に展示されています)
(未盗掘の副室からは鉄弓、銅鏃、農工具などが見つかった)



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天井石の周りを囲む石垣。
これも発掘時の資料に書かれていました。

メスリ山古墳には何人もの方が見えました(普段はありえない?)。
やはり、みなさん、桜井茶臼山古墳見学のついでに訪れているようです。
私は自転車ですから簡単に移動できますが、皆さんは駅から歩いてですから結構大変です。
いやー古墳好きの人たちも熱心ですね(笑)



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メスリ山古墳から少し北上して「谷首古墳」を探します。
道に迷っているうちに見つけた?「上之宮遺跡」(うえのみやいせき)
住宅地の中の、ただの公園に見えますが(笑)



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案内板の最後の文章に注目!
「聖徳太子の上宮の可能性もある。」
聖徳太子の上宮は磐余(いわれ)地区にあったと聞いた事があります。
そういえば、確かに、このあたりは磐余(いわれ)地区と推定されている場所でした・・・。



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「谷首古墳」を西側から見たところ。
東側には老人ホーム、南側には住宅地、西側も画像のように・・・・どちらから見ても
墳丘は絵になりませんでした(笑)

「谷首古墳」は東西約35m、南北約38mの方墳だそうです。
時代的には6世紀末から7世紀はじめ頃と推定されているようです。



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石室は南を向いていました。
私が到着した時に女性が一人で内部を、のぞいていました。
彼女も関東から桜井茶臼山古墳の見学に来て付近の古墳を探索しているのだそうです。



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女性は石室内に興味があるのですが「暗い」ということで一人で入ることを
躊躇していたのだそうです。
そこで私は自転車に取り付けてあったバッテリーライトを示し、
早速、二人で石室内に入ったのですが・・・

古いライトは思いのほか明るくなくて(笑)
後で気がついたのですが、こんなことならキーホルダーに付けていた
超小型LEDライトの方が明るかったかも(笑)

それはともかく、谷首古墳の石室内部。奥壁。
このあたりでは特に規模の大きな古墳というわけでは有りませんが石室内の高さは
かなりのものがありました。
石組みも立派でした。
ここにも石棺は残されていませんでした。
(凝灰岩の破片などが検出されていて、かつては石棺があったのではと言われています)



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両袖式の石室といわれていますが・・・向かって左側の「袖」が短く
片袖式とも言えるということです。
(画像では立派な?両袖式に見えますが)



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谷首古墳の西側には八幡神社があり墳丘の形はかなり改変されているようでした。



さて、日没までは、まだ時間があるので、
これから自転車で距離を伸ばして(トレーニングをかねて)他の史跡を訪ねることにします。
これが思わぬ苦行?になろうとは(笑)

奈良に行かねば!(笑) 桜井茶臼山古墳 石室一般公開!

9月の中頃、行った「奈良、大阪のレポート」もまだアップしていないのですが・・・

今年中に、もう一度、奈良に行きたいと思っておりました、
それも出来たら紅葉の時期ぐらいに。


でも、それまで待っていられない事態が発生しました。

なんと桜井市にある「桜井茶臼山古墳の石室が一般公開」されると言うのです。
(10月29~31日の三日間に限り)。
今回を逃したら、次はいつ見られるかわかりません!(石室、石室内部の様子は)


古墳ファン?以外の方には何を、そんなに興奮しているのか?と思われることでしょう。

桜井茶臼山古墳より規模の大きな古墳は周辺にもいくつかあります。
ただ、その多くは陵墓(天皇の墓)や陵墓参考地に指定されている為、発掘はもちろん、
研究者であっても敷地内への立ち入りすら許されていません(宮内省による規制)。

桜井茶臼山古墳は陵墓に指定されていない為に大王級の大きな古墳(全長約200m)で
ありながら発掘調査がされている貴重な古墳なのです。

この古墳の石室は竪穴式で、60年前に発掘調査された後、埋め戻されていた為、
研究者でも内部を見た人は限られているのです。
(横穴式の古墳なら埋め戻さないで調査後も公開しやすい)

60年前に調査された石室内の写真を見ると板状の石を丁寧に積み上げた立派な石室内壁、
そして木棺の一部が残っている状態で、盗掘はされていたものの大王級の古墳に
ふさわしい副葬品も見つかっています。
そして今回、石室内などに鮮やかな水銀朱が塗られた状態が確認されたというのですから
見に行かないわけにはいきません(笑)
(結局、コルサは30日に見学にいきました)
60年前の発掘時にも石室内は朱に塗られているという報告はありましたが
当時、カラー写真は撮られていなかったらしく私は白黒写真しか見た事がありません。




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桜井茶臼山古墳(東側より)

全長200m、後円部径110m、同高24m前方後円墳で3世紀後半から4世紀代に
築かれたとされる大型古墳です。

左が前方部、右側が後円部になります。
画像では木が茂っていたりする関係で左側の方が高く見えますが古墳自体は
右の後円部のほうが、かなり高くなっています。

画像はコルサが見学し終わった12時頃のもので、お昼近くのせいか到着した時より、
かなりすいています。
11時頃、到着した時はかなりの人が並んでいました。
東京から飛行機と電車を乗り継いで来た言う女性に、よれば桜井駅では
「見学まで1時間待ち」と言われたそうで、
実際、コルサが見学し終わるまでに、ほぼ一時間掛かりました。
(TVニュースによると29日だけで2千人以上が訪れたらしい。多分、2、3日目は更に多かったのでは)



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桜井茶臼山古墳(西側より)

この古墳、画像右手にある鳥見山から延びていた尾根を分断(現在の国道付近で)して
整形したものと言われ巨大な古墳ですが実際の土木工事量は平坦な場所に築かれた
古墳に対して少ないといわれています。



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まずは前方部に仮設の階段で上がります。
古墳に登ると前方部から石室のある後円部まで、ずらりと人の列が・・・後円部は、まだ見えません。



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やっと後円部の手前まで進みました。

この古墳、大雑把に言ってしまえば前方部は2段に作られていて、
その2段目の上に後円部の3段目が作られているそうです。
(前方部2段、後円部3段)

この画像から後円部の三段目(コルサの立っているのは2段目の位置)が
かなり高い事がわかります。



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階段を上がると、そこには石室が!

ほぼ南北に主軸のある石室を南側から見ています。
(古墳自体の主軸も、ほぼ南北)


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石室内部は水銀朱、天井石を覆う粘土層にはベンガラを塗りこんで赤く着色していたそうです。

この画像からも石室内部に鮮やかな赤色が見えています。
(石材も、うっすらとピンク色)

石室内部には木棺の一部が残っていましたが保存処理の為、既に持ち出されていました。
(残っていた部分だけでも5m弱と巨大な木棺)
60年前の調査の際には木棺の材料は「トガ材」とされていたましたが今回の調査で
当時の関西地方で一般的な木棺の材料「コウヤマキ」だったと訂正されたようです。



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石室の壁は板状の石を綺麗に積み上げて作られています。



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石室内に面していない石材の部分にも赤い着色が見えることから水銀朱は積み上げ前に
塗られた事がわかります。



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天井石(天井石は全部で12枚)
画像、中央の小さめの石がずれて開口しているのは盗掘者によるものだそうです。

盗掘は複数回あったようで他からも侵入した形跡があるようです。
そういえば60年前の発掘も盗掘をきっかけに行われたといいます。

盗掘の為、内部は破壊、撹乱されていたようですが、それでも過去の発掘時には
古墳の規模にふさわしい鏡、碧玉製品(玉杖など)、鉄族など多数の副葬品が見つかっています。



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今回の発掘調査の為、一時的に外された天井石。

となりあう石の側面は加工されて隙間を少なくしてあるようです。



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順路には発掘調査の様子の写真が展示されています。
みなさん、写真に見入ったり写真を撮ったりと熱心です。



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画像は人並みが切れた時を見計らって撮っています。


以前から奈良周辺の発掘報告会の様子などを新聞、テレビなどで見ると多くの人が
詰め掛けていて関西の人は古代の遺跡に関して熱心なんだな、と思っていました。

ところが、今回の一般公開に行くと先にも書いたとおり、東京から飛行機で来た
女性のように日本全国から(他にも、現地では関東周辺などから来ている複数の人たちと話をしました)
この機会を逃せないと熱心な人達が駆けつけている事がわかり驚きました。



今回の桜井茶臼山古墳の発掘調査だけでも多くの事がわかる貴重な資料となりました。
(何度も盗掘された古墳であっても)
始めに、この周辺には(大阪方面も含む)、もっと大きな古墳がいくつかあると書きました。
それらの古墳のほとんどは宮内庁によって「天皇家の祖先だから丁重に祭る」ということで
封印され発掘調査はもちろん、研究者の立ち入りすら拒んでいます。
(陵墓、陵墓参考地は全て宮内庁が国費によって管理=?立入禁止)
もちろん、どんな古墳であっても「お墓」ですから被葬者にたいし、それなりの気持ちを
持って接しなければならないのは当然でしょう。
しかし、日本の歴史(古代史)を解明する手がかりは天皇陵の調査研究なくしてありえません。
(もちろん、発掘しても○○天皇の陵墓だと確実にわかるわけではありませんが)
国民共通の文化遺産として天皇陵が発掘調査される日が来ることを願うばかりです。

(現在宮内庁が天皇陵としている根拠は江戸時代中期以降、または明治時代に当時の学問レベルで決めたものがほとんど。中には、あきらかに時代が違うもの、捏造されたと思われる古墳もあるとされています。研究者の中には葬られている本当の天皇が判っているのは10に満たないとも言う人もいるぐらいで現在、宮内庁が○○天皇陵と称している陵墓も学会では異説があるものも多いのです。研究調査が待たれます)

今週末は第4回古典ロード走行会です。
今のところ天気は問題なさそうです。


日時  2009年11月8日(日)
     集合 9時30分 簡単な自己紹介後、10時頃スタート予定
    ※雨天の場合は集合地点近くの、あずまやで「古典ロード ミーティング」に変更します。
          

当日の連絡先   コルサ 090-4110-1934




集合場所  愛知県豊田市の「昭和の森」 第5駐車場です。
        (前回と同じ)
        http://map.yahoo.co.jp/pl?type=scroll&lat=35.16400376&lon=137.20119679&sc=5&mode=map&pointer=on



走行コース  前回と同じく集合地点の「昭和の森」駐車場から矢作ダムまで往復するコースです。
        (フルコースで80キロ程度ですが、多分、60キロ前後の短縮コースになります)
 
※折返しコースなので時間がない方、メカトラブル、体調不良などの場合 
 早めに折り返せば距離を短く出来るコースです。



昼食は途中の、食堂で予定しています(走行中の補給食、ボトルは各自、お忘れなく)。


参加予定者
①くさやんさん    75年前後  ・片倉シルクR2-5 (行事の延期で参加に黄色信号?)
②たきちゃん     ?年式  ・フランス車?またはショップオリジナル車
③田爺さん      78年前後  ・エバレスト エスプリ
④ kid2008kidさん  76~77年前後  ・プジョーPY10Pでしたっけ?
⑤まはろみつるさん  78年前後   ・BSユーラシア ロード 
⑥Sさん        ?年式  ・ガンウェル
⑦すーさん      ?年式  ・ズノウ (大阪より参加)
⑧H岩さん      ?年式  ・BSグランヴェロ
⑨やま23さん    83年  ・ミヤタ ルマン
⑩4713さん      82年  ・マノン(長野県から)
⑪t-bikeさん     78年  ・シクロウネ(埼玉県から)
⑫Tdot(toru)さん  (古典ではないけど) ・TOEIクラシック風
⑬Oさん        75年  ・ビゴーレ?
⑭コルサ       79年  ・Cで始まるイタ車(チネリじゃないよ)

今回は「古典 シルク ピスト」のハブと固定ギヤを見ていくことにします。



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ハブも固定ギヤも、古い時代のピストに良く見かける「三光舎」のものでした。



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手持ちのサンプルを引っ張り出して、いろいろ見比べて見ます。
(後の画像の右側リヤハブはピストハブではありませんが参考に)




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これが木リム(32H)についていた三光舎の前ハブ



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そして、これが別のサンプルの(36H)の三光舎の前ハブ

32Hと36Hの前ハブを見比べて大きな?違いに気がつきましたか?

そうなんですね、飾り穴(スポーク穴との混同を避けるため仮に飾り穴とする)の
丸穴の数が違うんですね。

32Hは8穴、36Hは9穴なんです。
この違いはスポーク穴の間に飾り穴を設ける関係ですね。


それではリヤの飾り穴の数は?
40穴のリヤハブの飾り穴が10穴です。
あれ、では36穴はと数えてみると36穴も10穴でした。

じゃあ、リヤハブはスポークの穴数に関係なく飾り穴は
10穴なんだと結論を出そうか、と思ったら参考の為に引っ張り出した
多段フリー用ハブは9穴!?でした(笑)



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今回のリヤハブは両側にギヤが付けられる「ダブルコグ式」でした。
(画像ではわかりにくくてすみません)

構造は、いわゆる「継ぎハブ」です。
胴部分はスチール製、フランジ部分はアルミ製です。

継ぎハブを見ると、いつも、この両者(胴体とフランジ)をどのように
接合しているのかと思います。
「かしめ」としても絶対に動かないように何らかの工夫がされていると思います。
今度、実用車か何かのスクラップハブを切断して確かめてみないと(笑)



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ハブ胴体、中央には三光舎の刻印があります(小さい刻印画像ですみません)



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今回、ハブを見比べていたら、こんなサンプルもありました。

QR用の中空シャフトになっています。
でも、これって三光舎の純正?オーバーロックナットなどの作りが三光舎ではないような気がします。
もちろん、三光舎のツーリングハブにもQR付きの物(4号、5号)がありましたが。

三光舎純正なら何も問題なく嬉しいのですが(笑)
そうでないとしたら謎が深まります。
「え、そんなのシマノか何かの中空シャフトに組み替えたんじゃないの」と
言われるかもしれません。
でも、それは簡単なことではないと思うのです。
通常、シマノに限らずフロント中空シャフトの外径は9ミリなのです(ほとんどが)。
でも、三光舎のピストハブのフロントシャフト外径は8ミリ径なんですよね。
(サンシン、シマノ、サンツアーなどはF9ミリ、リヤ10ミリ)



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未使用の36穴ハブのフランジ面のアップ。
スポーク穴が綺麗に面取りした形状に仕上げられています(裏面側も)。

ベアリングのキャップ部分の上側を良く見ると小さな穴が明けられています。
小さな穴ですがスプレーグリス等に付属する金属製の細いノズルなら通る径があります。
先に話題にした中空シャフトのハブに付いているロックナットとは、まったく雰囲気が違いますね。


フランジの外径ですが今回のサンプルの場合、
フロントフランジ外形が約58ミリ、リヤフランジ外形が約68ミリでした。
通常のピスト用ラージハブのフランジ外形が約75ミリほどです。

ところで今更ながらなんですが今回のサンプルって何号ハブなんでしょう?
2号ハブ?不勉強で良くわかりません(笑)



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三光舎のハブの話題では有りませんが、ついでに古いリムについて。

このリム、どこか近年の物との違いがわかりますか?
近年といっても70年代中頃以降の製品と比較してです。

リムの形状も特に違いは無いし・・・ただ古ぼけたリムのようですが。
よく見るとバルブ穴にもハトメが打ってあります。
今回のサンプルはメーカー不明ですが、この加工のしてあるリムは意外に目にしません。
(国産でハトメのあるリムは70年代初期頃まで?)



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最後に三光舎の固定ギヤとロックリングをアップしておきます。

今回のホイールはリム、スポークともにガタガタですから抜く事が出来ません。
そこで、ガレージの引き出しに転がっていた物をまとめて。
スプロケットには、こちらも三光舎の小さなマークが刻印されています。
三光舎のスプロケットのギヤは細く見えますが新しい、シマノなどと重ねてみると、
もちろん細いわけではなく長い(高い)ので細長く見えるようです。


さて次回は・・・チェンホイール?それともハンドル回り?その前に遺跡ネタを挟むか?(笑)

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