コルサの毎日がヒルクライム

2010年11月

先日、ご報告したとおり、11月20~21日に奈良、大阪県境の峠を走ってきました。
21日に走った竹内峠の西側は磯長谷(しながたに)と呼ばれる地域で多くの天皇陵他がありました。
今回は、その磯長谷と香芝市(穴虫峠の北東地域)の天皇陵をご紹介しましょう。

まずは竹内峠を大阪側に下った太子町の天皇陵です。

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最初にあるのは第36代「孝徳天皇」、「大阪磯長陵」(おおさかのしながのみささぎ)です。
陵形は円丘とのこと。
この陵について、かの清少納言が枕草子の中で「みささぎは、うぐいすの陵」と書いているそうです。
(みささぎの中で一番は孝徳天皇陵との意)
ということは清少納言は、この陵を見た事があったのでしょうか?
現在は樹木が茂り陵形も良くわからないのですが・・・

ここは斜面にあり「ひき」の画像を撮ろうにもスペースがなく、こんな画像しか取れませんでした。

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孝徳天皇陵から山田の集落を南下すると
第33代「推古天皇」、「磯長山田陵」(しながのやまだのみささぎ)があります。
陵形は方丘とのこと。

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二子塚古墳から眺めた推古天皇陵。

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推古天皇陵から西に2キロほど移動すると見えてくる丘の北側が
第30代「敏達天皇」、「河内磯長中尾陵」(こうちのしながのなかおのみささぎ)です。
陵形は前方後円とのこと。

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敏達天皇陵から穴虫峠に向かう為に太子町を北東に走ると途中に
第31代「用明天皇」、「河内磯長原陵」(こうちのしながのはらのみささぎ)。
用明天皇陵は住宅地の中で拝所の位置(南向きでした)が、なかなかわかりませんでした。
画像を撮っている背後も新築の工事が進んでいました。
陵形は方丘とのこと。
用明天皇は厩戸皇子(聖徳太子)の父君。
ちなみに聖徳太子御廟所は用明天皇陵のすぐ北西にある磯長谷叡福寺にあります。
(太子、母、妃を一緒の石室に葬っているということで三骨一廟と呼ばれる古墳)

聖徳太子御廟所の記事
→ http://blogs.yahoo.co.jp/corsa2003sp/34207375.html

以上のように4基の天皇陵と聖徳太子御廟所がある為、この太子町周辺地域(磯長谷「しながたに」)を
「王陵の谷」と呼ぶそうです。
また、以上の5基の所在位置を梅の花になぞらえ「梅鉢御陵」という呼びかたもあります。


磯長谷の天皇陵4基を訪ねる事が出来ましたので、この後は穴虫峠を越え、香芝市にある
天皇陵2基を探索します。

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住宅地の、ど真ん中にある
第23代「顕宗天皇」、「傍丘磐坏丘南陵」(かたおかのいわつきのおかのみなみのみささぎ)
フェンスと陵の間に交通量の多い道が横切っています。
また画像を撮っているのは新たに通る道路の工事現場。
画像に写る送電線?の多さが市街地ということを表していると思います。
陵形は前方後円とのこと。

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香芝インターのすぐ南にあるのが
第25代「武烈天皇」、「傍丘磐坏丘北陵」(かたおかのいわつきのおかのきたのみささぎ)
陵形は山形?とのこと。
樹木は画像の外、左手にも続いており広大に見えますが画像左手は
式内社「志都美神社」(しずみじんじゃ)の敷地のようです。

今日は一日で6基の天皇陵を回る事が出来ました。
これにて今回の1泊2日サイクリングのご報告は終了です。

28日(日)は大阪の服部緑地で行われたシクロジャンブルに行ってきました。

今回は見に(買いに)行ったのではなくタキちゃんとkokoさんと3人で出店です。

それで・・・結局、出店した結果はどうだったのか?
まあ、3人とも、それなりの売上げに、にんまり?
お買い上げいただいた皆さん、ありがとうございました。

追伸・H岩さん、残念ながらお探しの物は見つかりませんでした。
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さあ二日目は、どこへ行きましょう。

前回の記事にも書いたとおり大阪、奈良を隔てる山地を越える古道はいくつもあります。

今日は昨日のルートより南の竹内峠(たけのうち)、穴虫峠、田尻峠を訪ねることにします。

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竹内峠を東側から望みます。(現国道)
竹内峠は日本書紀に「難波より、京(みやこ)に至る大道(だいどう)を置く」
と書かれていることから日本最初の官道と言われています。
その記述があるのは613年のことだそうですから、それでも十分古いのですが、
この竹内峠の歴史はもっと古くまで遡るといわれています。
もともとは街道の北側にある二上山から産出する石器の材料、サヌカイトなどを採取するのに
通った石器時代の人たちが踏み固めた事が、この街道の起源なのだそうです。
またサヌカイト以外にも凝灰岩も産出し、昨日、訪れた藤ノ木古墳の石棺も二上山から
切り出されたものだと言われています。

この道を遣唐使、遣隋使そして多くの渡来人も通ったことでしょう。
ですから、この道をシルクロードの東の果てと呼ぶ人もいるのです。

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竹内峠、東側の竹内集落内の竹内街道。

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竹内峠を奈良県側から見たところ。

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竹内峠を大阪側から見たところ。
右の高い方が明治時代に整備されたルートで左が昭和の後半に整備されたルートのようです。(現国道)

国道を太子町まで下り旧道を登り返します。
目的地は町立竹内街道資料館と孝徳天皇陵。
実は、この日、複数の天皇陵を訪ねました。天皇陵に関しては次回にまとめて、ご報告(笑)

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孝徳天皇陵のあとは、すぐちかくの二子塚古墳。
説明板によれば7世紀後半の古墳とのことです。
その名が示すように二つの墳丘が連なった「双円墳」という珍しい形態です。
もちろん、二つの石室があるとのことでしたが画像右側(東の墳丘)しか石室を確認できませんでした。

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二子塚古墳、東の墳丘。石室の天井石が露出しています。

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天井石が露出しているどころか南東側に石室が開口しており石棺のフタが見えていました。
すぐ近くに推古天皇陵(と、される)が見えるのですが実は、
この二子塚古墳の方が本当の推古天皇陵ではないか?とする意見もあるようです。
もしそうだとしたら、双円墳のどちらが天皇墓で、もう一基の墳墓には誰が葬られているのでしょうか?

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二子塚古墳の東側、東條地域にある式内社、科長神社(しながじんじゃ)
ここには歴史好きではなくても、きっと知っているだろうという歴史上の人物の墓と
されている墳丘があります。

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ここです。
「ここに葬られている歴史上の有名人は誰かって?」
ここは小野妹子(おののいもこ)の墓といわれているのです。
「ね、歴史好きではなくても、その名前は覚えているでしょう」
(小野妹子・厩戸王から第2回遣隋使の命を受ける)

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科長神社の近くにあったウォーキングコースの標識。
よく見ると「ツール・ド・大阪」だって(笑)「ツール・ド・○○」って言う言い方って
自転車乗り以外の一般人にも通じるのかなぁ。

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太子町の汚水、マンホールの蓋。
さすが厩戸王(聖徳太子)の墓がある太子町、「和を以って貴しと為す」と
厩戸王の言葉が刻まれています。

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太子町からは香芝市に抜ける古道の峠、穴虫峠に向かいます。
標高はたいしたことはないので簡単に登りきります。
穴虫越えも古くから利用されていた道だそうですが穴虫峠の名前の由来は何なんでしょうか?
画像は穴虫峠を南西側から見たところ。
頂上は鉄道を跨ぐ構造になっており「穴虫峠跨線橋」となっていました。

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穴虫峠を香芝市側に下ると国道165号線バイパスの
三差路に突き当たります。
そこを左に曲がって、すぐのピークが田尻峠です。
今はなんと言うこともないピークですが、ここも古くからの街道の峠だそうです。
画像は東側から峠を見たところ。

本来なら田尻峠を西に麓まで下りたいところですが・・・
帰宅時間を考え峠から東にすぐの道を北東に下り香芝市の中心近くに出ます。
ここで、二つの天皇陵を探索、それで帰途につきました。

※今回の一泊カーサイクリングはこれにて終了。
 21日に回った天皇陵は次回にて、ご報告の予定。

11月20日、21日は奈良、大阪の県境を越える峠を中心に走ってきました。
奈良、大阪の県境には南北に山々が連なっており当然、それを越える古道が、
いくつか存在しています。
(大雑把に言って10ヶ所くらいの古道、峠があるようです)
今回は(2日間で)そのうちの4ヶ所の峠を越えながら周辺を探索してきました。

20日、まずは奈良県生駒市平群町(法隆寺の西側方向)からスタートし十三峠を目指します。
ところどころ10%を越える傾斜に苦労しながらも、順調に到着。
(今回、簡易な傾斜計を装着。画像は後半にて)

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南北の尾根伝いに信貴生駒スカイラインが通っており十三峠はトンネルになっています。

ここは「昔、男ありけり」ではじまる伊勢物語の主役、在原業平(ありわらのなりひら)が
平群から高安の女の所へ通ったのが、この十三越だったと言われ
別名、業平道とも呼ばれるようです。

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峠の北側にある十三塚を見に行きます(尾根伝いの古道沿い)。
最高所に親塚、その左右に6基ずつ合計13基の塚があります。
画像ではわかりにくいのですが「ヤブ状になった4基ほど塚が写っています」
説明板には「江戸時代中期に広く知られた」、「庶民信仰の様相を示す」「完存する十三塚」と
書かれていましたが具体的に何を祈ったものかはわからず。
(場所的に通行人の安全か?それとも信仰?)

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十三峠を大阪側に、ほんの少し下ると「みずのみ園地」という駐車場が有ります。
(水呑地蔵は、ここから少し歩く)
この駐車場からは大阪平野が一望出来ます。
この日、天気は良かったものの残念ながら、霞がかかっていて遠望は、いまいちでした。
ここからの夜景も綺麗そうですが・・・
いかにも「やんちゃな人達」が多く出没しそうな場所でした(笑)

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十三峠を大阪側へ下ると住宅地の中に「心合寺山古墳」があります。
名前を知っていただけなのですが実際行ってみると
全長約160m、5世紀前半頃の前方後円墳だそうで綺麗に整備され、そのうえ展示館もあるようです。
非常に興味をそそられましたが、この後の行程に不安を残す為、早々に出発しました。

その不安とは・・・①持参の地図から予定コースが、わずかに切れている。
          ②日没まで行動時間がすくない。
②はともかくとして
①は旧国道170号線と国道308号線の分岐点なので現地に行けば標識が出たりしているだろうと
 気楽に考えていました。

ところが旧170号線のはずが、いつのまにか商店街のアーケードになり・・・
だいたい分基点だろうというあたりに来ても標識のたぐいがまったく見当たりません。
道行く人に聞いても、これといった情報が得られず困ってしまいました。
本屋に入って地図を探すにもレーサータイツ姿ではさすがに(笑)

そこで思い余ってコルサのとった方法は・・・
地元在住の「すーさん」に電話で聞くこと。
幸い電話は、つながり出勤日であったにも、かかわらず休憩時間とのことで
丁寧に教えていただく事が出来ました。
(すーさん、その節は本当にありがとうございました)

予定のコースとは関西のヒルクライマー達も恐れをなす?、と言う暗峠(くらがりとうげ)越え!
その道、国道にもかかわらず狭く、また傾斜は場所によって30%を越えると言う難コースです。
「まあ、30%を越えるといってもごく一部だろうし、結構緩い部分もあるんじゃないの」
と教えていただいた道を登っていきます。
「鉄道のガードをくぐったあたりからタイムアタック開始」と聞いていましたが・・・
スタート直後から、とんでもない登り「すぐに緩くなるんじゃないの」と思っていたら
逆にどんどん、きつくなる(笑)
結局、住宅地を抜けた、あたりで足を付いてしまいました(泣)
その後もクロスバイクのギヤ比では「押し」ばかり、この傾斜ではMTBで来ても登りきれないかも。

そんな途中の登りの様子を画像で何枚か、ご紹介。
登りの凄さが伝わるでしょうか!

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十三峠のところでも書いた傾斜計がこれ↓
かなり前に貰って使っていた物を復活させました。
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20%を振り切ってます?でも、
ここが一番、急だった訳ではなく、たまたま気がついて傾斜計の画像を
撮ったのがここだったと言うこと。
もっと傾斜が凄いところは何ヶ所もありました。

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やっと、暗峠(標高455m)につきました。
画像は奈良県側から大阪側を見たところ。
石畳が古道の印か?これでも国道308号線なのです。
自転車と軽自動車がすれ違えない様な、せまい所もありました。
というか・・・途中、国道にもかかわらず車輌(4輪)通行止めかと、かん違いしていたほど(笑)

このルート、非常に険しいにもかかわらず平城京に都があった時代、大阪から都をつなぐ
最短ルートととして、また江戸時代には伊勢参りなどでも大変賑わった街道であったようです。

暗峠から尾根伝いのハイキングコースを辿り南側の鳴川峠も行きたいと考えていましたが、
すでに陽も傾きだしたので断念し奈良県側に下ります。

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暗峠から奈良県側に少し下ったところ。
大阪側の登りに比べて奈良県側の登りは、たいしたことないんじゃないの、
と漠然と考えていましたが現地に行ってみると奈良県側から登っても楽ではなさそうでした。

この後、斑鳩町に向かい夕暮れの法隆寺、法起寺を訪ねたいと思っていましたが、
もう陽が西の山に隠れ薄暗くなってきました。
そこで寺巡りは断念。
しかし法隆寺の西側、数百mにある藤ノ木古墳だけは夕闇の中、訪ねることにします。

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やっとの思いで着いた憧れ(考古学的に重要な古墳)の地?
「藤ノ木古墳」、すでに日もくれて・・・

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実際より、ずいぶん明るく写しています。
扉、中央のガラス窓から藤ノ木古墳の石室が見えるようになっていました。
(センサーで人が近づくと自動的に石室内部に照明が灯る)
ガラスの内側が汚れているのか結露なのか、せっかくの内部が良く見えませんでしたが
ガラスの曇り?の隙間から写真で見覚えのある石棺が見えました。
(公園化される前は石室内ではなく敷地内に複製の石棺が置かれていたらしい)

この藤ノ木古墳、一般的には明日香の高松塚古墳やキトラ古墳
(両方とも内部に壁画があったことで有名)ほど知られていません。

しかし、この古墳、非常に珍しく未盗掘で金銅製の豪華で優れた加工の素晴らしい馬具、
冠などの副葬品が見つかったことで大変重要な古墳なのです。
ちなみに現地には展示館などはなく(公園化された古墳があるだけ)金ぴかに輝く
素晴らしい復元品は奈良県立橿原考古学研究所付属博物館で見る事が出来ます。

これだけの素晴らしい副葬品があったのですから斑鳩の有力氏族の墓であったのでしょうが
被葬者についての諸説入り乱れています。
(そのうえ特異なことに、ひとつの石棺に二入の男性が同時に埋葬されていた)

墳丘は直径約48m程度の円墳と素人考えでは豪華な副葬品のわりに小さく感じられます。
築造年代についても諸説あるようですが
「奈良盆地に前方後円墳が作られていた時代なら中小規模」
「前方後円墳が作られなくなった六世紀後半ならトップクラスの権力者の規模」
になるそうです。

これにて一日目、終了。
明日は、どこへ・・・・続く。

11月14日は静岡県の御前崎へ行ってきました。

これは袋井に単身赴任しているタキちゃんをミニベロ仲間で励まそう?
と言うサイクリングです。

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海岸線の自転車道を御前崎に向かって進むと浜岡砂丘があります。
砂丘と言っても砂の山が延々と続くといったものではなく・・・
周辺より少し砂が多いと言った感じで、まあ、たいしたところではありませんでした(笑)
(昔は、もっと砂が多かったらしい)
遠くに見える建物は浜岡原子力発電所。

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御前崎白羽地区で峠、発見。
この坂、「喉の坂」と言います。
名前の由来は次の画像にて。
今回の参加者は私を含めて4名。
左の案内板に立てかけてあるのが私のルイガノMV C。
ちなみに今回のミニベロオフ?、4名のタイヤサイズは・・・
私が20インチ(451サイズ)、タキちゃん24インチチューブラ、
あずまさん16インチ、M川さん17インチとバラバラ(笑)

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名前の由来が結構、切ない。

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御前崎先端の道の駅に向かう前に私の希望で遺跡探索に。
茶畑の間に、目的の遺跡はありました。

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御前崎先端にほど近い、この遺跡、「星の糞遺跡」と言います。

案内板の後半にあるように夏に行った長野県の「星糞峠」と名前の由来は同じです。
長野県、星糞峠の記事→ http://blogs.yahoo.co.jp/corsa2003sp/36016622.html
黒曜石の、かけらくらい見つからないかと周辺を探してみましたが・・・・
何も見つけられませんでした。

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御前崎先端の道の駅で安くておいしい海の幸の食事をいただいた後は御前崎の灯台へ。

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ホテル裏の急坂を登って灯台へ。
灯台内部に入るには・・・有料なので、あきらめます(笑)

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灯台に登らなくても灯台下の土産物屋さんからは、この眺め。
下に見えるのは灯台の駐車場ですね。

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灯台から西側には海岸線に素敵?な道が続いていました・・・
が、今回は、この道は通らず(笑)
灯台から畑の中を抜け国道150号線に出て袋井方面に帰りました。

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