コルサの毎日がヒルクライム

2011年05月

ここのところ、サイクリングの報告ばかりで「アライ」の自転車部品紹介が出来ませんでした。
なかには、いつものとおり途中でフェードアウト?と思われていた方も多いでしょう(笑)
どっこい、アライ特集は、まだまだ立ち消えにはなりません。
全国のアライファン(「田爺さん」と「くさやんさん」以外にいるのでしょうか?)に向けて再開します。

まずはペダルの記事の続報?です。

以前、アルミ製のクイルペダル「軽合金Ⅰ型」(くさやんさんのサンプル)をご紹介しました。
・その時の記事→ http://blogs.yahoo.co.jp/corsa2003sp/37292841.html
残念ながら「Ⅱ、Ⅲ型」の情報はまだ、ありませんが「Ⅰ型」のバリェーションが
田爺さんから届きましたので、ここで、ご報告いたします。

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くさやんさんのものとは違うパッケージ。
(他社の)レーシングペダルに多かった横並び型の箱に変わっています。
カスク姿のレーサーの、なかなか良い雰囲気のイラストが描かれています。色使いも鮮やかです。

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箱を開けるとアルミ製のクイルペダル「軽合金Ⅰ型」が並んで入っています。

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一目で分かる大きな違いはキャップの材質ですね。
アルミ製から黒いプラスチックに変わってしまっています。
コストダウンの為という「メーカーの事情」は理解できますが黒のキャップは
目に付きやすくチープで、かなり残念な感じがします。
せめてカンパなどのようにプラスチックにメッキとかであれば・・・

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些細なことですがキャストの型割りや本体円筒部の形状が微妙に違います。

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またまた些細なことですがプレートの刻印にも違いがあります。
よく見ると文字の間隔が上下とも違います。
上がアルミキャップ、文字の間隔が上下とも狭く、
下のプラスチックキャップの方は文字間隔が広くなっています。


他には、これと言った違いは見つかりませんでした。
結論としてはアライのアルミ製クイルペダル「軽合金Ⅰ型」にはキャップの違いで2種類あり、
その他、細部には些細な違いもある、ということでしょうか?(笑)


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さて、これで締めくくろうと箱の裏を何気なく見ると・・・
あれ、箱の裏にも写真が印刷されていました。
よく見ると、なんと中身と違うクイルペダルの写真が印刷されているではないですか。

本体円筒部がプレスのワンとパイプの組合せで作られたチープなそのペダルは、
まるでミカシマの「クイルⅡ型」や「クイル2K」のようです。
逆に言えばキャストで作られた箱の中身の「アライ軽合金Ⅰ型」はミカシマのシルバンのようです。

それはともかく、アライにもミカシマの「クイルⅡ型」や「クイル2K」のような
チープな作りのクイルペダルがあった事が判りました。

そこで、早速、現物を捜索すると・・・ありましたよ。
恐るべき田爺さん、ちゃんと現物をお持ちでした!!!

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一番上が「アルミキャップ、軽合金Ⅰ型」
一番下が「プラキャップ、軽合金Ⅰ型」で真ん中に挟んでいるのが新たなサンプルです。
違いはプレートの「かしめの形状」で一目瞭然ですね。

プレート自体は同じ物のようですが材質の違いか表面加工の違いか
真ん中の物はプレートに「つや」がありません。
刻印は一番上のアルミキャップ、軽合金Ⅰ型と同じ物のようです。

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この画像で見れば「軽合金Ⅰ型」との違いは明らかです。

※つづく
さて、次回は、いよいよペダル以外に進むのか?それとも、またペダルなのか?・・・

※前回よりの続き

前回、ご紹介した真弓鑵子古墳、牽午子塚古墳は遺跡に詳しい観光ガイドなどには載っていますが、
これから訪ねる古墳は観光ガイドはもちろん、歴史関係の本にもあまり載っていません。
場所は先の古墳から西側、貝吹山の南麓にある古墳です。

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乾城古墳(かんじょこふん) 円墳? 約20m
長い間に墳形も判断出来なくなるほど大きく削られてしまっています。

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乾城古墳、石室の上の土砂も崩れ落ち始め危険な状態でした。

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石室の天井が極めて高い、その他の構造的特徴から渡来系の人物の墓とする説もあります。

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乾城古墳の北西に見えるのが「与楽鑵子塚古墳」(よらくかんすづかこふん) 円墳? 径約24m 
乾城古墳と、ほぼ同時期に作られたと考えられているそうです。

さて、次の目的地を目指して一気に西へくだります。

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高取町草木集落の裏手の山にある「斉明天皇陵」
ここは宮内庁により「斉明天皇陵」とされています。
しかし昨年の発掘調査により研究者の間では「真の斉明天皇陵は牽午子塚古墳である」
と言う意見がほとんどになっています。

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今度は高取町佐田の集落に向かいます。
北に向けて登っていくと左手の山に見えてくるのが「岡宮天皇陵」
ここは宮内庁により 岡宮天皇 草壁皇子の陵墓とされています。
しかし、研究者の間では、この後に訪ねる古墳こそ真の草壁皇子の陵墓であろうとされています。

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集落の中の車も通れない細い道を抜け神社への急な階段を
登った所にある「束明神古墳」(つかみょうじんこふん)八角形墳 対角約30m
研究者の間では、ここが「天武天皇と持統天皇の間に生まれた草壁皇子の墓」
の可能性が高いと言われています。

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幕末、岡宮天皇(草壁皇子)の御陵を定める為、役人が来ることになったのだそうです。
その際、御陵になると周辺の村が強制的に移転させられると言う噂が流れ
村人は古墳の周辺を壊したり羨道の石材を抜いたと言われています。
(陵墓にふさわしくない大きさに見せる為?)

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最後に訪ねたのが明日香村真弓にある
「マルコ山古墳」 六角形(八角あるいは円墳とする説も) 対角約24m
読んでくださっている方には判りににくいかと思うのですが・・・
ぐるっと回ってきて、今まで紹介した岩屋山古墳、真弓鑵子古墳、牽午子塚古墳等の近くになります。

ここは天皇陵特有の八角形古墳と思われた時期もあり、
また石槨に漆喰が塗られていると高松塚古墳同様、壁画古墳ではないかと
期待され発掘されましたが残念ながら壁画はありませんでした。
しかし、いずれにしても皇族クラスの墓ではないか?とする説が今でも多いようです。

※今回の古墳巡りはこれで終了です。
※古墳の大きさ、形は参考にした資料の後の調査などによって改められている場合があります。
※私の間違いなどありましたら、遠慮なくご指摘くだされば幸いです。

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5月14~15日はMOM(マスプロ車オーナーズミィーティング)に参加させていただきました。
場所は富士山、今年は二日とも晴れ、なおかつ、ずっと富士山が見えているという最高の天気でした。
私の参加車輌は1980年と思われる片倉シルク キャンピングのフレームをベースにカスタムしたものです。

参加者の皆様、お疲れ様でした。特に幹事のkokoさん、つり人さん、ご苦労様でした。
次回もよろしくお願いいたします。

7日は山辺の道を巡りましたが8日は少し南下して明日香村とその周辺地域の古墳を巡りました。

甘樫丘の駐車場に車を置いて朝7時前には自転車でスタートです。

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まずは、いつも横の道を通りながら訪ねた事がなった大古墳。
「丸山古墳」一般には「見瀬丸山古墳」と呼ばれています。
奈良県下では最大、全国でも6番目の大きさを誇る全長318mの前方後円墳です。
右の樹木が茂っている部分が後円部で宮内庁で陵墓参考地として管理されています。
先ほど出てきた梅山古墳を宮内庁は欽明天皇陵としていますが研究者の中には、
こちらを欽明天皇陵とする意見もあります。
この古墳は宮内庁管理の古墳としては珍しく内部の様子がわかっています。
平成3年頃、偶然開口した石室内に市民が入り写真撮影した事がきっかけとなって
簡単な調査が行われたからです。

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丸山古墳、後円部から見た前方部。
グランドのように広々と広がる前方部。
昔は巨大な円墳と思われていたのも頷けます。

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後で訪ねる「植山古墳」から見た丸山古墳。
左に見える樹木が後円部で右は、ほぼ画面全体の緑の部分が前方部なのですから巨大です。

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丸山古墳の北にある「植山古墳」
ここは長方形(約40m×約27m)の墳丘に2基の横穴式石室があります。
天井石のない横穴式石室が2基並んだ画像を見かけますが現在は工事中とされシートや
簡単な?屋根で覆われていました。
北側はすでに公園化されていますので全体に整備され公園になるのかもしれません。
画像は隣の神社から撮影しました。

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目当ての物が見られるかどうかは判りませんでしたが、どうしても行きたかった
「菖蒲池古墳」(しょうぶいけこふん) 方墳 詳細不明
この古墳の石室には2基の立派な家型石棺が納められているはずなのです。

ところが地形図上で場所が判ってもは入口がわかりません。
結果的には東の養護学校の方から入るのでした。
(西側の住宅地から入口を探していました)

さて、やっと入口を見つけました・・・・左のシートで囲まれた所が石室でしょうか?
果たして内部は見えるのでしょうか?

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おお、内部がわずかですが見えました。
上部に見えるのが2基あるうちの手前の石棺の蓋部分です。
(手前と奥では蓋の上部の形状が違う)
石棺自体は、かなりの高さがあるはずですが周囲が埋められているのでしょうか?

やや上部から狭い開口部で見下ろすことになるので隙間に手を突っ込んでカメラを
低い位置にして撮影しても、これが限界でした。
奥に、もう一つの石棺があるはずですが、そちらは残念ながら見る事は出来ませんでした。
でも片方とは言え石棺が確認出来たので苦労して入口を探した甲斐がありました。

さて、菖蒲池古墳のある住宅地から南下します。
有名な観光スポット「鬼の俎、鬼の雪隠」には目もくれず(笑)
(以前、じっくり訪ねたので)
ちなみに、この二つは破壊された古墳の石室で俎の上に雪隠が載って石室を構成していたのです。
(鬼の俎、鬼の雪隠古墳とも呼ばれます)

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「鬼の俎、鬼の雪隠」の、すぐ西側にある「カナヅカ古墳」(平田岩屋古墳) 方墳 約35m
現状は畑の中の盛土といった風情で案内板もなくパンフレットなどにも
載っていませんから訪ねる人はまずいません。
西側には欽明天皇説もある梅山古墳があり現在、カナヅカ古墳は欽明天皇陵の陪塚(ばいちょう)
として宮内庁により管理されています。

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「カナヅカ古墳」の話に出てきた「梅山古墳」 前方後円墳 約138m
宮内庁は欽明天皇陵としています。
大きすぎて全体が写りません。手前が後円部です。

さて、今度は近鉄 橿原線を西に越えた地域の古墳を探しに行きます。

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あすか駅の、すぐ北の住宅地の中にある「岩屋山古墳」 三段築成の方墳 一辺約54m
この古墳の石室の石組みが見事であることは写真で見て知っていました。
しかし実際に見て改めて驚きました。

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羨道、石室とも見事な仕上げ、石組みです。
特に長い羨道が精緻に作られているのには、びっくりです。
たとえは悪いかもしれませんが下の画像の羨道などは、まるでコンクリート通路のように
綺麗に作られています。

さて飛鳥駅の西側には、それほど規模は大きくないものの興味深い多くの古墳があります。

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真弓鑵子古墳(まゆみかんすづかこふん) 二段築成の円墳 約40m
近くまで行って見ると・・・残念ながら崩落の危険性(私有地でもある)があるとのことで
見学禁止になっていました。

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以前、撮影された真弓鑵子古墳の石室内部。
この古墳が大変珍しいのは玄室両側に開口している事です。
石室が広く天井が高いと聞きましたが撮影の時点で床面が土嚢のような物でかなり
埋められていたようです。

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さて真弓鑵子古墳の、すぐ近くには昨年、見学会に駆けつけた牽午子塚古墳(けんごしづかこふん)が
あります。


昨年、12月の見学会(大発見があった)に来たばかりなので今回は、どうしようかと迷いましたが、
高低差もそれほどなく(笑)、本当にすぐ近くなので行って見ることにしました。

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牽午子塚古墳の横口式石槨(よこぐちしきせっかく)入口部分。
見学会の時には、ゆっくり見る事が出来なかった、この部分ですが行って良かったと気が付きました。

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牽午子塚古墳の横口式石槨の内部は二棺埋葬用(並列)に初めから作られ棺を安置する
棺台がある事は写真で知っていました。
そして、それは石槨入口部分から、ある程度奥行きがあるものと思い込んでいました。
しかし、実際に見てみると格子のすぐ奥が石室で、あまりに近く画像が、この程度しか
撮れないほどでした。
これは驚きでした。

※続く。
※古墳の大きさ、形は参考にした資料の後の調査などによって改められている場合があります。
※私の間違いなどありましたら、遠慮なくご指摘くだされば幸いです。

前回よりの続き

山辺の道の南端に着きましたので折り返して北上します。
復路は山辺の道ではなく少し、西側を探索しながら天理(白川ダム)まで戻ります。

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大和神社(おおやまとじんじゃ)の長い参道。
日本海軍 戦艦大和も、ここの神を勧請し御魂をお守りにしていたのだそうです。
そう聞けば立ち寄らない訳には行きません。

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大和神社は大和の地主神、倭大魂神(やまとおおくにたまのかみ)を祀る神社とのこと。

大和神社の歴史は古いものの、ここに鎮座するようになったのは15世紀はじめ頃だそうで、
それ以前どこに祭られていたのか、はっきり判っていないらしい。

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大和神社から北上すると大きな古墳が二基見えてきます。
(これは北から見たところ)
右が「西乗鞍古墳」 118m 前方後円墳、左が「東乗鞍古墳」 75m 前方後円墳。

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天理大学の、すぐ南側、「西山古墳」 190m 前方後方墳
念の為、前方後「円」墳ではなくて前方後「方」墳です。
この古墳、前方後方墳としては日本最大なのだそうです。
少し細かく形態を見ていくと下段は「前方後方墳」で約190mほど。
その上に160mほどの「前方後円墳」を作っているのだそうです。

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和爾下神社(わにしたじんじゃ)
古代の有力な氏族であった和爾氏が祭祀した神社とのこと。

この神社は「和爾下神社古墳」の上に立っています。
105m 前方後円墳

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18時過ぎ、やっと車を置いた白川ダムまで戻ってきました。
車を置いたのは、その名も「古墳公園」

白川ダムが出来る以前は、この周辺に「和爾小倉谷古墳群」(わにおぐらだにこふんぐん)があり、
多くの古墳があったそうです。
この古墳公園には、その中の3基の古墳が移設、保存されています。

画像のように2基の古墳の石室が、わずかに見えます。
もう一基は一段高い所に移設保存されています。
(上の一基は石室は確認出来ない)

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和爾小倉谷2号墳 横穴式石室


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和爾小倉谷3号墳 横穴式石室


「山辺の道」探索は今回で終了です(笑)
明日は飛鳥に移動して古墳巡りです。
※古墳の大きさ、形は参考にした資料の後の調査などによって改められている場合があります。
※私の間違いなどありましたら、遠慮なくご指摘くだされば幸いです。

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