コルサの毎日がヒルクライム

2011年05月

前回よりの続き

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右手に見える森が「行燈山古墳」(あんどんやまこふん) 
242m(周濠まで含めると360m) 前方後円墳

奥左手に見えるのが「天神山古墳」 103m 前方後円墳 
二つの古墳の間には「アンド山古墳」、「南アンド山古墳」等、その他、
周辺にはいくつかの古墳があります。
行燈山古墳は宮内庁により「崇神天皇陵」とされています。

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先の行燈山古墳に並ぶ巨大古墳が左の「渋谷向山古墳」(しぶたにむかいやまこふん) 
300m 前方後円墳
右は「上の山古墳」 144m 前方後円墳
渋谷向山古墳は宮内庁により「景行天皇陵」とされています。
この画像では渋谷向山古墳の大きさが感じられませんので全景を下にアップします。

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南から見た渋谷向山古墳

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先の渋谷向山古墳の撮影ポイントから北に振り返ると「赤坂古墳」 詳細は不明

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渋谷向山古墳を過ぎると「珠城山古墳群」(たまきやまこふんぐん) 
画像に見えているのは、もともと丘陵で、ここに3基の前方後円墳が存在したとのことです。
しかし3号墳は、近年、土取りの為、滅失したとのこと。

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檜原神社(ひばらじんじゃ)
鳥居が珍しく二本の柱に注連縄(しめなわ)が張られているだけですね。

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檜原神社には拝殿も本殿もなく「三ツ鳥居」があるのみ。
檜原神社は「元伊勢」と呼ばれます。
(由来に興味ある人は各自調べてね)

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檜原神社の南には「玄賓庵」(げんぴんあん)
ここは興福寺の高僧だった玄賓が周りの堕落した僧に耐え切れず隠遁した場所。

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玄賓庵の南には「月山日本刀鍛錬道場、記念館」があります。
歴代の月山鍛冶の作品を無料で見る事が出来ます。
(土曜日のみ開館。1、2、8、12月は休館)
売り物の脇差もありましたよ(2百5十万円でした)

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大神神社の摂社、「狭井神社」(さいじんじゃ)
狭井というのは神聖な泉という意味があるのだそうで古代から信仰を集めていたそうです。
その泉は、どこにあるのでしょうか?

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拝殿の向かって左手奥にありました。
ここが御神水をいただく事が出来る薬井戸です。

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突起部分の先端に金属製のボタンがあって、そこを押すと下から御神水が流れます。
ステンレスのコップは、すぐ右手に掛かっていますので狭井神社にお越しの際は、
霊験あらたかな御神水を、ぜひ味わってください。

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大神神社の摂社、「若宮神社」(わかみやじんじゃ)
この神社の祭神は出雲神大物主神の子 
大直禰子(おおたたねこ)(大田田根子とも書きます)だそうです。

さて、今回は大神神社をスルーして先に進みます(何度も以前、立ち寄っているので)。

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大神神社の神宮寺、「平等寺」(びょうどうじ)
ここも廃仏毀釈で衰退したそうです。

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いよいよ、山辺の道も終わりに近づいて来ました。
金屋集落のはずれ(北側)に重要文化財の「金屋石仏」(かなやせきぶつ)が
コンクリートの収蔵庫に納められています。
収蔵庫の柵の隙間から撮影します。
2mほどの石製板材に彫られた石仏です。
この材料は、古墳の石棺の蓋を利用したものだといわれています。
余談ながら大和の古墳には立派な石室がありながら石棺を失った古墳が、かなり多くあります。
(もちろん、木棺などの古墳もあり、全ての古墳に石棺が納められていた訳ではありません)
こうした石棺の石材は、いろいろな物に使われているようです。


金屋を過ぎ、これで、とうとう大和川(初瀬川)に到達しました。
山辺の道は、このあたりで終わりです。
この後は北上しながら往路で立ち寄れなかった場所を探索しながら天理(白川ダム)まで戻ります。


「山辺の道」探索は、まだ、続きます(笑)
※古墳の大きさ、形は参考にした資料の後の調査などによって改められている場合があります。
※私の間違いなどありましたら、遠慮なくご指摘くだされば幸いです。

5月7、8日は急に思い立って奈良にいってきました。
行ける時に、とりあえず行っておかないと(笑)
7日は「山辺の道」(やまのべのみち、「山の辺の道」とも書きます)を辿ってみました。

ここで「山辺の道」を超簡単(笑)にご紹介しておきましょう。
「山辺の道」は奈良から桜井に続く古代からの道です。
現在、南北を結ぶ国道169号線より東の山手に通っています。
なぜ、歩きにくい山の中を通っているのか?古代、治水工事もほとんど行われていなかった頃は
現在の国道169号線あたりは、まだ湿地が多くて歩きにくかった所もあったからなのでしょう。


今回は北の方のルートは、はぶいて名阪国道、天理東インター近くから南下します。
「山辺の道」は現在、「東海自然歩道」として整備紹介されていますが古代の道とは違う所も
、かなりあるようです。
また、あらかじめ、お断りしておきますが「山辺の道」南ルートというと、必ず出てくる、
お約束とも言うべき長岳寺、大神神社そして卑弥呼の墓ではないかとされる箸墓古墳などは
今回、立ち寄っていませんのであしからず。
そのかわり、普通の人は立ち寄らない?古墳などはたくさん出てきます(笑)

原則として北から南へ山辺の道を下り周辺の史跡をご紹介していきます。
その後、別ルートで折り返して、今度は南から北へ史跡をご紹介していきます。

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「山辺の道」を紹介するガイドブックに必ずと言っていいほど出てくる、この場所。
実際の場所は檜原神社と玄賓庵の間で、ずいぶんと南側にあります。
右に見える石塔がやや斜めになっているのが雰囲気があります。
これは、わざと、このように建てているのか、自然と傾いたのか?(笑)
(どの本の写真を見ても傾いています)

道は画像のような古道らしい所も多いのですが集落内の車も普通に通るところもあります。

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白川ダムからスタートし名阪国道を南に越えると、
すぐに「石上大塚古墳」(いそのかみおおつかこふん)があります。
全長107mの前方後円墳だそうですが樹木、竹が茂り近づいても遠ざかっても絵になりません(笑)

またすぐ近くに「ウワナリ塚古墳」128mの前方後円墳もあるのですが帰りに
寄るつもりで時間切れになってしまいました。

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さて、普通、「山辺の道」南ルートを北から歩くと言うと最初に立ち寄る
ポイントにする人が多いのが「石上神宮」(いそのかみじんぐう)
画像の楼門は重要文化財。

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楼門の中に入ると国宝の拝殿。

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石上神宮には、もうひとつの国宝があります。
ところが多くの人は先の拝殿に立ち寄っただけで、こちらには、あまり気がつかないようです。

この建物は「出雲健雄神社拝殿」(いずもたけおじんじゃはいでん)
中央に独特の空間を設けた割拝殿(わりはいでん)と呼ばれる形式だそうで
小ぶりながら優美な建物です。

そうそう、石上神宮の国宝と言えば、もう一つありました。
教科書などで剣身から左右に3本ずつ枝の出た「七支刀」(しちしとう)と言う剣を
見た覚えはありませんか?
あの剣、実は石上神宮の宝物なのです。

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かつて東大寺、興福寺、法隆寺などの大寺院につぐ待遇を受け隆盛を誇り
「西の京都」とまで言われたという「永久寺」の跡。明治の廃仏毀釈で
破壊されつくし何一つ残っていません。
千年近い歴史を持っていた寺院が明治になって失われた事が悲しいですね。
(1113~1117年建立とのこと)

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夜都伎神社(やつぎじんじゃ、やとぎじんじゃ)
珍しい茅葺の夜都伎神社拝殿。

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拝殿の、ひなびた、たたずまいとは対照的に朱色が鮮やかな夜都伎神社本殿

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中世の終わり頃、集落を自衛する為、堀を掘って作られたという環濠集落。
ここは竹之内環濠集落。
現在は画像の部分しか環濠は残っていないようですし、山辺の道すじに案内板は
出ているものの意外とわかりにくいので地元の方に聞いたほうが探すより早いかも。

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竹之内環濠集落から南に進むと、もう一つ残る「萱生町(かようちょう)環濠集落」
背景は「西山塚古墳」 114m 前方後円墳

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萱生町周辺には「萱生古墳群」があり、周辺には大小、数多くの古墳が存在します。
(萱生古墳群中山支群を含むと代表的な古墳は25基)
左、「ノムギ古墳」 現状63m 前方後方墳(前方後円墳ではなくて前方後方墳ね)、
右「ヒエ古墳」 130m 前方後円墳
(画像は南から見たところ)

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西殿塚古墳 234m 前方後円墳
手前側が前方部。西殿塚古墳は宮内省により手白香皇女(たしらかのひめみこ)
衾田陵(ふすまだりょう)に指定されています。

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西殿塚古墳のすぐ東側には「東殿塚古墳」 139m 前方後円墳があります。
画像の中央が東殿塚古墳後円部(後方部は左にのびる)で、
右手に、ほんのわずかに西殿塚古墳の後円部が見えています。
西殿塚古墳は宮内省により手白香皇女衾田陵に指定されていますので樹木に
覆われていますが西殿塚古墳の、ほとんどは柿畑になっているのが面白いですね。

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「下池山古墳」 125m 前方後方墳
37,5cmと大きな鏡「内行花文鏡」(ないこうかもんきょう)が見つかった事でも有名。

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「燈籠山古墳」(とうろうやまこふん) 110m 前方後円墳
この古墳が面白いのは画像で見える墓地の部分が古墳の「前方部」であること。
(画像には写っていませんが右手には念仏寺があります)
左手に丸く盛り上がるのが、もちろん「後円部」です。

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燈籠山古墳の後円部から見た「中山大塚古墳」 132m 前方後円墳
手前が後円部。反対側の前方部には神社があり削られています。

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中山大塚古墳、前方部にある「歯定神社」(はじょうじんじゃ)
ここには「大和神社御旅所」(おおやまとじんじゃおたびしょ)の由来がありますが
私には良くわかりません。

「山辺の道」は、まだまだ、続きます(笑)
※古墳の大きさ、形は参考にした資料の後の調査などによって改められている場合があります。
※私の間違いなどありましたら、遠慮なくご指摘くだされば幸いです。

岡崎市鳥川町犬迫(いぬばさ)地区から子安堂峠を抜けて宮崎地区、あるいは
街道(現在の県道37号線)に出る道があったのではという仮説を実証出来ませんでしたが
次の道(峠)は多分間違いないはずです(笑)

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鳥川町より岡崎市から作手町に抜ける県道37号線の岡崎市淡渕町あたりに来ました。
この周辺に子安堂峠(向かって右方向から)を越えて出てくるのでは?と
考えていたのですが(くどいって)
前方に見えるのは岡崎市明見町(みょうけんちょう)の山で現在は右手の男川沿いに
車道が作られています。
しかし男川沿いは険しい崖下で、かつては、ここに道はなかったと思われます。
では、どこに道があったのか?前方の山越えの道が有ったと思われるのです。
それを今から確認に行きます。

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1枚目の画像の山に登る道が県道脇に見つかりました?
こんなヤブに道が見えるって、やっぱり普通じゃない?(笑)

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このような石碑もありました。
読み取りにくいのですが・・・「すぐ?  ほんぐう??」と読めます。
「ほんぐう」は、この先の古くからの信仰の山「本宮山」のことですね。
どうやら、この踏み跡が古道の跡に間違いないようです。

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予想では山をまっすぐに越えて最短距離を越えて行くと考えていましたが実際は
男川(現在の車道沿い)のすぐ上の崖上に古道が残されていました。
画像でもお分かりになるかと思いますが崖の岩を切り崩し大八車ぐらいなら
何とか通れるほどの道幅を確保していたようです。
右手は崖ですが木が生えていなかったら、かなり怖いと思います。

また、画像ではわからないかと思いますが足元には岩盤に打ち込まれた
アンカーボルト、ワイヤーが多数有ります。
これは、もちろん、崖下、車道への落石防止金属ネットを固定する為の物です。

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崖下をのぞくと・・・
手前には私の爪先が見えています。
そして、ほぼ垂直に近い古道の石垣、画面中央上のほうに車道、そして一番上に男川が見えています。
両足のつま先が見えていないのは20mぐらいはあろうかと言う崖にビビッて左足は、
ずっと後方にある為です(笑)

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崖上の岩盤を切り崩して作られた道に感動しながら進んでいくと
古道は川から離れ山側に進んで行きます。
この先、支流があり崖沿いに行かず男川から支流に少し入った所を道が通る為でしょう。
そして、峠が見えてきました。
少しでも峠越えが楽なようにと峠周辺は人為的に掘り下げられていました。

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峠手前で、右手を見ると、わずかながら平坦地があり石碑が建っていました。
石碑の上側には「宮崎街道之碑」と書かれていました。
やはり思ったとおり、ここが古道跡に間違い有りませんでした。
この古道、このあたりの中心地的(ここから北側にある)、山里「宮崎」の名前が付いて
「宮崎街道」と呼ばれていたのですね。
碑文は全て漢字で書かれていました。
「明治二十五年」の文字があり、この宮崎街道を整備したの
が明治二十五年である事がわかりました。
そして多分、昭和になってからでしょう、男川沿いに車の通れる道が作られ、
この旧?宮崎街道は忘れ去られていったのでしょう。
びっしりと漢字のみで書かれた碑文を、じっくり読んで、この先に見える「峠の名前」を
探しましたが残念ながら見つかりませんでした(笑)

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峠を越えて北側から見たところ。
やはり、かなり開削されて峠のピークが低められているのがわかります。
現在、従来の道部分を落石、倒木、間伐材が埋めてしまっていますが、
かつては大八車が通れる巾程度は、ここでも確保されていたようです。

ここまで来れば、あと少しで「妙慶」という地区の沢沿いの舗装道路に出られるはずです。
ところが、眼下に舗装道路が見えているのに降りる所がありません。
辿ってきた古道は舗装道路の工事の際、切り崩され高い位置でなくなっていました。
(妙慶地区の沢沿いの道を整備した時には、すでに古道は使われていなかったということでしょう)

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山中で輪行の準備をしているわけではありません(笑)

往復してみても、まともに降りられる所が見つからず、ついに奥の手?を久々に実行です。
自転車がなくて自分一人でも安心して降りられそうなところが見つからなかったのです。
以前、下の舗装道路側から古道を探したのに見つからなかったのは、
すでに崖上数メートルで断ち切られ入口が破壊されていていたからなのでした。

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まずは車輪を崖下に落とし、続いてフレームを木の枝や根っこに引っ掛けながら
少しずつ降ろします(笑)
この画像は最終段階で自分が先に林道まで降り木の枝に引っ掛けたフレームを回収するところ、
やれやれです。

やっとのことで舗装された林道に降りる事が出来ました。
この先には小さな沢があり、それを越えて山に入ると、いよいよ宮崎地区に
つながっているはずなのですが(古道の跡が)・・・
小さな橋と、その先は私有地で閉鎖されていた事と、ここまでの行程で
精神的に疲れてしまい、この先の「宮崎街道」探索はまた後日ということにしました(笑)

でも、旧道探索をあきらめたとはいえ、ここから、あっさり県道を帰ったわけでありませんよ。
舗装されているとは言え林道・鹿伏線、林道・金蔵線で峠(無名ながら10~15%が頻発?する)を
越えて車に戻りました。

今日は地元、豊川市、岡崎市地区の小峠を回る事にしました。
(私が住むのは豊橋市ですが)
具体的な場所は東名高速 音羽蒲郡インターの北側辺りの山中になります。
もちろん、私が記事にするような峠ですから普通の所ではありません?(笑)

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豊川市萩町から県道377号線で岡崎市鳥川町に向かいます。
まずは以前もご紹介した「赤坂の峠」を越えます。
画像は豊川市側から岡崎市側(旧額田郡)を見ています。
(ここは健脚ならロードで越えられます)

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赤坂の峠を越えて鳥川町に下りました。
岡崎市鳥川町犬迫(いぬばさ)地区から北を望んだところ。
ここには以前、登った子安堂峠があります。
現在は子安堂峠から尾根伝いにハイキングコースが設定されていますが、
ここ鳥川集落から子安堂峠を越えて明見町(みょうけんちょう)、
宮崎町(この辺りの山中では、やや大きな集落)に抜ける古道が有ったと私は考えています。
今回は、それを調べに行くのです。

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ハイキングコースに入るには、この扉を開けて山に入ります。
この辺りは猪、鹿などが多く動物が畑に下りてこないよう柵が作られています。

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子安堂峠に到着しました。
道は険しいものの先ほどの画像のように標高差はたいしたことはないので楽勝?です。

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子安堂峠の北側には予測どおり古道らしき道跡が続いています・・・

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しかし、すぐに杉林の中で古道跡らしきものは消えてしまいました。
ただ、この先には石垣らしきものも見えています。(この画像では石垣は見えていません)
とりあえず、確認の為、道跡らしきものはないものの適当に杉林を進みます。

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山中に、あったのは「猪垣」(ししがき)でした。
これは昔の人たちが畑を荒らしに来る動物を防ぐ為に石を積んで築いた石垣です。
(猪垣は、このあたりの山間部の畑には、よく作られた)
画像の左隅、中央辺りに黒い帯のような物がお分かりになりますか?
小川をはさんだ反対側の山の斜面にも猪垣が作られているのです。
その先には道もありそうに見えない事もないのですが・・・
ただ、そこに至る道が、どうしても確認できません。
だとすると田や畑を耕作する為に通う道が子安堂峠だったのかもしれません。
また、わかっていた事ではありますが、この先(北側)は男川があり、簡単には
明見町、宮崎町がある対岸には渡るのは難しいのです。
やはり、抜け道はなかったのか?・・・
これは土地の人に聞いてみるしかなさそうですね。

今日は残念ながら子安堂峠に引き返し、次の目的地を目指す事にします。

※続く

30日は早朝、車で移動です。
目指すは長野県最北部周辺の峠です。
長野県最北部周辺となると愛知県から一泊では難しいので
2泊3日の(なかび)に行っておきたいのです。


ただ、3つの問題が・・・・
ひとつ目は目的地周辺(下水内郡栄村周辺)が東北の震災の影で忘れられがちですが
大地震の被災地である事。
(3月12日発生。最大震度6強。実際、現地に入ると道路の陥没などが見られました)

ふたつ目は遠目にも残雪が多いこと。
行くまでは山肌に雪は有っても道は大丈夫だろうと安易に考えていました。

結局、目指す峠道のほとんどは積雪なのか震災の影響(あるいは両方か)なのか、
閉鎖されている所ばかりでした。

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北信濃の飯山盆地、千曲川沿いから見る関田山脈。尾根周辺は長野県と新潟県の県境になります。
この険しい山脈に、かつて13ほどの古い峠があったそうです。
もちろん、いくつかの峠は現在も日本海側と長野県を結ぶルートとして機能しています。

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関田山脈、13の古い峠のうち北側の峠はあきらめ、一番南側の涌井峠、富倉峠を目指す事にします。
(この峠は長野県側に、かなり入っており県境ではありません)
画像は国道292号(大山トンネル)が通る涌井峠を飯山市側から望んだところ。

ここで三つ目の問題が。
雨が降り出してきたのです。
当日、朝の地元ラジオの天気予報では「雲は厚いものの崩れる事はないでしょう」と言っていたのに。

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大山トンネル直前から右手に涌井峠の旧道があります。
5万分の1の地形図にも実線で書かれているし距離も短いので
簡単にクリア出来ると思い込んでいたのですが・・・

すでに車も通れないほど荒れています。
帰ってから調べてみると大山トンネルが完成したのは1967年と
古いので地元の人も使わなくなってから長い時間が経っているのでしょう。

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積雪にも悩まされながら涌井峠(650m)に到着。南側から見た峠。

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涌井峠、北側から南側を見たところ。

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北側斜面の方が当然、積雪が多いはず、とは思っていました。
しかし、峠から国道までは数百m?(地形図からの推測)と短いし下りきって
北峠、富倉峠にまわるのに好都合なので北側側に下りはじめます。

しかし、最初のカーブを回るとこの通り。
この北斜面の積雪はもちろん、雨もひどくなってきましたし、やはり残雪が多そうな
北峠、富倉峠は断念するしかなさそうです。
(富倉峠は、もともと人馬の道しかなく、ここより、ずっと廃道化しているらしい)

ここから斑尾高原近くの万坂峠などを目指す手もありましたが、そちらも
状況はわかりませんので(雨のこともあるし)結局、飯山市側に下る事にしました。

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飯山市の運動公園まで戻って雨宿り、及び早めの昼食をとります。


ここから次の峠(長野市周辺)に車で移動しようと思っていたところ、
また雨が降り出し気持ちが切れてしまい、結局、予定を一日早めて帰宅する事にしました。

予定では二日目は、昨日より多くの峠をゲットできるはずだったのですが。
なんか、今回も昨年夏と同じように尻すぼみになってしまいましたね~(笑)

※今回のサイクリング記事は、これで終わり。

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