コルサの毎日がヒルクライム

2011年07月

1976年7月、高校2年生の時、片倉シルクR2-Xを買いました。
一年間、小遣いやお年玉を貯めていたし時々は昼飯を抜いてパン代まで貯金していました。
それでも、原付バイクより、はるかに高価なロードレーサーには、かなりの金額が足りません。
中学時代、そこそこの不良だった私がオートバイを買うと言い出すよりは「まし」だと
思ったのでしょう、両親は不足分を出してくれました。
(高校では免許を取ることすら禁止だったが不良の私は、すでに学校に隠れて取っていた)
親に頼み込む時「10年は大切に乗るから」と言った覚えがあるのですが
今年で、すでに36年目に入りました。
(大切にしてきたか、どうかは?だが)

高校生の頃から部品の箱や説明書を必ず取って置くような性格だったのですが、
いくつか、残念に思う事が有ります。
(分解したり部品を頻繁に付替えたりサイクリングに使ったのでキズだらけなのは仕方ない)

それは、まずパイプメーカーのギャランティシール「海野D2×D2」のアルミステッカーが、
はがれてしまった時に捨ててしまったこと。
これは自分でもなぜ捨てたのか今思い返しても不思議に思う(笑)
(ちなみに海野のステッカーは、まだ入手していないので情報をお待ちしております)

もう一つは純正で付いていた杉野のボトルを汚れたからと数年後に処分してしまったこと。
ボトルについては、「いずれ新品を買えばいいや」という気持ちがあったと思います。
ところが、その後、なぜか縁がなく、ずっと手に入れられずにいました。
近年、サイクルショップさんの倉庫に入れてもらったりする幸運に何度も恵まれ、
昔憧れた部品、用品、完成車をいくつも手に入れる事が出来たのに
スギノのボトルには縁がありませんでした。

1年程前には田爺さんが某所で見つけたと新品をプレゼントしてくださったのですが・・・
それは、どうやらスギノではなく非常に良く似たコピー商品だったようです。
(もちろん、非常にありがたいことです)

これにはボトルの底に入っているはずのスギノのマークはなく
「TAIWAN」の文字が入っているだけでした。
これは、いつ頃作られた物なのでしょうか?まさかスギノの文字入りがコストダウンの為、
台湾製になったのではないと思うのですが。

そんな、こんなで「私の探している物リスト」の上位に未だに残っていた
杉野の純正ボトルですが
つい最近、「我流天性さん」という方から
「昔使っていた中古が出てきました。よろしかったら差し上げます」
とのメールをいただきました。
「我流天性さん」とは面識はなく、いつも当方のブログを楽しく見ていただいているという方なのです。
それだけの縁で、ずうずうしくいただいてよいものか?とも考えたのですが
結局、ありがたくいただくことになりました。

「我流天性さん」ありがとうございました。
大切にします!!

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「サイクルスポーツ臨時増刊オールパーツカタログ76/77」の広告ページ
片倉シルク R2-Xの広告がカラーで出ていたのは、この時限りではないかと記憶しています。
75年頃サイスポ本誌にも良くR2-Xの広告が出ていたと思うのですが、
それは見開き2ページながら写真も不鮮明なザラ紙ページばかりだったと思います。

小さな写真ながらR2-XとR2-Rにスギノのボトルがセットされているのがお判りになるかと思います。

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我流天性さんからいただいたスギノのボトルと田爺さんからいただいたケージをセットした
現在のR2-X
約30年ぶりに標準で付属していたスギノのボトルと再会?(笑)

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3枚の画像とも右が我流天性さんからいただいたスギノのボトル。
左は田爺さんから、いただいたメーカー名なしの台湾製ボトル。

非常に良く似ているもののボトル自体の大きさ、細部も微妙に違います。
レーサーの表情ほかも、良く似ているものの細部には、結構違いがありますから、
イラストの版?が同じものでないことは間違いないでしょう。
これは、やはりスギノの物をベースに作られたコピー品だと思われます。
ではコピーが作られた時期はいつなのでしょうか?
スギノの製品が出回っていた頃なのか?それとも最近なのでしょうか?
(スギノ自体がコストダウンの為、作った物ではないと思うのですが)

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フタ部分にもスギノの文字等がしっかり入っています。
底の部分もご覧のとおりです。
左には「TAIWAN」の文字が入っているだけなのですが画像では、ほとんど確認できませんね。

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田爺さんが探してきてくれたボトルにはケージ、ケージをフレームに
取り付けるバンド、ネジセットなどもちゃんと付属していました。
そっくりさんボトル付属のケージも樹脂部分の形状、材質、スチール部分の仕上げ、
メッキの質など、やはりスギノ製のレベルには及ばないようです。

我流天性さんからいただいたスギノの本物ボトルは、大切に保管しておいて
普段使いには
田爺さんが探してきてくださった「そっくりさん」?を使おうと思っています。

我流天性さん、田爺さん、あらためてありがとうございました。大切に使わせていただきます。

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P.S.
我流天性さんにはボトルだけでなくSilkのネームの入ったボトルカバーまでいただいてしまいました。
年代的には私のシルクより少し後のものでしょうか?(1980年前後?)

24日は「鮎ポタ」(愛知県矢作川)に参加させていただきました。
その模様は他の参加者や主催者のブログで見られると思うので私は詳しくは書きません(手抜き 笑)
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画像は通り雨にあい、みんなで雨宿りの図。
参加車輌はトーエイから、おやじミキスト、BSモールトン、
バリバリのトライアスロン車まで何でもあり?(笑)

結構な雨だったのに雨がやんで走り出し1キロも行ったら路面は乾いてる!
「夏の雨は馬の背を分ける」と言いますが、そのとおりでした。
(馬の背を分ける=馬の背中の右と左で雨が降ったり降らなかったりするという意)

体調不良で梨平峠、平丸峠を、あきらめて向かった遺跡は・・・
千曲市「森将軍塚古墳」(千曲市森将軍塚古墳館)です。

古墳館で(自販機にて)観覧券を買おうとすると古墳までは
片道200円のバス(古墳館のみなら200円)が出ているとあります。

「古墳まで有料バス?それも片道200円も??」、
「往復+観覧券なら500円(100円割引)???」、
「古墳が、そんなに離れているなら自転車で行けばいいや」
と古墳館観覧券のみ購入しました。
これが後で、おおいに後悔する事になるのですが・・・(笑)

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見学は2階から見はじめるようになっています。
石室が精巧に復元されています。

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森将軍塚古墳の大きさ(100mほど)は全国的に見れば、特別に大きいわけではありません。
しかし、竪穴式石室は日本最大級の規模を誇ります。
その石室が再現されていました。
2階の見学を終え1階に降りて行くと先ほど上から眺めた石室を内部から見る事が
出来るようになっていました。
(撮影禁止とは特になかったようなので画像を撮りました)

さて、古墳館の見学を終え受付の女性に古墳までの道を尋ねると・・・
「古墳までは歩いて20分ほどかかります」、「もちろん一般車輌は入れません」とのこと。
「それなら自転車は?」と聞くと「一般者の方は公園内、歩きのみです」と言う。
「まあ20分と言っても女、子供を考えてのことだろう」とルートを確認して外に出ると・・・

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この山の頂上が古墳でした!
(頂上に古墳の石積が見えている)
森将軍塚古墳が長野県を代表する古墳だと言うことは、もちろん知っていましたが、
こんな尾根の上にあるとは不勉強で知りませんでした。

この日、長野県は猛暑で気温は36度前後とラジオで言っていました。
これなら有料バスで行けば良かった・・・・
受付の若い女性に歩きで行くと言い「お気をつけて」と送られた手前、今更、バス券を
買いには行けず(笑)
自然を楽しみながら古墳の立地、古墳作りに携わった人達の苦労を感じながら歩いて
行くことにしました・・・
(古墳のある山を含め古墳館、隣接して県立歴史館が作られ山全体が歴史公園になっている)

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バスが行くのですから舗装道路がありますが・・・もっと、近道があります。
ただし、こんな急な階段です。
疲労でサイクリングを泣く泣く、あきらめて遺跡見学に来たはずなのに、
まさか、こんなヒルクライム?があるとは(笑)
まあ、林間なので日陰があり、途中、休憩所、水飲み場所などが整備されているのが、救いです。
(ルート選択によっては2号墳等を見学しながら登る事も出来ます)

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汗を流しながら登っていくと偉容を誇る古墳が見えてきました。

ちなみに「森将軍塚古墳」と呼ばれていますが葬られている人は誰かは判っていません。
(森と言うのは地名)
偉い人=将軍と言うことで、このように呼ばれていたようですが将軍と言うよりも
「当時の科野のクニを治めていた王の墓」と考えた方が良いのでしょう。

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「前方部」側から。
森将軍塚古墳は前方後円墳(全長約100m)で約1600年ほど前(4世紀代)に
作られたと考えられているようです。
古墳館で見た竪穴式石室は後円部(この画像の奥側、高いところ)内部に作られていました。

また、尾根に作られていてスペースの問題があったのか後円部と前方部の主軸が
大きくずれているのが、この古墳の特徴です。
(前方部の中心線に対して後円部の中心線は大きく右にずれる。したがって上空から見れば、いびつ)

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後年、古墳の埴輪を、お棺として利用して埋葬された遺構が前方部や古墳周辺に、
かなりの数あるそうです。
これも、その一つの復元模型です。
古墳の被葬者の家族、一族、子孫なのでしょうか?

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古墳の後円部に登ってみると、この景色が広がります。
この地には古墳時代にも多くの人々が暮らしていたはずです。
王および王家の偉大さを国中の人々に(また、ここを通る他国の人にも)知らしめる為に、
国中から見える、この高いところに巨大な墓を築いたのだろうと言うことが素人にも推測されます。

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下に見えるのが古墳館です。
この標高差を初めから知っていたら私もバス代をケチることはなかったでしょう(笑)
よほど歩きたい人、以外は、ぜひ見学バスを利用することをお勧めいたします。

この画像では、ほとんど写っていませんが左手に長野県立歴史館があります。
当初は、こちらも見学するつもりでしたが古墳への登り降りで消耗し今回は見学できませんでした(笑)

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ふもとには長野県立歴史館の地下から発見された集落跡をもとに推定された
古墳時代の村が復元されています。

※終わり

さて、前回の記事の通り、今回も野尻坂峠、古海峠行きは断念し、
もう少し西側の峠を登ることにしました。

飯山市の運動公園に車を置かせてもらいスタートします。

目的地は関田峠です。
運動公園からは緩斜面なのですが脚が回りません。
昨日の渋峠+小峠二つの疲労が、やはり一晩では取れなかったようです(泣)

戸狩野沢温泉から上越飯山線に入ると10%超の所もあるのですが
大苦戦、低めのギヤ比で何とか登っていきます。

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温井集落あたりで関田峠方面を眺め一息つきます。
関田峠は、その昔、牛で荷物を運ぶ街道だった為、ここ温井の集落には牛宿があったようです。

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上越飯山線の中盤?、田茂木池近く。
ここは特に道が広いのですが他の部分も拡幅工事(工事中の場所もありました)が
進んでいるようで比較的、道幅があり走りやすい道が続きます。

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峠直前の大神楽展望台から眺めた野沢温泉村、飯山方面。
昨日に続き今日も天気は良いものの、かすんでいます。
そういえば、朝、地元のラジオが「今日は無茶苦茶暑くなります」といっていたのが
思い出されます。
「ホント、暑い」
(画像は下りに撮ったもの)

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大神楽展望台からは運が良ければ、こんな景色がくっきり見えて楽しめるらしい・・・

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ついに調子の出ぬまま、なんとか(笑)、関田峠(1.111m)に到着。

この先は新潟県中頸城郡板倉町になります。
そう、新潟県!!思えば遠くに来たものです(笑)

この峠、上杉謙信が信濃へ進出した時に通った道といわれていますが上杉景勝が
会津に移った後は荒廃したそうです。

江戸時代に、また整備され越後からは野沢温泉への湯治客、善光寺参詣客が多かったようです。
越後からは塩、魚、米が飯山からは綿布、蓑、菜種油などが牛の背で運ばれたのだそうです。
しかし、冬は豪雪の為、牛も通れず人の背で荷物が運ばれたそうです。
(峠手前までの、かつての歩きの道は現舗装道路と全然違うルートらしい)

関田峠周辺には登山道、トレッキングコースが整備されているようで車も停まっています。

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標識の右手も尾根伝いのトレッキングコースです。
このルートを辿れば1.7キロで梨平峠に行けると書いてあります。
梨平峠行きも計画段階から考えていましたが、とてもそんな気力はありませんでした。
(画像でお判りになるかどうかわかりませんが、かなりの傾斜のトレッキングコースだった)

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峠から少し新潟県側に下ってみると、かすんでいるものの展望が開けました。
晴れていたら日本海は見えるのでしょうか?

さて、梨平峠を、あきらめましたので来た道を下ることに。
そして、次の峠を目指します・・・

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下りきってスタート地点近くまで戻り関田山脈を望みます。
先ほど登った関田峠は右手(東側)になります(画面には写っていない)
正面あたりが次の目的地の平丸峠です。
見てのとおり、標高差はそれほどありません?
ただ、昨日の疲労と先ほどの関田峠のダメージ?は意外に大きいようで(笑)
今日は平丸峠は断念することにしました。
(無理して倒れてもね)

峠は断念しましたが時間はまだ11時前です。
せっかくですから、長野県の遺跡を見ていくことにします。
しかし、これが(思わぬ)更なるダメージを足に与えることになるとは(笑)

※続く

15日、三つ目の峠は箱山峠といいます。
実は更科峠のすぐ北側にある峠なので距離は知れています。

ただ、箱山峠は結局、車が通れなかった峠と聞いていますので更科峠以上に
廃道化を恐れていた峠なのです。
さて、どうなるのでしょうか?

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あの低いところを越すのが箱山峠の場所のようです。
いったん軽く下りますが標高差は、わずかですね。

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近くまで行くと古い?地形図にはない広い道が出来ています。

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広い道をたどって進むと・・・あれ、トンネル出来てんじゃん!(笑)

トンネルの上に見える白いパイプのところが旧道かと思って行ってみると・・・
あれ、違いました。
トンネル手前から畑の間を左に登って入るのが正解でした。
(画像の位置より百m?ほど手前)

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入口さえわかればルートは問題なく?、すぐに箱山峠(標高548m)につきます。
ただ、峠手前から道のぬかるみが、すごく靴、自転車がどろどろに
なってしまったのには閉口しました。
(車に戻る前、ふもとに下り水が綺麗で豊富な側溝で洗う事が出来た)

この峠は1739年に開削され1813年には俳人 小林一茶も越えたのだそうです。
(中野市側から箱山峠を超え湯田中地区の湯本旅館に泊まったらしい)
その時、箱山を詠んだ句が・・・
「なを暑し今来た道を寝て見れば」だそうです(定本 信州百峠による)
画像は東から西側を見たところ。

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この峠、大きな岩を切り崩して改修されたりしたようですが結局、車は通れずじまいで
現在は峠直下にトンネルが作られ忘れ去られてしまったようです。
向かって左側は切り崩されたような岩肌でしたが
右の岩は自然のままなのか滑らかに感じられました

画像は東から西側を見たところ


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西側から見た箱山峠。

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箱山峠の西側にはハイキングコースも作られていますが残念ながら通る人は
ほとんどいないようでした。
「鴨ヶ嶽城跡まで754m」などと書かれています。
1m単位まで書かれているのは、面白いですね。

さて、渋峠、更科峠、箱山峠と三つの歴史ある峠を順調に越える事が出来ました。

※今更ですが・・・
更科峠を東から登って西に下り、西から箱山峠を登ればよかったですね。
そうすれば両峠の西側の道、西側の地形、西側の集落の様子も感じる事が出来たのですが。
まあ、箱山峠が西側から無事に越えられないと車まで戻るのに体力がないかも?
と不安だったからなのですが(笑)


車に戻り休憩の後、車で少し移動し明日(16日)の下見に行きます。

そこは・・・長野県下水内郡栄村です。
東北の震災の影で忘れられがちですが東北の地震直後、3月12日、
最大震度6強に襲われた被災地です。

長野県北部の峠、野尻坂峠、古海峠は(長野県側からだと)栄村を通る
国道117号線から入って行くのです。
(峠に至るルートは長野県側からも、2、3あるですが)

さて、国道117号「ひらたき地区」から峠に向かう道に入ると・・・
すぐに、この状態でした。

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国道は5月に訪れた時より、だいぶ状態は良くなったようでしたが
(それでもまだ影響は残っていました)国道から入ったこの道は、
まだ、ほとんど手つかずのようでした。

この集落を抜けると、すぐに「関係者以外立入禁止」の標識で道路は封鎖されており、
今回も野尻坂峠、古海峠行きは断念しました。
(すでに19時過ぎなので更に遠い他のルートは探索しなかった)

では、16日はどこに登ることにしたのか?
それよりなにより、渋峠の疲れは明日までに取れるのか?(笑)

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