コルサの毎日がヒルクライム

2012年01月

29日は日中、用事があるので、この寒い中、朝バンクに行くことにしました。

ここのところ、2、3回はエベレストに乗っていたので今回はビバロを持って行くことにしました。
エベレストは公道走行用のホイールの為、タイヤはロード用の重いものが付いているのですが
ビバロはピスト決戦用タイヤが付いているので軽快に走れるかな?と考えてのことです(笑)

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「軽快に走りたいならエベレストにピスト決戦用タイヤが付いたホイールを付け替える手もあるのでは?」
と思われるかもしれませんが・・・それは無理なのです。
エベレストはリヤエンド幅110ミリ、ビバロはリヤエンド幅120ミリなのです。
それでホイール交換は簡単に出来ないのです(笑)

ちなみに他の手持ちピストは・・・
シルク     110ミリ
ツノダ     120ミリ
チネリ     120ミリ
無名英国車   120ミリ
○○○○    120ミリ

昨年末、奈良県明日香村に遺跡の現地説明会(2011.12.3)があり行ってきました。
年末年始の忙しさ?から記事としてアップ出来ずにいましたが自分としては
注目していた遺跡なので遅ればせながらアップしておきます。


その遺跡は「飛鳥京跡苑池」(あすかきょうあとえんち)といいます。
この遺跡、明日香の中心といっても良い場所にありながら遊歩道にも案内板が出ていません。
(有名な史跡、「伝飛鳥板蓋宮跡」、「甘樫の丘」、「橘寺」、「飛鳥寺」に囲まれた辺り)
昨年、探し当てたところ、現地には説明板が出ているものの遺構は埋め戻され水田になっていました。
(それは行く前から予測していましたが)
では遺跡が多く存在する明日香村で遊歩道に案内板も出ていない遺跡に惹かれるのか?
(史跡、名所案内地図にも載っていない物が多い)
それは発掘時の遺構の壮観さ(写真で見ると)と1916年に現地から発掘されたと言う
巨石石造物の迫力からなのです。
この遺構、1999年から今回が6回目の発掘調査とのこと。
今なら以前、訪ねた時、水田になっていた所も掘り返され壮観な庭園跡が見られるそうなので、
これは行かない訳にはいきません(笑)

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今回は行列に並ぶと言うことはありませんでしたが説明時間30分以上前から熱心な考古学ファンが。

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今回の調査区域、全景(北東から)
配布された資料には「南池東半全景」とありました。
史跡は、この区域外(特に北側)にも広がっています。
(以前の調査で北池、渡堤、水路などの遺構が確認されています)

飛鳥京跡苑池とは何なのか?と思われる方もお見えになるでしょう。
ごくごく簡単に、ご説明すると
池底に石を、びっしり敷き詰め流水、噴水施設などを持った
「飛鳥時代の庭園遺跡」なのだそうです。
(飛鳥京跡苑池、天武天皇が685年行幸したとされる白錦御苑の可能性もあるといわれる)

画像の平坦な低い所が石を敷き詰めた池の底、中央の石積みは島?半島?
画像左手は石を積んだ土手。

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先ほどの画像の左手奥。
左手前に見えるハリボテは1999年に見つかった噴水と思われる流水施設石造物。
(現在は橿原考古学研究所にあり現地にはない)
そして有名な「出水酒船石」は、この画像右端手前(向きが悪く字が読めないカードが
立っているところ)から1916年に見つかったのだそうだ。
(出水酒船石は岡酒船石とは別物)

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これが現在、飛鳥資料館にある出水酒船石のレプリカ。
1916年に撮影されたと思われる有名な写真は、もっと迫力?があります。
(出水酒船石の現物は京都市東山の超高級?別邸 碧雲荘の庭石として使われています)
この石が上の画像の右側にあり噴水施設に水を流していたようです。
出水酒船石は有名な白黒写真があり、いろんな本に載っていますが今回、発掘説明会で
研究所の方に伺ったところ、
「あの写真は発掘後、場所を少しだけ西側に移して仮置きして撮影したもの」
とのことでした。

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石槽と呼ばれる石造物が以前出たところ。

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南池の西側から東側を見たところ。

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島状?、半島状?の積み石。
普段は人が立っているところまで埋め戻され保存されています。
(調査時以外に現地に行っても昨年の私のように遺構は見学できません)


現在は、普段、水田(私有地)ですが今後、遺跡として整備、活用されていくのでしょうか?
もし遺跡公園?として整備されるなら碧雲荘の庭石となっている出水酒船石も
戻してほしいものです。
でも、あちらの庭園も既に文化財級?の評価のようなのと個人蔵?という事らしいので
返還は難しいのでしょうか。

先日、藤田のピスト用革サドルを譲ってもらった記事を書いたのですが・・・
もう、ひとつ年末に藤田の革サドルを手に入れました。

これ、実は年末のクリスマス プレゼント交換会(笑)で、けったさんが提供、
当ったのはタキちゃん。
しかしタキちゃんは根っからのレーサー車ファンなので、この手のサドルは使うことはない、
とのことで、うちで他の物と交換してもらったのです。
(後日、けったさんに了解済み)

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この革サドル、調べてみるとかなり古い物らしい。
そのせいか、入手時は、金属部分(鋲バック受け金具など)はサビ、腐食の発生が進み、
革はカサカサ。
(比較の為に入手時の画像を撮っておけば良かった)

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そこで、このナットを外して分解し金属部分はサビ取り、革にはオイルを塗りこみます。
(気温が低くオイルをドライヤーで暖めながら)
ただ、画像のように裏側中央には革の型崩れを防ぐ為か裏打ちされていますので
中心部分は表からのみとなります。
作業が功を奏し、かなりサビは落ち、革も心なしか、しっとりと甦ってきました?。

しかし問題は組み付け時。
組もうと思っても全然、ベース金具がボルトまで届きません。
オイルを馴染ませようとドライヤーで温めたので、ちぢんだ訳ではないでしょうが(笑)
あきらめるわけにはいきませんので、いろいろ工夫したりして、なんとか組み付けました。
考えてみれば簡単に脱着出来るようなら、乗った時に革がたるんでしまいますよね。


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サイドの印。
「BELT」
「FUJITA SADDLE MFG.CO.,LTD.」
「TOKYO」
の文字。
先日、H氏からいただいた60年代後半頃(67年頃??)と思われるカタログを見てみると・・・
革の形、バック吊金具の形状、などなどから判断して
「サイクリング用サドル」、
「No.F-17.FEATHER」ではないかと思われます。
ただ、カタログの説明文に「ソフトな乗り心地を堪能できます」と書かれているのですが・・・
でも、とんでもなく硬そうなんですけど。
きっと、古いから経年変化で硬くなっているのですよね~(笑)

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BSモールトンにセットした60年代?藤田サドル。
先日のピスト用革サドルは痛くて我慢出来ませんでしたがこのサドルは硬くても
幅があるおかげか、それほど痛みは感じず「短距離なら」とりあえず使えそうです。

1月15日(日)は豊橋市の西側遺跡現地説明会に行ってきました。
最近、遺跡の現地説明会が、たくさんあるのは嬉しいのですが、
それだけ、開発が進み調査があちこちでされているということなんですね。
そして、ほとんどの遺跡は調査後、滅失してしまうのでしょう。

豊橋市牛川町の西側遺跡
大雑把に概要を説明すれば「弥生時代中期」から「戦国期」までの時代の
遺構が出た複合遺跡なのだそうです。
戦国期までと先に書きましたがほぼ継続的に現代まで、ずっと人が住んだり
利用されていた土地なのです。
そして、ここが西側遺跡ならば東側遺跡もありますし、
そのほか周辺は遺跡だらけの地域(合計8遺跡、実際はまだあるかも?)なのです。

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西側遺跡は競輪場からすぐ近く。
朝錬を終わって軽く食事を取りミニベロで向かったところ、
説明会の時間よりかなり早く着いてしまい、まだ人が少ない遺跡の全景。
(今回の調査区域のほぼ全景、東側より)

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説明会の時間になると熱心な考古学ファンが。

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いろいろな時代の、いろいろな遺構(住居、環濠、炉跡、お墓など)が複合しています。

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弥生時代の方形周溝墓(ほうけいしゅうこうぼ)
残念ながら埋葬施設は発見出来なかったらしい。

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ここは戦国期の火葬墓とのこと。

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愛知県初!弥生時代中期の「石器製作廃棄土坑」
「縄文時代に主に作られた打製石器が弥生時代の遺跡で見つかるのは極めて珍しい」のだそうだ。

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石器製作廃棄土坑周辺で見つかった石器及び関連品。
ほとんどがチャートと呼ばれる堆積岩製とのこと。
どこから産出したチャートかは聞き忘れてしまった(笑)

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仮設テントには出土した遺物が展示されています。
幕末期の陶器までありますね。
(一部、西側遺跡以外の周辺遺跡出土品もあり)

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2012年1月
愛知県田原市にて。
曇り空で写真うつりは良くないものの菜の花畑を見つけて一枚。

後方に見えるのは標高250.1mの蔵王山。
頂上まで舗装路があり田原市、豊橋市のヒルクライマーの聖地?(笑)

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