コルサの毎日がヒルクライム

2012年08月

縄文草創期と縄文時代早期~と言う、古い時代の史跡を見た後は少し新しい時代?の
史跡を訪ねることにします。

今度の目的地は豊田市の中心?トヨタ自動車本社工場から南東、
わずか2、3㌔という町の中の史跡です。

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住宅地を走っていると家と家の間に案内板の立つ細い道、発見。
奥に見える樹木の茂るところが目的地のようです。

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林の中を進んでいくと目的の古墳がありました。
画像右手にも高いマンション?が見えるように豊田市の住宅街の中にあります。

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豊田大塚古墳です。(直径約30m、二段築成の円墳。5世紀末~6世紀初頭)
どんな状態になっているか知らずに来たのですが覆い屋があるので石室が観察出来そうです。
(発掘中の様子は書籍の写真で見た事がありますが)

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反対側に回ると扉が付いて施錠されていましたが網目の隙間から内部の
横穴式石室が見えました。
(裾部に小型の荒らされた竪穴式石室もあるとのこと)
この豊田大塚古墳は非常に珍しく未盗掘で、その為、500点以上の遺物が
発掘されたそうです。
その話と現状を見て疑問に思うことが・・・未盗掘でありながら、
なぜ、天井石が見当たらないのか?と言うことです。
発掘中に撮影されたと思う画像を書籍で見ても天井石が写っていないのです。
発掘時に取り外し、そのままどこかに移したのか?
それとも石室内部は盗掘されてはいなかったものの天井石は取られていたのか?疑問です。
そうそう、左手上に写る石棒のような物は何でしょう。出土遺物なのでしょうか?


さて、最後に立ち寄った史跡は・・・少し南下して岡崎市中央総合公園の南側にある村上遺跡。

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村上遺跡からは縄文時代早期の押型文土器(9000年程前 岡崎市最古の土器らしい)
から弥生時代(1900年程前)の土器の他、住居跡、炉跡など、
そして古墳など多くが発見されているのだそうです。

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村上遺跡内、村上古墳。(直径約17m、円墳。6世紀以降)
石室はきれいに残っているものの内部は盗掘され何も残っていなかったので
正確な年代などは不明らしい。
岡崎市東部の、この辺り(県畜産センター周辺)には、多くの古墳が知られています。
地名は「丸山町」と言うのですが、この地名も「丸い山=古墳(円墳)」が
多くあったせいかも知れません。

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石室内部の石組み

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遺跡内の草むらにあったコンクリート製の窪み。
これは何なんでしょうか?案内板にも説明はありませんでしたが、もしかして、
これが炉跡、住居跡なのでしょうか・・・

さて、時間もなくなってきたので本日はおしまい。
岡崎市、豊田市周辺にも気になる遺跡が、まだまだ、たくさんあるので、
これから折を見て自転車で探索したいものです。

25日は午後から岡崎市で用事があります。
と言うことは朝から出かけていけば3時間前後は時間がありそうです。
それならばと自転車を積んで出かけることにしました。

車を置いたのは岡崎市と豊田市南部の境に近い豊田市の柳川瀬公園。
豊田市といえば「くさやん商会」さんですが残念ながら今日は予定があるとのこと、残念です(笑)


それでは豊田市の柳川瀬公園から北東に向けて出発。
矢作川を渡り足助街道(県道39号線)を矢作川沿い(すぐに支流の巴川になる)に
登って行きます。

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国道301号線に合流する前に巴川を渡り右岸の道に。
その後、301号線を横切り県道487号線に入ります。
画像は県道487号線、幸海町。
幸海町に今回の第一目的地があります。

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足助街道からは、外れましたが、この道も古道のようで馬頭観音などを良く見かけました。

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「おおっ、ここかぁ~」
憧れの地にテンションが上がります!
ここは豊田市幸海町幸海東(旧、酒呑)字ジュリンナと言う住所です。
旧地名は「酒呑」と書いて「しゃちのみ」、字名はジュリンナという何とも不思議な地名です。
ここにあるのが酒呑ジュリンナ遺跡なのです。
不思議な名前は、ともかく、なぜテンションが上がるのかと言うと・・・
今から約一万二千年前まで続いた旧石器時代から縄文時代草創期への推移の様子を
示す遺跡だからなのです。
言い方を変えれば県内最古の縄文草創期の遺跡、数少ない草創期の遺跡で、
ある程度まとまった資料(遺物)が見つかっている貴重な遺跡なのです。

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酒呑ジュリンナ遺跡遠景(南西側から)
中央の住宅がある辺りに先ほどの遺跡を示す石碑などがあります。
この辺りのごく普通の風景と言えますが・・・
山は鹿、猪、どんぐりなどの食料を与えてくれ、また冬の風を遮る。
田んぼがあることでも判るように水にも不自由しない。
現在の岡崎、足助、そして信州を結ぶ古道の一つ?でもある(古代の道でもあった可能性あり)
なぜ、古代人が、ここで生活したか、わかるような気がします。
酒呑ジュリンナ遺跡の地形を確認したところで登って来た道を下ります。

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国道301号線にぶつかった所で西に曲がり豊田松平インターを過ぎた所で北側の山に入ります。
標識によれば、右手の山裾をたどって行くと目的の遺跡があるそうですが・・・
(奥の山肌、中腹に遺跡があった)

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道が怪しくなってきました。
そう、目的地は「大窪遺跡」と言います。

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自転車を置いて歩いて登っていくと、突然、家ほどもある?巨石が。
巨石は帰りに探索するとして遺跡を目指して登って行きます。

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やっと、案内板がありました。
案内板の右手の草むらに自然に出来た岩陰(穴)があります。
縄文時代早期の生活の痕跡があったということ、
そして遠賀川式土器が見つかったこと、
が注目されます。
遠賀川式土器は九州福岡県遠賀郡の遠賀川から見つかった土器の形式
(最も古い弥生式土器の総称。三河地区では珍しいらしい。豊橋市白石遺跡でも出土例あり)
で九州から伊勢湾周辺まで稲作と共に広まったとされています。

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入口・・・落とし穴のように少し下り、その奥に横穴があります。

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多くの巨石が、うまく重なって自然の空間が出来たようです。
縄文時代から古代人が雨露をしのいで生活していたのでしょう。

余談ながら、近年にも現代人が住んでいたようで(笑)
穴の隅にはビニールや発泡スチロール、マットがしかれ箱入りの蚊取り線香、
パックのオレンジジュースが置かれていました・・・住人と鉢合わせしなくて良かった(笑)
(すくなくとも、つい最近は住んでいない様子でしたけど)

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さて、遺跡を探索して帰り道。
先ほど通ってきた巨石群・・を探索してみます。
巨石群の中でも一番上の大きな石の下は・・・浮石のようです。

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先の写真の反対側は、このようになっていました。
この岩陰で雨露をしのいだ古代人がいたかもしれません。

なお、この巨石周辺を散策する時は足元に十分、注意してください。
草むらだと思ったら石と石の間に隙間があったりして、けっこう危険です。
草が枯れ虫もいなくなる時期まで待ったほうが良いかもしれません。


縄文草創期と縄文時代早期~と言う、古い時代の史跡を見た後は
少し新しい時代?の史跡を訪ねることにします。

※つづく

ここ2、3年でしょうか、輸入工具を扱う専門店などでよく見かけるようになったのが、
ごっつい?ナイフ。

それほど高価ではないものの国産カッター18ミリ幅歯の愛用者の私は気になりつつも、
なかなか購入に至りませんでした。

ところで、この手のナイフ、何と呼ぶのが正しいのでしょう?
いろいろ調べてみるとユーティリティナイフと呼ぶようです。
ユーティリティ?多目的?
どうやらアメリカなどのホームセンターには、いろいろな形状の替え刃が
売られているようなのです。
それらには皮剥ぎ用、フック型(梱包ヒモなどをカット)、ノコギリ状などのいろいろな
用途の替え刃があるようです。
多様な替え刃が日本でも簡単に手に入るようになると良いのですが。

これらのナイフ、良く見かけるブランドはバーコ、レノックス、コバルト、クラフツマン、
スナップオン、シェフィールドなどでしょうか?
実はこれらのナイフなかには、イギリスのナイフメーカー、「シェフィールド社のOEM」で
作られた物が多いようなのです。

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先ほども書いたとおり、気にしながらも、なかなか買えずにいたのですが・・・
そんな時に田爺さんがプレゼントしてくださったのがこれ。
日本ではマニアックな工具メーカーとして知る人ぞ知るドイツのハゼット社の名前入りです。
(ハゼットはドイツ国内ではオートモーティブ系で、かなりの強いらしい)

このクリアケース、樹脂がなかなか肉厚、丈夫で素手では取り出せず、
別のナイフやカッターが必要なのはご愛嬌?(笑)

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ケースに入っている時に既にナイフが引き出されていますが一応、取り出す時に
怪我をしないように歯先にはカバーが付けられています。

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使用状態。
折畳み、ヘビーデューティな雰囲気と言う共通点から
歯の部分の長さは、まったく違うものの電気工事の人たちが使う、
いわゆる電工ナイフにイメージが重なるのは私だけでしょうか?

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いったん折畳んでみます。
HAZET 2157-1と言うのは品番でしょうか?

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歯先の交換には上の小さなレバーを画像のように引き起こします。
この台形状の形をしているのが替え刃。
左右と言うか裏表と言うか入替えるとフレッシュな刃先が使えるようになっています。
でも一枚の歯でフレッシュな刃先が2回しかつかえないということですね。

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替え刃を外してみると○に囲まれた「S」の文字らしきマーク?が見えます。
どうやら、このハゼットネーム入りもシェフィールド社製なのかもしれません。

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右手、下部に見える小さな突起をスライドさせると画像のようにカバーになっている
青い部分が跳ね上がります。
すると内部に替え刃が何枚か内蔵されています。
この画像でみると不用意な角度で開いてしまうと替え刃が落下して危なく思えますが・・・
何とマグネットが仕込まれており磁力で替え刃が簡単に落下しないようになっているのでした。

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背面?から見たところ。
中央の黒く丸い部分に親指を乗せ押し付けることによって力強く、
また安定して作業が出来るようになっています。
画像のように右側にはベルトなどに固定するフックが取り付けられていました。
この辺りの作りも手を抜いておらず、しっかり作られています。

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折畳んだ状態から歯先を引き出すには、何もロックは掛かっていません。
逆に刃先が出た状態から折畳むには画像、左側親指が掛かっている部分を押す必要があります。
不用意に閉まって(折畳んで)握っている手を傷つけないように工夫されているのでしょう。

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OLFAカッター、18ミリ歯との比較。
18ミリ歯のカッターは家庭で普通に使われる9ミリ歯のものより幅が広いだけではなく
強度があり、厚いダンボールや木の板、樹脂板を切るのに安全で力が入ります。
それに言うまでもなく刃先を折れば次々にフレッシュな先端部分が使用できます。
それと今回のハゼット ユーティリティナイフと比べてどうか・・・

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まず、ハゼット ユーティリティナイフ(多くの同形式のナイフも含めて)は
歯の長さがないのが気になります(短い)。
ダンボールなどをカット用マットなどに押し付けて切るには何の不都合も有りませんが
(ただし厚くなると無理)大きな箱状のダンボールを、そのまま切ろうとしたりすると
歯の長さがないのが致命的です。
(上の画像のような角度では力が入らず切りにくい)
この点は18ミリ幅の歯を持つカッターの方が(刃が長いので)断然、作業がしやすいでしょう。
厚い発泡スチロールなども歯の長さがない為にカット出来ません。
これも新しい歯をつけた(まだ折っていない)18ミリ幅歯のカッターなら長い刃が
有効で問題ありません。
正直、私の使用状況であれば18ミリ幅歯のカッターの方が断然、便利なようです。
ユーティリティナイフを活かすのでああれば多様な替え刃が気軽に手に入る事が
条件になるかもしれません。

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でも、この手のユーティリティナイフが工具キャビネットの引き出しやツールケースに
入っていいれば、いかにも「通」、「マニア」に見えて格好いいじゃないですか!!??(笑)

今年、3月、所属するレーシングチームの事務局を若い人達に引き継いでもらった。

それから、しばらくサイクリングなどで忙しく?顔も出していなかったが先日(8月19日)
久しぶりに練習会に参加してきた。


以下、クラブの若い人たちの練習風景。
もう10年若かったら・・・
いや、10年では足りない、もう20年若かったら・・・
うん?20年若ければ何とかなっただろうか・・・(笑)
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※前回からの続き

光明山(標高539.7m)に登りました。
(撮影地点は頂上ではありませんが)
そこからは、こんな景色が見えます。

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↑まずは全景

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↑少しアップすると浜松市市街地が。

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↑更にアップすると浜松の中心に立つアクトタワーが太平洋を背景に見えてきます。
現在いる光明山と浜松市外は直線距離で30キロ程度離れています。

さて、ここ光明山に来た目的をそろそろ、お見せしましょう。

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今回の使用車はリッチー スイスクロス。
でも、それは本題ではなく、その後。
夏草に埋もれてしまっていますが石垣が少し見えます・・・
この石垣は何かというと・・・

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この光明山、山頂近くには寺院が、また、その周辺には数百年を経た立派な森林が
広がっていたのだそうです。
717年、高僧行基が開創した明鏡山光明寺が発展し最盛期には(色あせ見にくいのですが)
画像のように多くの建物が立ち並び賑わったようです。
(門前には茶屋も三件ほど描かれています)

山奥にもかかわらず、賑わった寺院だったのですが昭和6年に発生した火災により寺院、
周辺の森林とも灰となってしまったのだそうです。
千年以上続いてきたのに、つい最近?(千年の歴史に比べれば約80年前ですから)
焼失してしまったとは何とも、惜しまれますね。
今残っていれば、この景色と歴史ある寺院と言うことで人気スポットとなったでしょう。
京の御所の火災を消したと言う、秋葉権現の大天狗も、すぐ南にある光明寺の火災を消
してはくれなかったのが残念です。
(前編、参照)

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裾野の村から登ってくると、まずは、この石垣(寺院東側)が目に入ってきたと思われます。

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夏草に埋もれた階段と両側に石灯籠。
撮影している背後の崖のせり出すように茶店が並び、この階段を登ったところに
仁王門があったと思われます。

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燈籠も無残な姿に。
残念ながら年代は確認出来ず。

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仁王門をくぐり、この石段を登ると正面に本堂、右手に鐘楼があったはずです。
(更に右手奥には神前)

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石段を上から見たところ。
現在立っている場所が本堂の前で、この石段の下に仁王門。

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敷地北東側から南西側を見る。
ここに本堂が建っていたようです。

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敷地のあちらこちらには往時を偲ばせる構築物の跡が。

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ずっと山道を登ってきてお参りを済ませた人々の目に写ったであろう遠州の景色は・・・

以前は遺跡保存会の方たちで綺麗にされていたはずの、この光明山遺跡ですが
最近は、あまり訪れる人もないようです。
(熱心なリーダーがいなくなってしまったのか)
この景色と遺跡、そして自然があるのですから適度に活用できると
素晴らしいと思うのですが・・・

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