コルサの毎日がヒルクライム

2014年05月

大和の古道、柳生街道(滝坂道)を登ってきました。
ここからは若草山に向かいます。

ちなみに今回、走った区間の周辺には東大寺から登ってくる春日奥山ハイウェイ
そして高円山ハイウェイがありますが(若草山に至る自転車、歩行者共有区間を除いて)
自転車通行禁止ですからサイクリングプランを立てる時には注意してください。

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山に向かう道は未舗装ですが凹凸、轍もほとんどなくミニベロでも大丈夫。
MTBではなくともランドナーなら十分楽しめるでしょう。

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いったん下って登りつめると人気スポット、若草山。
奈良の街並みが一望できます。

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ただ、私がミニベロで未舗装路を苦労して?登ってきたのは若草山から
景色を眺めるだけが目的ではありません(笑)
目的は鶯塚古墳を見ること。
鶯塚の名前は清少納言の枕草子に記されている「うぐいすの陵」に
ちなんでいるとのこと。
東大寺の背後にあり奈良の街を一望する若草山の頂上と言う好立地?に古墳を
作ることが出来るのは只者ではないはず。
誰が葬られているのでしょうか・・・

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若草山にもシカがいっぱい。
今の時期は毛が生え変わるのか毛並みはこのシカに限らず、
あまりきれいではありませんでした。

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ミニベロ+ブルックス革サドルと言う組み合わせで乗り心地が良くないものの
なんとか楽しめる未舗装路で次の目的地に向かいます。
(ハイカー、観光の車も通るので安全運転に注意)

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東大寺や春日大社の裏手に続く春日山原始林なのに、なぜか、その名も地獄谷国有林!
帰ってから調べてみると・・・
「室町時代には流行り病があり感染を恐れ病人を深い谷に捨てた」
「その様子が地獄のようだと地獄谷と呼ぶようになった」

その山中にあるのが春日山石窟仏(かすがやませっくつぶつ)
東大寺大仏殿を建てる際に石材を掘った崖に掘られているとのこと。
山中に、このような覆い屋が作られ金網越しに見ます。

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地蔵菩薩、大日如来、阿弥陀如来など合計18の石仏があるとされています。
もともと凝灰岩質の柔らかい石であること、
平安時代(1155年を表す年号が彫られている)の古い彫刻ということで風化が激しく、
おいたわしい姿の仏像もあります。

さらに少し離れたところには地獄谷石仏群もあるそうですが道も険しいらしいのと
帰路の体力が不安になってきたので残念ながらあきらめます(笑)

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柳生街道、石切り峠・・・

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本来の柳生街道、石切り峠は、この画像の右手から上がってきて奥に抜ける
道かもしれません。

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石切り峠と言えば有名な峠の茶屋ですが・・・
今日は既に閉まっていました。
この茶屋の歴史は古く柳生街道を往来する武芸者が代金代わりに置いて
行ったという槍や刀があるそうで草餅が名物。
楽しみにしていただけに残念でした・・・

柳生の里まで、ここからも柳生街道は続きますが自分は、ここまで。
柳生街道から離れます。
(柳生街道をたどれば見どころがたくさんあるのですが)

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石切り峠から柳生街道を離れ山里を進むと光仁天皇、田原東陵。

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さて、あとは水間峠の旧道を超えて針テラスまで帰るだけ、でも峠の旧道が大変そう・・・
と思っていたら「とても残念ながら 峠の旧道入口は通行禁止」仕方なく
トンネルの新しい水間峠(水間トンネル)を越えて車まで戻ることにしました。
(いつもは通行禁止の看板も、なぜか見落とす???ことが多いのですが)

針テラスまでは、結構なアップダウンもありヘロヘロになって車に戻りました。
これで、旧道の 峠を登っていたら・・・


※今回の関西サイクリングツアー?はすべて終了。

奈良の春日山近くから北東、柳生の里を結ぶ古道が柳生街道です。
その中でも春日大社の南側、新薬師寺、白毫寺のある地域から能登川沿いに
石切り峠に向けて登っていく区間が滝坂道です。
この区間は高低差があり雨が降ると滝のように水が流れるということで
滝坂道と呼ばれるようになったようです。

しかし、険しいながらも歴史があり石仏なども多いこの道は現在、
東海自然歩道になっており、その中でも、かなりの人気のルートのようです。

行程上、効率よく回る為に自転車を持って行った自分が言うのもなんですが、
このルート、土日祭日などには自転車は持ち込まない方が良いでしょう。
(もちろん自転車は引いて行ったしハイカー優先を心掛けた)

クルマを置いたのは滝坂道からはずいぶん離れた?
奈良市針町 名阪国道 針テラス(大きな道の駅)駐車場。

ここからアップダウンの多い道を春日大社南部方面に向けて走っていきます。

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交通量は少なくのどかなものの意外に、きつかった一台峠を越えます。
一台峠を登り始めた集落から下り切った集落までに出会った車は三台(笑)
それはともかく峠の名前の由来は・・・不明。

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以前も立ち寄った春日宮天皇 田原西陵。

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奈良へと向かう多くの車が通る広い道から少し外れて鉢伏峠へ。

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峠からは途中に、ごく小さな集落があるだけの裏道で、ほとんどが急な下り。
途中、茶畑越しに奈良の街並みを望む。
ここ(画像左端)を道は直滑降しています。反対方向から登ってこなくてよかった(笑)

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下りきり宅春日神社(春日神社ではない)に立ち寄り、いよいよ柳生街道(滝坂道)へ向かいます。

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いよいよ舗装も途切れ古道らしくなってきました。

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滝坂道のほとんどは石畳になっています。
石畳は、もともと江戸時代初期、奈良奉行が作らせたものとのこと。

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しばらく登っていくと道に岩が・・・
よく見ると岩の中ほどの高さ、左を頭にした仏様が。
これが「寝仏」、彫られているのは大日如来像らしい。
もともとは、もっと高い所の岩に掘られたものが崩れ落ちてきたようです。

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今度は「夕日観音」、ただし観音様ではなく弥勒仏とのこと。
道に看板はあるものの道から、ずいぶん上の崖にあるうえ風化しているのか
彫りが浅く、見つけにくいので注意。
(道から一段登ってズーム望遠で撮影)

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そして「朝日観音」、こちらも少し上の崖に掘られています。
高円山からの朝日が真っ先にあたることから名付けられたという
朝日観音ですが中央は弥勒菩薩、左右は地蔵菩薩なのだそうです。
なんと文永二年(1265年)に掘られたもので夕日観音と作者は
同じと考えられているらしい。

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荷物を付けたダホンを押していきますが・・・この後、荷物は背負うことに。
(たいした荷物も入っていないのですが荷物を付けたままだと重心が高く押しづらい)

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役に立たない?自転車を押して歩くのは結構つらく・・・
でも古道の雰囲気があり気持ちの良い道が続くのが救い?(笑)

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そしてトイレや休憩所のあるところまで来ると首切り地蔵がありました。
その名の通り首のところで、スパッと切れています。
これは剣豪、荒木又衛門が試し切りしたという伝承がありますが・・・
柳生街道らしい話ではありますが長い間に自然に、ひびが入ったか運悪く
倒れることがあって割れてしまったのでしょう。

首切り地蔵から少し登ると道が交わっています。
しばし迷っているとMTBが登ってきて道を教えてくれました。

※つづく

高槻市の古墳巡りを終えて急いで移動、日が暮れるまでに、
いくつかの史跡を回ることにします。

行燈山古墳(崇神天皇陵)の近くに車を置かせてもらい夕暮れの道を走り出します。
初めていくところばかりですが、この辺りは、よく走っているので土地勘はあります。
日暮れまでの短時間、効率よく回ることにします。

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まずは穴師座兵主神社(あなしにいますひょうずじんじゃ)(大兵主神社ともいう)

歴史街道として人気の「山の辺の道」から更に東側の山に
入ったところにあります。
この神社の説明板によれば
「ご創建 崇神天皇60年」、
「元禄五年には正一位の宣旨を賜った最高の社格を持つ大和一の古社である」
とのことです。

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穴師座兵主神社から少し山の辺の道方向に下ると相撲神社があります。
建物は小さな祠があるだけです。

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ここは国技、相撲の発祥の地とされています。
約2000年前、穴師座兵主神社の神域で垂仁天皇勅命展覧相撲がノミノスクネ、
タイマノケハヤによって行われたとされ相撲発祥の地になっています。

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境内の林の中には土俵もあります。

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相撲神社近くから見た夕暮れの纏向遺跡方面。
右端は渋谷向山古墳(景行天皇陵)

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同じく相撲神社近くにある景行天皇纏向日代宮跡の石碑ですが・・・
「景行天皇の宮がかつてこの辺りにあった」とするだけで
調べてみても、どうも具体的な証拠はないらしい。
(垂仁天皇纏向珠城宮跡の石碑も近くにある)

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大和神社(おおやまとじんじゃ)まで北上し神社の入り口北にあるのが
馬口山古墳(ばくちやまこふん)。
全長約110mの前方後円墳で古墳時代初期3世紀後半の築造と考えられているらしい。
左手が後円部。

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馬口山古墳の墳丘は畑になったり果樹が植えられています。
畑には円筒埴輪片と思われる小さな破片も転がっていました。

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すでに18時30分を過ぎようとしています。
急いで旧道(かつての上ツ道「かみつみち」)を停めた車に向かっていると
見えてきたのは矢矧塚古墳(やはぎづかこふん)
この画像は後円部分のみ。

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矢矧塚古墳全景。
全長約102mの前方後円墳とのこと。
ほぼ画像いっぱいに古墳が写っていて画像左手が後円部になります。
現在は全体に柿の木が植えられていたりするように、後世の開墾で、
かなり形が変わってしまっているようです。
そういえば確かに後円部の高さも低すぎるように思える・・・

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クルマに戻る際に偶然見つけた長岳寺の五智堂(重要文化財)
山の辺の道近くに立つ長岳寺からは西に約800mほど離れており(長岳寺飛び地に立つ)
以前見逃していたもの。
なぜ長岳寺から約800mも西に離れたところに立っているのか?
立っているのが山の辺の道より時代が下る上ツ道に近い所・・・
人々の往来が山の辺の道から上ツ道に移行した?
(素人の妄想・・・)

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19時近く、やっと車に戻り今日の探索は終了。

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新池埴輪製作遺跡から次に向かったのは名神高速道路沿いの山中にあるらしい
闘鶏山古墳(つげやまこふん)
ここは数少ない未盗掘古墳の一つで今行っても未盗掘だった副葬品が見られるわけでは
ありませんが、ぜひ行ってみたかった古墳。
(以前、ファイバースコープで内部を調査したところ、鏡、太刀、遺骨などが残されているのが確認された)

ところが古墳にたどり着くはずの名神高速道路下の道は通行止め、回りこもうと
画策するもうまくいかず。
(闘鶏山神社のすぐ北に闘鶏古墳はあるらしいのですが)

結局、闘鶏野神社(つげのじんじゃ)であきらめる(笑)
闘鶏野神社は創建年代不明ながら古くから高槻市氷室辺りの氏神として
崇敬を集めたらしい。
ちなみに闘鶏を「つげ」と読むのは鶏鳴(けいめい)が神託を「告げる」ことに
由来するのだそうです。


闘鶏野古墳をあきらめ、さらに東にある安満山古墳群(あまやまこふんぐん)を
目指します。
高槻市安満周辺の淀川沿い、三島平野は、この辺りで最初に米造りが
始まったとされる安満遺跡(弥生時代~)があります。
その安満遺跡を見下ろす安満山に存在するのが安満山古墳群なのです。
現在は高槻市公園墓地になっていますが造成に先立って行われた調査で50基前後の
古墳が見つかったのだそうです。
多くは6世紀後半から7世紀の築造と考えられていますが4世紀にさかのぼる
古墳も確認されています。
50基前後あった古墳の中で2基ほどの古墳が簡単に見学できるようになっています。

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安満山A1号墳。
直径約12mほどの円墳で調査時すでに天井石などはなくなっていたそうです。

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安満山A1号墳からは大阪の街が一望できます。

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更に高槻市公園墓地内の急坂を登っていくと安満宮山古墳がありました。
なにか異様な雰囲気ですが・・・

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手前は説明板で説明板の周囲には、この古墳で発見された重要な5枚の銅鏡の
レプリカが取り付けられています。

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ガラスシェルター内には当時の埋葬施設の精巧なレプリカが展示されています。

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安満宮山古墳は一辺約20mほどの墳墓とされています。
この古墳では高槻市教育委員会文化財課作成のパンフレットをもらえるように
なっていますが、その文面が「なかなか」なので、このあとコピーしておきます。

パンフレットには235年の年号(魏の年号、青龍三年)を持つ鏡のほか3枚の鏡を
「魏から卑弥呼がもらった銅鏡100枚のうちの一部」
とし下記のような文面があります。


「卑弥呼を映した鏡」
「邪馬台国の重要な外交ルートである淀川を一望する安満宮山古墳。
 ここに眠る人物は、眼下に広がる安満遺跡を拠点とするこの地の王で、
 使節団の有力な一員として活躍し、これらの貴重な鏡を女王・卑弥呼から
 直接、授けられたのでしょう」

どうです、すごいでしょう?
疑うこともなく邪馬台国は畿内にあった前提、更に青龍三年の銘を持つ鏡(他、合わせて3枚)
を魏から卑弥呼がもらった鏡として、この古墳に副葬されていたストーリーを作っています。

確かに非常に魅力的なストーリーではありますが・・・?(笑)

18日は大阪のフリマに顔を出したので、その帰り高槻市、茨木市周辺の
古墳、遺跡を巡ることにしました。

まずは近年、「いましろ 大王の杜」として整備が行われた
今城塚古墳(いましろづかこふん)

宮内庁では継体天皇陵を茨木市の太田茶臼山古墳としていますが考古学的には、
ここ今城塚古墳が真の継体天皇陵として支持を集めています。
その為、「宮内庁の比定の誤りが原因で発掘調査が可能な非常に貴重な古墳」
とされています。
(天皇陵、陵墓参考地は宮内庁が管理し立ち入り禁止なので調査、発掘が出来ない)


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今城塚古墳には今城塚古代歴史館という展示施設もあります。
(駐車場も完備)
歴史館は入場無料ですが、充実した展示で楽しめます。

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前方部から後円部(右手)を見たところ。大王墓にふさわしく巨大な古墳です。
今城塚古墳は古墳時代後期、6世紀前半の築造と考えられ墳丘長約190mの
前方後円墳です。
先にも書いた通り築造時期、規模、出土品などから、
ここが真の継体天皇陵と言う説が有力です。

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市民の憩いの場として親しまれている今城塚古墳。
周辺だけでなく墳丘、墳頂までも自由に散策できるようになっています。
(自転車の乗り入れは禁止)

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ここからは祭祀の場も見つかっています。
レプリカとはいえ200点余りの復元埴輪で祭祀の様子を再現しています。

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こちらは今城塚古墳の西方にある宮内庁が比定する継体天皇陵、太田茶臼山古墳。
古墳時代中期、5世紀前半~中頃築造、全長226mの前方後円墳です。
考古学的年代と継体天皇の没年時期とは100年前後の開きがあるとされています。
(継体天皇陵とは言えない)
とはいえ200mを優に超える巨大古墳です。
大王(天皇)クラスの豪族の墓なのは間違いありません。

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次に訪れた、怪しげな建物は・・・

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中に入ると窯跡がそのまま保管、展示されていました。
この遺跡は先に見てきた今城塚古墳や太田茶臼山、そのほか周辺の
古墳の埴輪を焼いたとされる「新池埴輪製作遺跡」でした。
(ここも入場無料でした)

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西暦450年ころから約100年間にわたって埴輪を焼いていたとされる
新池埴輪製作遺跡。

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みつかったのは窯跡だけではなく建物跡も見つかりました。
ここは復元された埴輪製作工房。
(職人たちが住んだであろう住居跡も見つかっています)
西暦550年頃、大型古墳が造られなくなるとハニワ造りも終わり、
この遺跡は土に埋もれ近年、住宅地に造成されるまでは雑木林になっていたようです。

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