コルサの毎日がヒルクライム

2014年11月

11月8日は北国街道の峠を、いくつか登りに行ってきました。


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この峠は「柴田勝家が大改修した」と先に書きましたが峠の案内板を読んでいると
古い峠が東、100mほどにあるとのこと。
尾根伝いに行くらしいのですが・・・
こんな所をまずは登らなければなりません。
でも、もちろん行くことにします(笑)

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先ほどの階段を登れば整備された道?がありました。

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すぐに湯尾城跡発見。

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湯尾城跡を過ぎると、湯尾峠の古峠がありました。
ここは、かつて木曽義仲が一部改修したので義仲道とも呼ばれていたそうです。
画像、右側が南、今庄町側、左手が北(湯尾地区側)

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湯尾峠の古峠を東側から見たところ。
画像右手(湯尾地区側)二本の杉の木の右手に道の痕跡が見受けられます。

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北側には険しく荒れているものの道跡らしきもの(画像)が確認できましたが
南側の道の痕跡は明確ではありませんでした。

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湯尾峠を北に(湯尾地区側)下ります。
こちらも立派な石垣が作られています。

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高く積み上げられた北側の石垣。

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湯尾峠道、北側の入り口。


ここから湯尾地区を抜け国道365線に出て木ノ芽峠(木ノ芽峠トンネル)登り
返すことになります。


※つづく。

11月8日は北国街道の峠を、いくつか登りに行ってきました。


木ノ芽峠を越え向かうつもりだった栃ノ木峠は全面通行止め。
予定を変更して国道365号線を北側(越前市方面)に下り北国街道の小さな峠を
探しに行くことにします。

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国道を下っていくと今庄町役場前にSL発見。
これはかつて北陸本線を走っていたD51。
北陸本線の難所(急勾配)では重連、三重連で貨客をけん引していたとのこと。

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今庄町の北側のはずれから、これから探す峠方向を見たところ。

国道は川沿いに正面の山をおおきく迂回し越前市方面に向かいます。
北国街道の古道は日野川沿いに遠回りするよりも、この山越えを選んでおり、
これから、その峠を探しに行くつもりです。
その峠、峠道は、いったい・・・

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山裾を進んでいきます。
画像ではわかりませんが、すぐ右を北陸本線が走っています。

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やがて湯尾峠登り口の案内板。
案内板も出ていて、これは楽勝?
(右手に線路がわずかに見えます)
写真を撮っていると山からハイカー三人が下りてきました。
すると「クマの痕跡があるので注意して!?」とのこと。

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道は、押して登っていくのに特に問題なし・・・
ただし、いきなりクマのウン○を発見。
過去に二回、山道でクマに遭遇したことのある自分も、ちょっとビビる(笑)

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登り始めはやや急だったもののすぐに道幅もあり良い道に。

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やがて立派な石垣も。
城跡があると聞いていたので城の石垣かと思ったがそうではないらしい。
(後で調べると城跡は、もう少し東にあった)
峠の案内板によれば1578年、柴田勝家が峠を大改修したとありました。
この石垣は、その時のものでしょうか?

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湯尾峠(約200m)南側から北側を見たところ。

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おなじく湯尾峠。
東側から見たところ。
左手が登ってきた今庄町側、右手が湯尾地区側。
かつて、ここには4軒の茶屋があり大いに栄えていたとのこと。
(峠にある孫嫡子神社のお札を販売していた)

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峠からは湯尾地区側が見えています。
むこうの山裾には現代の大動脈、北陸自動車道が走っており今庄インターもあります。

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これは芭蕉の句碑。
奥の細道を旅した際に、この地で詠んだ句なのだそうです。
また明治天皇も北陸巡行の折この峠を越え休憩したとのことで石碑がありました。


正直、小さな峠であまり期待していなかったのですが風情、歴史、景色と
名峠といっても良い峠でした。


※つづく。

11月8日は北国街道の峠を、いくつか登りに行ってきました。


まずは福井県敦賀市と南越前町の境にある木ノ芽峠を目指すことにします。
国道365線、板取宿付近に車を停め自転車で走りだします。
古道ではありませんが峠まで効率の良いルートということでスキー場の中を
通っていく道を登っていきます。
(本来の古道は今庄の南から国道を離れ南今庄、二ツ屋を通るらしい)

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結構な坂もありますが舗装されているので、どんどん標高を稼ぐことが出来ます。

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振り返れば通り過ぎてきたスキー場が。

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そして木ノ芽峠の茶屋が見えてきました。

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数百年前の風情、そのままの峠の茶屋。
茶屋といっても「旅人相手の飲食店的なものではなく」峠越えの大名に茶を供するほか、
「福井藩の南の守りとして関所的な役割」を担っていたらしい。

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前川氏(平家の末裔らしい)という当主が代々、今も峠道を守って住んでおられる。
番犬に見送られて南側へ峠を下ります。

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遠くに集落が見えます(画像では無理ですが)
新保か葉原あたりでしょうか?
敦賀の街に至るには、もう一山越すことになるようです。

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峠道(木ノ芽古道)は思った以上に厳しい道でした。
当初、南側の峠道を登るつもりでしたが・・・・
最終的に南側を下りルートに選んだのは正解でした(笑)

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峠道には、このような石が。
これは落石ではありません。
これは休石(腰掛け石)と呼ばれるもので荷物を担いだまま腰かけて
休めるよう置かれた石とのこと。

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木ノ芽古道を下っていくと、やがて国道476号線に出ます。
当初は古道をそのまま下り敦賀側最初の集落、新保(しんぼ)に立ち寄るつもりでしたが・・・
この後の行程を考えて国道、木ノ芽 峠トンネルを通り国道365線に戻ることにしました。

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木ノ芽峠トンネルを抜け国道365線を曲がると栃ノ木峠に至る道なのですが・・・
なんと全面通行止め!
(右手が木ノ芽峠トンネル、敦賀方面、左の通行止が国道365号線、琵琶湖方面)
ここから栃ノ木峠、椿坂峠を整備された国道を辿って簡単に登るつもりでしたが
予定が大幅に狂ってしまいました。

そこで国道365号線を北側(越前市方面)に下り北国街道の小さな峠を探しに
行くことにしました。

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先ほどの通行止めから10キロ程度下り、今庄町(今庄宿)の北のはずれ。
国道365線、画像ではわかりにくいのですが北陸本線も並行して走っています。
正面の山を北陸本線はトンネルで国道は川沿いに大きく右に迂回して越前市方面に
向かいます。
北国街道の古道も日野川沿いに遠回りするよりも、この山越えを選んでおり、
これから、その峠を探しに行くつもりです。
その峠、峠道は、いったい・・・

※つづく

同名の現行型が販売されている為、今となっては「旧型」マイティツアーと
書かないといけませんが、これから数回にわたって
杉野マイティツアー クランク(チェーンホイール)について
見ていきたいと思います。

今回、取り上げる杉野マイティツアー クランクは杉野が1972年に販売を
開始したというチェーンホイールです。

グラフィック社発行、中堀剛氏著の「私が愛した自転車パーツ」からマイティツアークランクに
ついて引用させていただくと
「杉野が世界最強のツーリングクランクを目指して作った、PCD110mmの5アームクランク。
 ショートアーム以外はマイティコンペと共通だ」
と説明されています。
(BBもマイティと共用)

このマイティツアーチェーンホイールは高価だった為、マスプロ車にはほんの
わずかしか採用されず
同じく高価だったのと最小インナーが34Tということで日本の山坂の多いサイクリングには
少々厳しいこともあり一般サイクリストにもあまり受け入れられなかったようです。
(より小さなインナーがつくプロダイナミック、TAツーリストなどの方が魅力的だった?)
またクランクは非常に作りが良く高級感があったもののギヤ板のデザイン、質感が
今一つだったのも・・・

●当方の間違いなど、お気づきの点がございましたら遠慮なくご指摘ください。
もちろんの情報の御連絡大歓迎です。よろしくお願いいたします。


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今回の記事の為に手持ちのサンプルを探してみました。
右の3点がマイティツアークランクで左端の1点は参考の為に用意した(杉野製5アームつながりで)
スーパーマキシィです。

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ギヤ板も、ある程度見つかりました。
なお、マイティツアーには「K-Type」という上記の画像とは違うパターンのタイプも
あるのですが現物サンプルも参考画像も残念ながら見つかりませんでした。

さてカタログを調べて見ると用意されていた歯数は時代ごとに少しだけですが
違いがあります。

1973年頃の資料では
34、36、40、42、44、45、48、50、52Tの9種類(34~52)
(45以外の奇数歯なし)

1976年頃の資料では
34、36、40、42、44、45、46、48、50、51、52、53Tの12種類(34~53)
(46、51、53の3種類が追加される)

1982年頃の資料では
34、36、39、40、42、44、45、46、48、50、51、52、53Tの13種類(34~53)
(更に39が1種類が追加される)

ツーリング用に開発されたクランクなのに最初期から52T(のちに53T)まで
用意されていたとは意外です。
(健脚サイクリスト向け?それともロード兼用の使用も視野に入れていた?)

そういえば1982年頃には39Tも用意されていますが、これは53あるいは52などの
アウターと組み合わせて53-39Tなどと当時の標準的ロード用ギヤ比として
使われていたのかもしれません。

また一説には33Tが限定で少数販売されたという情報も聞きますが未確認です。
当時ものの(1980年前後頃?)、杉野製33Tをお持ちの方、譲ってください・・・
じゃなかった(笑)、情報をお待ちしております。
また最初に書いた「K-Type」リング歯数のバリエーションについては、全く不明です。


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今回サンプルで用意できたマイティツアークランクについて見ていきましょう。
今回のサンプルは、クランク長の違いで3点用意しています。

右から左へ171ミリ、165ミリ、168ミリになっています。
ちなみに168ミリに関しては前述の中堀氏が古い(20年ぐらい前だったか?記憶が・・・)
ニューサイクリングの記事に「168ミリは未確認」と書かれたことから
「幻?の168ミリ」と騒がれたこともありました。
実際に販売数が少ないのは事実のようです。

クランク長に関しては当初165ミリと171ミリでスタートし、のちに168ミリが
追加になったのではと私は考えています。(ほかの考えも後述します)
その後、クランク長が一部見直され165、167.5、170、172.5、175ミリと5種類のクランク長が
用意されたとカタログで確認できます。

(1973年版カタログ・・165、171の2種類)
(1976年版カタログ・・165、171の2種類)
(1978年版カタログ・・165~175の5種類「2.5ミリ刻み」)

マイティツアークランクの発売は1972年とされています。
それと上記のカタログ情報をあわせて推察すると・・・
1972年発売から1973年版カタログの間は、わずかで例えば「72年に仮に168ミリが
あったとして73年のカタログ制作時期には、すでに廃止されたとは考えにくい」

1978年版カタログには2.5ミリ刻みになっているので、この時期(これ以降も含む)には
168ミリは廃盤になっているはず。
(メーカーに以前に作った168ミリの在庫は残っていたかもしれないが)

1976年のカタログには165、171ミリの2種類だけなので、ここから考えると1976年から
1978年の間に168ミリが追加(および廃版?)された可能性が高いのでは・・・

またはカタログに載ることなく限定的に販売されていたのかもしれません。

もちろん168ミリが掲載されたカタログが出てくれば一挙に解決・・・
(あくまで私の妄想です。ほかにも検討すべき要素は考えられますが)


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マイティツアークランクの裏面。
右から171、165、168ミリ。
サンプルの製造順ですが私の推測では一番右の171ミリが上記の通り1973年製、次が165ミリ、
そして、この中では一番新しいのが168ミリだと思っています。


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手前(画像下)から奥(画像上)に168、171、165ミリになります。

手前の168ミリには溝が彫られています。
また171ミリには「48ー7」の刻印があります。
これはよく知られているように製造年月日で昭和48年、1973年7月に製造され
た初期の製品だということがわかります。
ほかのクランクはと言いますと168ミリは左右とも「H-9」、165ミリは右「I-5」、
左は「G-10」となっています。
これが製造年月を表しているという意見もありますが・・・
例えば左の「G-10」は昭和でも西暦でもおかしいですよね。
またアルファベットは通常、製造月を表す(A=1月、B=2月、C=3月、~)のですが165ミリの
右のように「I」(アイ)は数字の1と間違いやすいので製造月を表す時にはふつう使いません。

また参考サンプルのスーパーマキシィは片倉シルクキャンピングにアッセンブル
されていたものなのですが・・・
完成車の年代が1980年前後と思われるのですが組まれていたクランクは
右「J-6」、左「J-8」でした。
以上からするとクランク裏の刻印数字が製造年を表すというのは整合性に
欠けると思われます。
(万一、後年どこかでクランクがすり替えられていなければ)

※つづく。

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クラシックカーフェスタ IN 尾張旭2014に展示する為、
作成したもの。

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