コルサの毎日がヒルクライム

2018年02月

もともと、自分たちで予定していた古墳、史跡巡り
(自分たちは歴史ミーティングと呼んでます)
に発掘説明会が入ってきて毎週のように出掛けています。
それは嬉しいのですが・・・記事のアップが追い付かないという
嬉しい悲鳴状態になっています(笑)

以前、お伝えしたように豊橋市牟呂町の坂津寺貝塚の発掘説明会(2/18)
に参加しました。

説明会の後は・・・
せっかく牟呂町に行くなら周辺の遺跡を回ろうという事で
「豊橋市海浜部の重要古墳を見学」
というテーマで回ることにしました。

これは古墳時代後期、蒲郡市から豊橋市そして田原市の海浜部に
近いところに古墳がいくつも作られていますが
(首長墳、有力古墳の変遷を表すと思われます)
その中で豊橋市海岸部の古墳を見学しようというプランです。

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まずは牟呂町の三ツ山古墳。
ここは坂津寺貝塚から目と鼻の先、歩いてちょうど良い距離です。
全長34mの前方後円墳で6世紀初め頃の築造と考えられています。

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三ツ山古墳は公園として整備されており後円部には忠魂碑、前方部
には滑り台が作られています。
(画像には写っていませんが後円部頂上に大きな忠魂碑が建てられています)
ここに葬られている豪族も子供たちの声に目を細めているのでは
ないでしょうか?

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次に訪れたのは同じく牟呂町の市杵嶋神社古墳。
その名前の通り現在は神社になっています。

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社殿の裏側から見た市杵嶋神社古墳。
ここは古墳時代前期の前方後方墳(前方後円墳ではない)と
言われています。
墳丘のほとんどは貝塚に築かれています。
(画像で白く見えるのは、ほとんど貝塚の貝殻)
手前の社殿の下が前方部で奥が後方部のようです。
石垣や周辺には古墳の石材らしきものは見当たりませんでした。


この後、豊橋市海浜部の重要古墳というテーマなら牟呂大塚古墳
そして磯部大塚古墳を訪ねたかったのですが
牟呂大塚古墳は社殿で墳丘もほとんどわからない、
磯部大塚古墳は住宅地になって滅失している
と聞いたので今回はあきらめました。

※その2に続く
※間違いなどお気づきの点がございましたら遠慮なくご指摘ください。

24日は名古屋の古墳を探索に行きました。
午後はタキちゃんが住む周辺の古墳が目的だったので、タキちゃんに
案内してもらうことにしました。

ということで古墳巡りのあとは?・・・
日本有数のデローザコレクター?タキちゃん邸が新築なったという事で
訪問してみました。

新築アパート1階、2階の賃貸2部屋分スペースを
(タキちゃんはアパート数棟を経営する大家さんなのだ)
を設計変更、1軒として広く使い、その2階をほぼコレクション部屋
として使うという贅沢な住まい。

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昼間、古墳を案内してもらった為に、今度は、ほとんど興味のない自転車
の話を、おとなしく聞く羽目になった古墳女子・・・かわいそう?(笑)
(まだ古墳巡りのスタイルのままでコートもマフラーもそのままで・・・)

反対に若い女の子にテンションが上がり説明に、やたら力が入るタキちゃん(笑)

タキちゃんのコレクションのスタンスは
「自分が初めて買った1977年以前のモデル(デローザもカンパも)
 には手を出さない」

「デローザは全て新車で買う(旧車でも未使用車なら、もちろんOK)」

「ロードレーサーのみでピスト、シクロクロス、MTBなどには手を出さない」

という事らしい。

現在手元にあるデローザは完成車16台!!!とフレームで保管している
デローザ3台!!!の合計19台!!!

そのうち新車でないのは、たまたま新車で入手できなかったモデル、
1台のみなのだそうだ。

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こちら側がデローザコレクション部分。
タキちゃんが初めて買ったという1977年製のデローザを筆頭に
2016年までの中心的なモデルが、ほぼ全てそろっています。
(スチール、アルミ、カーボン各時代、60周年の限定チタンフレームモデルなどなども)

デローザと合わせてカンパコレクターでもあるタキちゃんは1977年の
6段コンポ時代(リヤスプロケット)から7段、8段、9段、10段、
11段そして電動コンポ11段までカンパの主要な部品も、ほぼ所有、
その部品ももちろんデローザフレームにすべて組み込まれ稼働状態に
なっています。

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この部屋にはタキちゃんのパーツ、用品コレクションも。
壁の一面をガラス戸付き棚に特注してパーツコレクションもびっしり。
タキちゃんはカンパの細々とした補修パーツの多くもコレクション。

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デローザだけではなくコルナゴやその他の自転車コレクションも、
どっさり。
画像ではわかりにくいのですが壁紙は薄いピンクに貼られていました。
これは、もちろんジロデイタリアのリーダージャージ、マリアローザの
ピンクを意識したもの(笑)
また、あちこちに写る木製の棚も自転車保管展示用の特注品で油に強い
処理をしたものらしい。

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奥はルック、手前は・・・?
ノーマークのこのフレーム、実はカンパニョーロ社がサイクルショーなどで
部品展示を行う為のもの。
その為、フレームが目立ち過ぎないよう地味な色で塗られノーマークなのだそうだ。
(イタリア サルト社と言う会社製らしい)

※タキちゃんコレクション、とりあえず終わり・・・ いやー凄かったですね!
 ちなみに、これらの自転車総額は〇千万円分はいくよねぇ~多分(笑)

「その1」では古墳、中心にご報告しましたので「その2」では
古墳以外の史跡をご報告します。

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今回は「三河天平の里資料館」を中心に関連する史跡を巡りました。
まずは、船山第1号墳に近い三河国の総社(豊川市白鳥町)
この神社には58の神社がまつられているそうです。
その理由は・・・毎月の初めに国司が国内の神社をすべて参拝するのが
習わしだったのですが広い国内に分散する神社を全て参拝するのは大変、
という事で国内の諸社をまとめて総社としたのだそうです。

そして、近年の発掘調査で周辺からは巨大な建物を示す柱穴などが
多数発見され三河の国府も、この場所だったと考えられているそうです。

この後、訪ねる国分尼寺、国分寺、そして、ここ国府、その3か所が
揃って場所がわかるのは全国的に見ても貴重なことなのだそうです。
後の時代にも東海道、東海道の脇街道(姫街道)が通り、海にも
近い(海路、海運)など、便利で重要な場所だったのでしょう。

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続いて訪れたのは「三河天平の里資料館」、ここは国分尼寺跡に隣接
されて建てられた資料館です。
(資料館の画像は取り忘れました・・・)
画像は国分尼寺の再建された中門。
(画像は以前に撮影したもの)

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国分尼寺の金堂跡。
礎石は復元で本来の礎石は地下に、そのまま埋められ保存されて
いるとのこと。
ここにかつて立派な仏様が祀られていたと思うと感慨深い。

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国分尼寺から国分寺は、すぐ近くなので資料館の駐車場に車を
置かせていただいて歩いて国分寺を見に行きます。
ここにかつての国分寺と現在の国分寺がありました。
(周辺は何度か発掘調査されて南大門跡なども確認されています)
そして、何軒かの民家もあったはずですが・・・
現在の国分寺は画像の右手に移転していました。
また、ここにあった何軒かの民家も移転されたようです。
未確認ですが・・・国分尼寺と同様に国分寺跡も公園化されるの
かもしれません。
画像の左端の林に、かつての塔があったとのことです。

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七重の塔跡。(聖武天皇の詔には七重の塔を建てよ、とある)
礎石と思われる大きな石が2個残っています。
(石の位置は塔の礎石跡そのものではなく動かされているらしい)
この右手にもかつて建物が建っていたはずですが・・・
なくなっていました。
やはり歴史公園化?されるのでしょうか?
だとしたら・・・豊川市かなり頑張ってます?(未確認ですよ~)

※これで2月10日の歴史ミーティングは終了です。
※つづいて・・・2月18日の坂津寺貝塚遺跡発掘説明会の後、
        二人で巡った古墳の記事をアップします。
※間違いなどお気づきの点がございましたら、ご遠慮なくご指摘ください。

ここのところ、2/11、2/18の発掘説明会などの様子をご報告してきましたが
実は、一番最初の予定は2月10日の豊川市古墳、史跡巡りでした。
今回、次回は2月10日の豊川市古墳、史跡巡りのご報告です。
(次々に発掘説明会の予定が入ってきて嬉しい悲鳴状態?)

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10日最初に見たのは私が大好きな?御津船山古墳(豊川市御津町)
ここのところ何度も取り上げている三河地方最大級の古墳と同じ
名称なので、こちらを「御津船山古墳」、大きな方を「船山第1号墳」
などと呼び分けて区別することが多いと思います。
こちらは住宅地の中に前方後円墳が残っています。
「東側の浸食が著しい」と案内板に書かれていますが
「それより、なにより、この住宅地の中、よくぞ残ってくれていた!」
と感謝したくなるのは私だけ?(笑)

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前方部から後円部を見たところ。
まわりが住宅地であることがお分かりになるかと思います。
全長約37m、6世紀中頃以前の築造と考えられているようです。
埋葬施設などは特に調査されてはいないようですが後円部には
盗掘孔と思われる大きなくぼみがあります。

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次は11日に発掘説明会のあった船山第1号墳を下見?して近くに
あるという久保古墳を探します。
(この日は発掘説明会の前日でした)
久保古墳は国府東地区市民館(豊川市国府町)の前にありました。

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ひとつ前の画像の真ん中にある看板は古墳とは何の関係もなく・・・
木の間から入っていくと「古墳」と書かれた昭和初期に建てられた
石碑が見えました。(古墳名は書かれていなかった)
文献などを見ると周辺にはかつて多くの古墳があったとされて
いますが現在残っているのは、船山第1号墳と、ここだけのようです。

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墳丘と思われるような高まりはほとんどありませんでしたが
石室の天井石と思われる石材が残っていました。
この後、古墳以外の史跡を回ったのですが古墳だけ先に
ご紹介することにして(笑)

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豊川市赤塚山総合公園内の赤塚山1号墳。
20mほどの円墳で横穴式石室を持っていたそうですが・・・
現状は埋め戻され綺麗に(綺麗過ぎる?)整備されていて
逆に実感がわきません?(笑)

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墳丘頂部の石も含めて周辺の石は古墳の石材とは無関係のようです。

※2/10古墳巡りは以上です。次回は2/10史跡巡りになります。

先日、ご報告した通り2月18日は豊橋市牟呂町の坂津寺貝塚の
発掘説明会に友達と行ってきました。
その際に隣接する弥生時代の境松遺跡の大型建物跡の説明もありました。

昨年の発掘説明会の記事
⇒ https://blogs.yahoo.co.jp/corsa2003sp/42746160.html

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高台の見晴らし良好な場所の為、現代まで繰り返し建物が建てられた
らしく多くの柱穴が残っています。
明確な画像がなくて申し訳ないのですが中でも大きく、白く
マーキングされているのが大型建物の柱穴。

南側は未調査ですが確認出来るだけでも9.5m×6.1mあるそうで集落の
シンボルである神殿や首長クラスの居宅などが考えられるそうです。

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狭い通路は熱心な考古学ファンで渋滞気味(笑)

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竪穴建物や大型土坑の跡。

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地床炉の跡。地面が赤く変色しているのがわかります。

寒い日でしたが同行の友人も楽しんでくれたようで、とても良い一日でした。

※この後、近くにある三ツ山古墳から三河湾に面する周辺の古墳を
 いくつか見学。 その模様は、また後日。
 (その前にも2月10日の古墳史跡巡りの記事もあり・・・いつになるかは未定)
※間違いなどお気づきの点が、ございましたら遠慮なくご指摘ください。

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