2月18日は豊橋市牟呂町の坂津寺貝塚の発掘説明会に友達と
行ってきました。
坂津寺貝塚は昨年も発掘説明会がありましたが、その時は貝塚より
上層の時代の新しい部分の説明会でした。
今回は貝塚層の発掘調査に対しての説明会でした。
行ってきました。
坂津寺貝塚は昨年も発掘説明会がありましたが、その時は貝塚より
上層の時代の新しい部分の説明会でした。
今回は貝塚層の発掘調査に対しての説明会でした。
まず、興味深いのは、この貝塚は豊橋の貝塚でも古い方で縄文中期後半、
4200年ほど前の貝塚なのだそうです。
そして、一般的に思い浮かべる貝塚は貝殻に混ざって土器、石器、
骨(魚、獣骨)、場合によっては埋葬された人骨などが一緒に発掘
されるのですが・・・
この貝塚の特徴的なのは・・・
上記のような生活の痕跡をうかがわせるものがほとんど見られないことで
発掘されるのはハマグリの貝殻以外には炉の跡そして縄文土器程度
なのだそうです。
そして、そのハマグリの殻からわかる特徴があり春先に集中的に
採取されているという事です。
また、この貝塚は近くでは、この時代の住居跡は見つかっておらず豊川を
少し遡ったあたりの集落に居住していた人たちが川を下って、この貝塚に
作業に来ていたのではないか?という事でした。
4200年ほど前の貝塚なのだそうです。
そして、一般的に思い浮かべる貝塚は貝殻に混ざって土器、石器、
骨(魚、獣骨)、場合によっては埋葬された人骨などが一緒に発掘
されるのですが・・・
この貝塚の特徴的なのは・・・
上記のような生活の痕跡をうかがわせるものがほとんど見られないことで
発掘されるのはハマグリの貝殻以外には炉の跡そして縄文土器程度
なのだそうです。
そして、そのハマグリの殻からわかる特徴があり春先に集中的に
採取されているという事です。
また、この貝塚は近くでは、この時代の住居跡は見つかっておらず豊川を
少し遡ったあたりの集落に居住していた人たちが川を下って、この貝塚に
作業に来ていたのではないか?という事でした。
以上を、まとめると(現場での説明を引用です)4200年ほど前、豊川を
少し遡った集落に住んでいた人たちが春先(貝の旬の季節?)に、
この貝塚周辺に移動してきてハマグリを集中的にとり、その場で煮て
干し貝を作っていた場所である。
干し貝を多量に作っていたことから自給自足の為だけではなく交易品
として作っていたことが考えられるのだそうです。
(交換していたのは・・・黒曜石とか?他には??)
こうした性格を持つ貝塚は縄文時代中期の西日本では確認されておらず
学術的にも興味深い遺跡なのだそうです。
少し遡った集落に住んでいた人たちが春先(貝の旬の季節?)に、
この貝塚周辺に移動してきてハマグリを集中的にとり、その場で煮て
干し貝を作っていた場所である。
干し貝を多量に作っていたことから自給自足の為だけではなく交易品
として作っていたことが考えられるのだそうです。
(交換していたのは・・・黒曜石とか?他には??)
こうした性格を持つ貝塚は縄文時代中期の西日本では確認されておらず
学術的にも興味深い遺跡なのだそうです。
早めに付いた我々、まずは出土品の展示を見学。
縄文時代中期の土器片。
それほど大きな破片はなかったものの良く見るとその文様はとても
繊細で美しい。
(画像ではわかりにくくてすみません)
なんと、受付では貝塚から出土したハマグリの、お土産も。
この貝殻は間違いなく4200年前の縄文人が砂浜から掘り出し煮て
干し貝にしたもの・・・・そう思うと、とても感慨深い。
そして発掘調査のパートの、おばさんたちが形の綺麗な大型の物を
選んで洗い?、ビニール袋に詰めてくださったのでしょう。
その気持ちがとても嬉しい。
貝の幅は8センチ弱もある立派な物でした。
干し貝にしたもの・・・・そう思うと、とても感慨深い。
そして発掘調査のパートの、おばさんたちが形の綺麗な大型の物を
選んで洗い?、ビニール袋に詰めてくださったのでしょう。
その気持ちがとても嬉しい。
貝の幅は8センチ弱もある立派な物でした。
現場説明は2班に分かれて。
この画像が1班の人数なので、この倍の人数が説明会に参加
(約150名ほど?)
そして午後にも説明会はあったので、もっと多くの人が
説明会に参加したはず。
天気は良かったものの寒かったこの日、どれぐらいの人が集まるのか?
と心配していましたが思った以上に熱心な考古学ファンが
集まっていました。
貝塚の説明は調査委託を受けた(株)二友組さん。
わかりやすい説明で見学者にも好評、寒い中、お疲れ様でした。
びっしりとハマグリの貝殻が積み重なっています。
よく観察してもハマグリ以外はほとんど見受けられず、大きさも立派な
ものがほとんどで縄文人が選別して採取していたことがうかがえます。
70基以上見つかったという石敷炉。
採取した貝を、こうした炉で煮て干し貝に加工していたと
考えられています。
貝殻と炉の跡以外は貝を煮炊きする際に使ったと思われる縄文土器が
出土する程度だったそうです。
※この日、隣接する境松遺跡の大型住居跡の説明もありました。その模様は次回。
※間違いなどお気づきの点が、ございましたら遠慮なくご指摘ください。
※間違いなどお気づきの点が、ございましたら遠慮なくご指摘ください。