コルサの毎日がヒルクライム

2019年05月

今頃アップしていますが連休後半のご報告です。
連休明けから入院治療が(入退院を繰り返すらしい)また始まりました。その為、また、しばらくは遠出が出来そうにないので連休後半は思い切って奈良に行ってきたというわけです。
 
奈良県磐余(いわれ)地区の古墳を見学となるとメスリ山古墳は外せません?
ちょっと変わった名前のこの古墳、とても有名な古墳のはずですが・・・現地に特に案内板が出ているわけでもありませんし見学路も整備されていません。
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↑南側から見たメスリ山古墳。墳丘長224mほどと言われる前方後円墳です。ただ大きいというだけではなく造られた時代は古く4世紀前半と考えられていて大和政権成立を考えるうえでも重要な古墳とされています。
画像の右が後円部で左が前方部になります。後円部の高さが19mに対し前方部は8mほどと言われ、かなり高さに違いがあることが画像でもお分かりになるかと思います。(前方部は背の高い木が少ないので高低差が余計に強調されているようですが)
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↑見学路は整備されていませんが後円部の北側から登っていくと・・・平らな後円部の上に出ます。
登る途中には後円部の3段築成や葺石の様子が観察できます。(前方部は2段築成らしい)
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↑後円部墳頂中央には竪穴式石室があり今も8枚の天井石を見ることが出来ます。
また、今は観察できませんが、この古墳が有名なのは、この石室を方形に取り囲む大型円筒埴輪列が発見されていることです。その円筒埴輪は直径が70~80cmと大型で中には90cmを超えるものも見つかっています。
それらの大型円筒埴輪は桜井市立埋蔵文化財センター、橿原考古学研究所などで見ることが出来ます。
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↑石室の天井石の傍らで資料を調べる弟子。
石室は盗掘されており、ほとんど遺物は知られていないようですが未盗掘の竪穴式副石室が発見されていて、中からは多くの武具が出土しています。副石室が発見されたのは主石室(画像で見えている)の東側とのことですから弟子が立っているあたりかもう少し左側ぐらいかもしれません。
 
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↑谷首山古墳からメスリ山古墳に向かう途中撮影。住宅街にありますが後円部の木々が見えています。

今日の古墳巡りは、これにて終了。
数回にわたって、ご紹介してきたように、このあたりの古墳は石室を観察出来たり古墳時代前期の大王クラスの巨大古墳(メスリ山古墳)があったりと充実した古墳巡りだったと思います。(阿部文殊院で国宝の仏様も拝観したし)
このあたりでは、まだ、少し東に行くと桜井茶臼山古墳、舒明天皇陵とされる忍坂段ノ塚古墳、石室の中に石棺が今も残る赤坂天王山古墳などもあります。機会があったら、ぜひ弟子に見せたい古墳たちです。

※今頃アップしていますが連休後半のご報告です。
連休明けから入院治療が(入退院を繰り返すらしい)また始まりました。その為、また、しばらくは遠出が出来そうにないので連休後半は思い切って奈良に行ってきたというわけです。
 
次に見学したのは谷首古墳の更に南側にある、コロコロ山古墳。
説明版もありましたが傷んでいて自分は読み取る気力もなくすほどでした。ただ、弟子が何とか読み取り、しっかりメモってくれたので参考にブログ記事を書きました。
 
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↑コロコロ山古墳は1984年に古墳であることがわかり発掘調査されたとのことです。また、もともと、この位置にあったのではなく移築だそうです。そう聞くと急に興味がなくなりそうですが実は、ここの古墳も見た目から想像するより立派な石室があり見学する価値があります。
この古墳、書籍などにも取り上げられているのを、ほとんど見たことがないので弟子が何とか読み取って書き留めてくれた概要を記しておきます。
「古墳は一辺30m、高さ3mの方墳で埴輪や葺石はありません。中央の横穴式石室は全長11m、玄室長5.5m、羨道長5.5m、幅1.5mを測り大型の横穴式石室です。東隅に小型小石室もありました。天井石は取り去られていたためコンクリート屋根を付けて保存しました」
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↑フェンスはありますが、いつ来ても施錠はされておらず石室の見学は可能のようです。
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↑身長155cm越し?の奥壁。
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↑大きな一つの石で奥壁が造られています。画像左の側壁をみると、、もう一段奥壁に石が積まれていた可能性もありそうですが。玄室全体が大きなブロック状の岩を積み重ねている様子がわかります。
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↑玄室内部から外を見たところ。両袖式の玄室であることがわかります。
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↑墳丘の南西側には大きな岩も置かれていました。この岩は何なのか?どういう意味を持つのか?
そう言えば説明文に「東隅に小型小石室もありました」と書かれていましたが、どうなっているのか現地で確認し忘れました。
ただ、この岩の置かれている位置は・・・南西方向でしょうか。
 
※このあたりの古墳に詳しい方なら、この流れ、次にどこの古墳に行くのか、もうお分かりかもしれませんね!、そう、ここまで来たら、あそこしかありません?()

※今頃アップしていますが連休後半のご報告です。
連休明けから入院治療が(入退院を繰り返すらしい)また始まりました。その為、また、しばらくは遠出が出来そうにないので連休後半は思い切って奈良に行ってきたというわけです。
 
阿部文殊院、くさ墓古墳の後は近くの谷首古墳に行きました。
ここも立派な石室があるので弟子を連れて行きたかったのです。
場所は阿部文殊院の、すぐ南側に位置しています。

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↑谷首古墳は羨道の一番手前の天井石が崩れており開口部は狭く見えます。
これ以上、崩れないことを祈って中に入らせてもらいます。
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↑順番が逆になってしまいましたが谷首古墳の全景です。南側に横穴式石室が開口しています。東西35m、南北38mの方墳で6世紀末から7世紀の初めに作られたと考えられているそうです。
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↑入り口は狭いものの崩れた天井石をくぐれば大きな石で組まれた広い羨道があります。画像左側天井近くに石二つが羨道にせり出してきているのも若干不安を感じさせます・・・
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↑中から見た羨道部分。かなり広い羨道部分を持ちながら入り口の天井石が崩れていることによって外から狭く見えることがわかります。
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↑この画像では左右に、しっかり袖がある両袖式石室のように見えますが向かって左の袖は画像で見るほど飛び出してはおらず「片袖式とも言いうる」と案内板にも書かれていました。
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↑奥壁は二石を積み上げて構成されています。弟子の身長は155cmですが・・・石室内部がずいぶん高いということががわかると思います。(資料によれば高さは約4mほどあるとのこと)
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↑石室の石組の様子。
 
※まだまだ、古墳巡りは続きます。

※今頃、記事をアップしていますが連休後半のご報告です。
連休明けから入院治療が、また始まります。そうなると、しばらくは、また遠出、出来そうにないので連休後半は思い切って奈良に行ってきました。


安倍文殊院で国宝の仏様を拝観したり古墳を見学した後は、すぐ近くにある「艸墓(くさはか)古墳」に弟子を連れて行きました。
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↑ここは標識は出ているものの行き止まりの狭い道の奥、民家の玄関近くから入るので初めてでは、すんなりと見つけることはできないかもしれません。(私は以前迷ったものの行ったことがあるので・・・)
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↑民家の排水管でしょうか?「古墳」と書いてありますね!入り口を見つけても、こんな狭い民家の間でいいのか、と不安になります。
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↑民家の裏に石室が開口していますが・・・最近、墳丘が崩れたようで復旧工事中、石室内への立ち入りは禁止されていました。
私が、すごい石室と石棺が見られると、さんざん話してきたので楽しみにしていた弟子も、これには茫然・・・
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↑私が以前訪れた時は、その名のとおり?草におおわれた墳丘でしたが近年、一部が崩れてしまい応急処置がされているようです。
墳丘は長方形の方墳で長辺約27m、短辺約21mほど、7世紀前半の築造と考えられているそうです。
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↑↑、↑以前撮影した石室内部の様子をアップしておきます。
見事な刳抜式家形石棺がおさめられています。石棺は兵庫県の竜山石で出来ているのだそうです。
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↑↑、↑石棺奥側には盗掘坑があります。石棺の内部には、なぜか握りこぶし大の石が転がっています。
石棺の内部には「のみ」の跡らしき痕跡も残り、また蓋が若干ドーム状に削られている様子も見えます。
 
周辺には、まだまだ古墳があります。次はどこを案内しましょうか?
 

今頃ですが連休後半のご報告です。
連休明けから入院治療が、また始まります。そうなると、しばらくは、また遠出が、出来そうにないので連休後半は思い切って奈良に行ってきました。
 
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↑安倍文殊院は日本三大文殊の一つと言われているそうです。
画像の本堂には鎌倉時代の快慶作、(国宝)渡海文殊菩薩群像がおさめられています。
もちろん、拝観しましたが撮影は禁止されているので画像はありません。
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↑我々の目的は・・・(国宝)渡海文殊菩薩群像だけではなく古墳!()
ここには文殊院西古墳と文殊院東古墳の二つの古墳があります。
こちらは精緻な石組で有名な文殊院西古墳。背景の山と被ってしまって大きく見えますが・・・
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↑駐車場から見た文殊院西古墳。直径25mほどの円墳ではないかと考えられています。
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↑内部には石仏が祀られており自由に出入りできます。
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↑説明文もしっかりありました。
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↑↑、↑説明文にも合った通り、とても綺麗に仕上げられた石室、羨道を持つ古墳です。
例えは悪いかもしれませんが「内部にいるとコンクリートのトンネルの中にでもいるような気分」になってきます。
説明文には大化元年(645年)当時のまま、保存されていると書かれていますが・・・そこまで限定するのは少し怪しい気もします。ただ、年代的には問題はないようで安倍氏一族の墓説、具体的には大化の改新時に左大臣に登用された安倍倉梯麻呂(あべのくらはしまろ)の古墳とする説もあります。
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↑羨道も大きな石を加工して並べられています。
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↑安倍文殊院には、もう一つ文殊院東古墳があります。
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↑文殊院東古墳には残念ながら入れません。直径約18mの円墳と考えられているようですが私が見る限り背後の山と一体化しているように見え墳丘の形は良くわかりませんでした。
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↑文殊院東古墳の内部の様子。東古墳は西古墳より少し古く7世紀前半築造と考えられているようです。石材はあまり加工されていないようで巨石が荒々しく組み合わされている印象です。こちらも玄室内に石仏が祀られています。
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↑金閣浮御堂では「七まいり」で参拝しました。
(七周周り回廊を一回、回るごとに一つづつ願い事をする。七周したら堂内に入り参拝する)

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↑↑、↑駐車場脇の、いわれ茶屋で売られている「亀パン」を買ってお昼にしました。
通常は冷凍で売られているようですが、すぐに頂きたかったのでレンジで温めてもらいました。

さて次は・・・

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