コルサの毎日がヒルクライム

2019年06月

小径車に使っていたシマノSPDペダルをDEORE XT PDT780からDEORE XT PD―8000に交換しました。
DEORE XT PDT780に大きな不満があったわけではないのですがSPD対応ではないスニーカーで乗る際、靴底が滑ってしまうことが若干気になっていました。
DEORE XT PD―8000を見るとDEORE XT PDT780になかったスパイクピンが装着されており「これだ!」と思って交換してみました。
使ってみるとSPD対応ではないスニーカーで乗った際、ゴム底がスパイクピンで滑ることなく安定しとても乗りやすくなりました。
早速、もう1台も交換して愛用しています。
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↑↑、↑上側DEORE XT PDT780、下側DEORE XT PD―8000です。
DEORE XT PDT780にスパイクピンが装備されたぐらいに思っていましたが実際、比較してみると下側のDEORE XT PD―8000踏面が大きく拡大されていることがわかります。
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↑改めて比較。左側DEORE XT PDT780、右側DEORE XT PD―8000です。
この画像ですと、なぜか更にDEORE XT PD―8000の迫力が感じられます。
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↑スニーカー踏面には前後合計8本のスパイクピンが埋め込まれています。
このピンががっちり靴底をとらえペダリングを安定させます。
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↑ペダルにはクリートと更に長いスパイクピンが付属していました。
スパイクピンの長さは購入時に装着されているスタンダードタイプで今のところ不満はありません。
クリートは付属しているタイプではなく、しっかり固定されるタイプが好みです。
ずっと使用しているシューズにクリートが装着されているので、そのまま使うことにします。

日向山古墳の後は丸山古墳に立ち寄りました。
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↑丸山古墳、幸田町最大の古墳だそうですが・・・未調査の為でしょうか、案内板や資料には大きさについて触れられていません。墳丘の形は名前からもわかる通り?円墳です。
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↑墳丘に登っていくと2段築成の様子がよくわかります。また、葺石もよく残されているようです。
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↑墳頂近く。
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↑墳頂付近は盗掘の為か切通し状になっています。
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↑切通部分に天井石が見えていました。説明版によれば「築造は5世紀後半とされ横穴式石室の可能性もある」とのことですが、いずれにしても未調査とのことで詳細は不明です。
イメージ 6↑墳頂から幸田町役場方面を見たところ。

幸田町深溝にある日向山古墳(ひむかいやまこふん)に行ってきました。
この古墳には、この地域には他に例がない北部九州の影響を受けた石室があるというので楽しみです。
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↑愛知工科大学南西の日向山頂上にあり丘陵西側の道路から登れるという情報をたよりに見当をつけて行くと道路際にちゃんとした標識がありました。幸い、交通量も少ない道で道幅に余裕もあるので、ここに車を置いて登ることにします。
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↑住宅の横を抜けると・・・すぐにこんな山道です。ただ、要所要所に標識が設置されているので初めてでも道に迷う心配はありません。
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↑頂上に近づいてきました。周りはほとんど竹林です。
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↑墳丘が見えました。説明版もあります。資料によれば古墳時代後期の築造、直径13mの円墳で径9mの外護列石が巡っているということです。墳丘上部は削られて天井石が露出しており崩壊を防ぐ為にシートで覆われているようです。
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↑石室入り口。最初にも書いた通り、この地域には他に例がない北部九州の影響を受けた竪穴系横穴式石室という形式なのだそうです。入り口から玄室床面まで約1,4m下がり玄室まで2mほどの通路があります。
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↑玄室は、およそ長さ4m、幅1,8m高さ2,2mほどあるそうです。
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↑奥壁前には板石3枚が敷かれた棺台がありました。
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↑玄室内部から見た入り口付近。入り口からは約1,4mほど玄室内床面が低くなっています。
 
なぜ、この地に北部九州の影響を受けた竪穴系横穴式石室を持つ古墳があるのか?想像はふくらみますし興味は尽きません。

6月8日は豊田市の曽根遺跡にも弟子を連れて行きました。
ここは縄文時代から古墳時代までの複合遺跡が公園化されています。
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↑縄文時代中期の竪穴住居跡越しの豊田スタジアム。この二つの建物の間には、およそ4千年から5千年の開きがあります。
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↑縄文時代の建物跡、古墳時代の溝などが保存されています。
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↑発掘報告写真によくある「柱穴に人が入って」というこの画像。これが弟子の憧れらしい(笑)
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↑縄文時代の竪穴建物の復元家屋。
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↑公園内に移築されている香九礼1号墳(かくれ1号墳・豊田市志賀町にあったもの)。直径12mほどの円墳で築造は7世紀末から8世紀初頭と考えられています。
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↑横穴式石室が開口していますが、狭いので私は入るのを断念(笑)
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↑↑、↑弟子が撮影した石室内部の様子。上手に撮れてるやん!(笑)
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↑公園に隣接する門守神社(かどもりじんじゃ)は古墳の墳丘の上に作られています。八柱社古墳(やつはしらしゃこふん)と呼ばれ豊田市唯一の前方後円墳なのだそうです。
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↑左手が後円部、正面あたりが前方部にあたるようです。ただ前方後円墳と言っても前方部が非常に短いうえに低く、いわゆる帆立貝式古墳という形式です。(直径33m高さ5.5mの円墳に幅10m、長さ7.5m高さ0.6mほどの方形の造出しが付く)築造は5世紀半ばと考えられています。
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↑林の中には周濠の痕跡も残っていました。
 

曽根遺跡の見学後は、豊田市郷土史資料館にも行きましたが館内は撮影禁止。
せめて建物の外に移築されている古墳をゆっくり見学しようと思いましたが17時閉館で時間切れ。
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↑↑、↑門が閉まる直前に何とか撮影したのがこの画像。

※6月8日はこれにて終了

6月8日、馬場瀬古墳群を見学した後は矢作川対岸にある豊田市民芸の森にある本田静雄記念館を見学しました。(※ホタルネタが入りアップの順番が変わってしまいました)

本田静雄氏は豊田市名誉市民で古陶磁研究家、科学技術者、実業家で円空仏、狛犬、陶磁器などの収集研究などで知られています。
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↑↑、↑豊田市民芸の森の一角に本田静雄記念館があり、古陶磁器のコレクションが収められていました。
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↑六古窯(瀬戸、常滑、信楽、丹波、備前、越前)だけではなく地元の猿投、渥美などの素晴らしい古陶磁がありました。
(渥美、猿投は現在、存続していない為か六古窯に含まれていない)
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↑本田静雄 書、塚田重明 画の屏風の前に並べられた壺など
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↑↑、↑私の地元、渥美半島(12~13世紀の中世窯)で発見された壺類。素晴らしい物ばかりですが、その中でも特に、地元の渥美の作品が特に気になります!
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↑渥美窯を代表する作品の一つと言っても過言ではない?(と私が思う)灰釉蓮弁文壺。
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↑地元、猿投窯(古墳時代から鎌倉時代が中心)を中心とした陶器片のコレクション。
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↑本田静雄記念館の裏手にあった穴窯。陶芸教室なども行われているので現代の物かと思っていましたが豊田市高崎町にあった兼近一号窯(平安時代中頃)を移築したものが原型のようです。
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↑民芸の森には、いろいろな建物が移築保存されています。これは明治時代初期に名古屋で開催された博覧会の迎賓館として建築された建物だそうです。
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↑内部に入ってみました。階段が急で、びっくり。
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↑明治時代の洋風建築としては豊田市で唯一残っているものだそうで国の登録文化財に指定されているそうです。
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↑陶磁の狛犬とじゃれる?弟子。大の犬嫌いの弟子も、陶磁の狛犬なら大丈夫らしい?(そもそも狛犬は犬じゃない?)

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