コルサの毎日がヒルクライム

カテゴリ: 考古学、 歴史

s-DSC_1998
9月9日の中日新聞を読んでいると・・・御「墳」印始めました!!

なる記事が出ていました。

なんでも県内の古墳のBIG3?、断夫山古墳(愛知県下、最大の古墳)、青塚古墳、白鳥塚古墳で御朱印ならぬ御墳印を販売するのだそうです。
記事には「御墳印を集めながら、古墳を巡る楽しさを多くの人に知ってほしい」と書かれています。その通りで、これが古墳に関心を持ってもらうきっかけになって保存運動などに結び付いていくと喜ばしいと思います。
しかし、全国無数の寺社仏閣で集めることの出来る御朱印に対して、とりあえず3基の古墳のみでは・・・(きっかけにしかならない?)

管理者の常駐するような古墳は全国にも、ほとんどなく(管理者がいるような古墳は博物館敷地内の古墳など、ごくごく、わずか)御墳印を現地で発行する手段がないのでこの活動が簡単に広がっていくとは思えません。

とても面白い企画なので何とか、この先の展開を広げていく良いアイディアはないものでしょうか?

9月6日は台風の影響か風は強かったものの晴れたのでサイクリングに行きました。今回のテーマ?()は豊川放水路河口部右岸の遺跡巡り。

s-20200906_102554(0)
↑国道1号線をはさんで菟足神社の反対側(北東側)には五社稲荷があります。

s-20200906_103313
↑境内には五社稲荷古墳の案内板もちゃんと立っていますが気が付く人は少ないようです。

s-20200906_103343

s-20200906_103834
↑↑、↑本殿が建つ、この丘?自体が古墳なのだそうですが(本殿、正面と右側から撮影)・・・そうと聞かなければ、ここが古墳とは気が付かないでしょう。築造年代は、はっきりわかっていないようですが古墳時代中期と考えられているようです。ただ、規模は直径30m以上あったようで、この辺りでは大規模なものだったようです。

s-20200906_103739
↑本殿から右手に回り奥の院に向かうと右側に粕塚古墳があるようですが藪で明確な高まりは確認できず。

s-20200906_102832

s-20200906_102725
↑↑、↑そのまま境内の裏手に回ると欠山遺跡(かけやまいせき)の案内板があります。2世紀から3世紀前半の弥生時代の環濠集落があったのだそうです。その面積は3ヘクタール以上もあり同時代の周辺の集落に比べてとても大きなものだったようです。この遺跡から発掘された土器の代表的なものは欠山式土器と呼ばれています。欠山式土器とは、この「欠山遺跡から出土した土器を標識として設定された土器の様式名」とのこと。ですから、ほかの遺跡から発掘された土器も同様な様式であれば欠山式土器と呼ばれるので周辺の同時代の出土品でも時々、この呼び名を耳にすることがあります。

s-20200906_104500
↑帰る途中に総合青山病院、小坂井高校方面から撮影した五社稲荷全景。こちらの方(撮影している背後方向)は行き止まりなので、こちらから五社稲荷を眺めたことのある人は病院関係者と高校関係者以外、あまりいないのでは(笑)
※おわり

9月6日は台風の影響か風は強かったものの晴れたのでサイクリングに行きました。今回のテーマ?()は豊川放水路河口部右岸の遺跡巡り。

s-20200906_101529
↑平井稲荷山貝塚から更に豊川放水路右岸をさかのぼると国道一号線に交わる直前に菟足神社貝塚(うたりじんじゃ)があります。その神社境内から南側の私有地に広がるのが菟足神社貝塚です。前回、ご報告した平井稲荷山貝塚とともに早くから知られていた縄文時代(出土する遺物は縄文早期から晩期、弥生、古墳時代にわたるとのこと)の貝塚です。

s-20200906_102118(0)
↑ハマグリ、シジミなどの貝殻が散らばっています。左は・・・残念ながら縄文土器ではなさそうです()

s-20200906_102310
↑神社境内に隣接する空き地にも貝殻が散らばっています。ついつい縄文土器片を探してしまう・・・けど最近は見つかりませんね(笑)

s-20200906_105535
↑菟足神社から西にある「柏木の浜、白須賀の渡し」跡。奥に見える高架道路は小坂井バイパス。現在は豊川放水路の堤防近くになりますが、その昔は豊川の河口にあたり対岸の豊橋市牟呂町坂津寺あたりからの渡し船の発着所だったのがこのあたりなのだそうです(時代によって位置は多少変わったと思われます)

s-20200906_105445
↑先ほど、ご紹介した菟足神社の祭神、菟上足尼命(うなかみすくねのみこと)は、この地から上陸されたそうです。その後、穂の国の国造(くにのみやつっこ)として治績を挙げられたので亡くなったあと、ここに祀られたのち現在の菟足神社に祀られるようになったそうです。事実かどうかは、「ともかく豊川河口を行き来する渡し船「志香須賀の渡し」がこの辺りにあったのは間違いないようです。

※つづく

9月6日は台風の影響で風は強かったものの晴れたのでサイクリングに行きました。今回のテーマ?()は豊川放水路、河口部右岸の遺跡巡り。

s-20200906_094330

s-20200906_094316
↑↑、↑最初に行ったのは放水路、河口に近い前芝町(前芝中学校敷地内)の伊奈銅鐸出土地。ちなみに前芝中学校は豊橋市立ですが敷地の北側は豊川市になるようです。学校の裏手(北側)に回ると伊奈銅鐸出土地を示す案内板が見えました。余談ですが・・・こんなところに設置された時計を生徒は見ないでしょうから見学者、周辺の農地で作業する人向けなのでしょうか?(笑)

s-20200906_093624
↑案内板をよく見ると・・・「(出土地は)この掲示板より約65m中学校の敷地に入ったところ」とあります()先にも書いた通り学校は豊橋市立ですがこの案内板は豊川市が建てたものなんですね。

s-DSC_1994 (2)

s-DSC_1995 (2)
↑↑、↑このように見事な銅鐸が見つかったのが、この場所なのです。ちなみに見つかった銅鐸は(見つかった時代が大正時代と言うこともあってか)東京国立博物館の所蔵になっています。このパンフレットは2007年、地元に里帰り展示された際の物です(幸運にも私は実物を発掘地に近い前芝町の市民館で見学することが出来た)

s-20200906_093154 (2)
↑前芝中学校の南側には前芝小学校があります。(伊奈銅鐸出土地の案内板は隣接する小中学校校舎をはさんで反対側)古そうな雰囲気のある校門だったので画像をアップしておきます。

s-20200906_095152 (2)
↑伊奈銅鐸出土地から次に向かったのは少し北側の平井稲荷山貝塚(豊川市平井町) 貝塚の上には神社が建っています。この遺跡は明治時代から研究されていて縄文時代の人骨も多く出土しています。

s-20200906_095450 (2)

s-20200906_095447
↑↑、↑現在でもハマグリを中心に多くの貝殻が散乱しています。

s-20200906_100735
↑平井稲荷山貝塚、遠景。現在は撮影している背後に豊川放水路が通っていますが縄文時代には豊川(流域の湿地)から海岸が広がっていたのでしょう。

※つづく

s-20200905_105200
↑9月5日はK隊員と自宅からポタリングに行きました。豊橋市大崎地区から柳生運河をさかのぼり牟呂地区を散策です。画像は柳生運河左岸から下流側を見たところ。

s-20200905_105120
↑牟呂町市場地区。この辺りはかつて市場港と言われる港があったといわれています。中央の森は市杵嶋神社になります。

s-20200905_092720
↑市杵嶋神社の境内には縄文時代の貝塚が広がり、その貝塚に前方後方墳(全長約60m)が造られ(3世紀)、更に、その上に社殿が建てられています。

s-20200905_093047
↑市杵嶋神社を社殿裏側から見たところ。画像ではわかりませんが古墳の一部が貝殻で白く光って見えています。

s-20200905_093323
↑市杵嶋神社の後方の住宅地の中を探すと大塚天王社があります。ここは、もともと牟呂大塚古墳と言う7世紀の前方後円墳(全長27.m)だったのだそうです。

s-20200905_093906
↑周辺より高い位置に天王社が建てられていますが、この高まりは古墳の名残なのかもしれません。この高まり以外に古墳を偲ばせるものは見られませんが、かつての発掘により太刀、馬具など優れた出土品があったようです。(出土品の一部は東京国立博物館所蔵とのこと)

s-20200905_095311

s-20200905_095916
↑↑、↑牟呂用水をさかのぼっていくと大西貝塚の痕跡が墓地周辺にみられます。大西貝塚は縄文時代後期から江戸時代の貝塚で東海地方最大の貝塚と言われています。現在、三河湾で見られないハマグリなどの貝も多数見つかります。

s-20200905_100530

s-20200905_100421
↑↑、↑更に牟呂用水をさかのぼっていくとレンガの水門跡がありました。これは愛知県内第一号の水力発電所なのだそうです。明治28年に完成し明治40年まで電力を供給していましたが当時はまだ一般家庭の電気需要はほとんどなく官公庁、歩兵第十八聯隊(現在の豊橋公園に駐屯地があった)に供給されていたそうです。

この後は牟呂用水を豊橋駅周辺までさかのぼりましたが・・・思った以上に暑い為、戻ることにしました。走行距離26キロ程度ですが、なかなか面白い歴史散歩コースでした。

このページのトップヘ