コルサの毎日がヒルクライム

カテゴリ: 考古学、 歴史

口明塚南古墳の発掘説明会の後は馬越北山古墳群を見学しました。

以前も探索したことはありますが、その時は草だらけで・・・

今回は草も刈られて見やすくなっているとのことなので楽しみです。


馬越北山古墳群は20基の古墳からなり、その中でも道路沿いにあり集会場の横にある宮西古墳が有名です。
宮西古墳の周辺には20基の古墳のうちの12基の古墳が集中しています。

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↑宮西古墳は道路沿いというか・・・道に飛び出しているといった方が良いのかも。

現在でも立派な石室を持ちますが造られた当時はもっと長く道路工事で羨道の一部が削られているようです。

この日は口明塚南古墳の発掘説明会の他、古墳ウォーキングイベントも開催されていたので賑やかかったですね。こんなに古墳に興味を持つ人が居たのかというぐらい?一日中賑わっていたようです。

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↑石室内で密にならないよう順番待ち(笑)

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↑宮西古墳、石室内部奥壁の様子。

大きな岩を2段に積んだ奥壁。こちらの古墳の石室も大変、立派な石組です。

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↑宮西古墳以外は馬越北山古墳群は山林の中に点在した群集墳です。宮西古墳以外は石室が崩落しており写真映えしないので画像はとり忘れてしまいました。

これは20号墳ですがよくわかりませんね。

(崩落したのではなく石材を抜き取られてしまっているのかもしれません)

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↑12基の中で20号墳だけは若干の石材が観察できます。天井石は見られず側壁の石が少し残っている程度です。石を抜かれただけでなく墳丘全体が削られているのかもしれません。

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↑馬越北山古墳群を見学して次に向かうことにしました。次は久太夫塚古墳(くだゆうづかこふん)この古墳は小さいのですが石室がとても立派なうえ内部に入れるので友人にもぜひ紹介したかったのです。ただ、少し離れているので自転車で移動です。

墳丘というよりは斜面を利用して作られているようにも見えます。以前は入り口は狭く埋もれていましたが何年か前に整備されて見学しやすくなりました。

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↑奥壁には見事な大きな一枚岩が。側壁の石積みもとてもキレイに積まれています。

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↑両袖式の立派な石室です。

初めて見た友人も「こんなに立派な石室を持つ古墳が地元にもあるんですね」驚いていました。
驚いて喜んでいただけて紹介した甲斐があったというもの。

今頃ですが・・・
1月22日は豊橋市の馬越長火塚古墳群、口明塚南古墳(くちあけづかみなみこふん)発掘調査現地説明会に行ってきました。
馬越長火塚古墳群は馬越長火塚古墳、大塚南古墳そして今回、現地説明会があった口明塚南古墳の3基からなります。
口明塚南古墳は以前にも少し調査されていますが今回の調査は石室の残存状態、構造、規模を明らかにして今後の整備基本計画にいかす予定なのだそうです。
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↑墳丘からは少し離れたところで説明が行われました。
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↑口明塚南古墳は7世紀前葉に作られた直径約23mの円墳とされています。
墳丘は大きく改変され、また畑として利用されている為、墳丘上が平らに削られています。

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↑ここが何か知らなければ・・・大きな岩がごろごろとしているだけで古墳の石室だとは思わないかもしれませんね。
この時代としては珍しいほど大規模な横穴式石室(全長10m最大幅2m)を持っていますが大きく破壊されていました。
破壊について地元では吉田城の石垣を作るのにつかわれたという伝承が残っているそうです。
まあ、それ以外にも地元のお屋敷の庭石などに使われている可能性もありますね。
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↑石室、入り口側から見ています。
大きな岩ばかりで側壁を構成する石が見当たらないので石室と言われても違和感があります。
これは側壁の中小の石は持ち去られ大型の岩だけが残っている為と思われます。
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↑同じく石室入り口側から。中央の大きな岩があるところは石室羨道部分です。この大きな岩は天井石が崩れ落ち、あるいは崩したものの重すぎて運べず置き去りにされていると思われます。

さて、この後は馬越北山古墳群を見学に行こうと思います。

1月29日(土)はお隣の豊川市、国分寺跡の発掘説明会に行ってきました。

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↑三河国分寺は東西南北180m四方の寺域を有していたそうで、とんでもなく広い。

以前、見に来た頃は奥の方は民家が立ち並んでいましたが史跡公園として整備する為、市は40年近くかけて民家民有地を買い取って来たそうで、現在は、このような広い状態になっています。
右手奥に樹木がはえている部分は塔跡。礎石などがあります。
そう言えば、あの辺りも何年か前には公民館?だったか建物があったはず。

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↑寺域、北西部の発掘説明会の様子。

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↑柱跡が沢山見えています。明確な大きな建物の様子は・・・?

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↑講堂の北側にあたる部分。僧房の跡を期待して発掘したらしいが建物の規模が小さく僧房ではないと判断したらしい。では、この敷地のどこに僧房があったのか?今後の発掘調査の結果が待たれる。

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↑寺域、北側、寺域東西の中央。講堂の裏手。遺構は井戸跡など。

そして画像、左右に人が歩く小道が現在もあります。

ここが、もしかしたら国分寺、往時から北側の出入り口に続く道だったかもしれないとのこと。

ここから東方には国分尼寺もあり位置的にも納得できるものの明確な北門の遺構は見つからなかったとのこと。

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↑北側の溝部と思われるところに混じる白っぽいもの。もしかしたら塀に塗られた、漆喰か?現在分析中とのこと。
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↑↑、↑北面廻廊跡を調査している区域。しかし、回廊基壇、屋根を支えていたような柱の礎石などは検出されなかったとのこと。

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↑今回の足には一番弟子のダホンを借りてきた。
女性専用サドルから男女兼用出来そうなサドルに変えてきたものの
結局、サドルが自分には合わなかった・・・(笑)
この後、周辺の遺跡を見に行こうと考えていたものの挫折。

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先日、郵便局に行ったところ、こんな切手が販売されていました。

国宝シリーズで、昨年、5月の発行らしく、この後の時代の国宝シリーズもすでに販売されている様子。

自分は、この時代に強い興味があるので、とりあえず、これだけ複数買ってきました。

上段の国宝土偶5点は滋賀県のMIHO MUSEUMで見たことがあります。
あの展示は凄かった・・・子供の頃から歴史関係の本で見た有名土偶が、これでもかと展示されていました。
そのうえ、期間限定ではありましたが国宝土偶5点が勢ぞろいしていたのですから。

そして、埴輪に銅鐸そして鏡は昨年、弟子と東京国立博物館で見ました。

そして下段、右端の藤ノ木古墳出土、馬具は奈良県橿原考古学研究所付属博物館で何度か見ましたね。このほかにも一緒に出土したものも素晴らしく(まとめて国宝)日本にもこんな金ぴかのお宝があるのだな、とびっくりしました。

下段、右から二番目の火焔型土器は、まだ見たことがありません。
この土器は大変有名ですが出土地が新潟県十日町の出土で地元で保管されているのでなかなか見に行くことが出来ないのです。
この土器、複雑な造形なのにバランスも良く、デザインにも、まったく破綻がない。世界に誇れる日本美術の(それも縄文時代という古代の)代表だと思います。
とにかく一度、見てみたい。どこか近くの博物館で展示してくれないかなぁ~?でも、結局、出土した現地の遺跡も見てみたいし(笑)

毎度、アップが遅いとはいえ・・・もう2週間以上前のことになります()

今回は11月3日に開催された豊川市東部の花の木古墳群、花の木遺跡の発掘説明会の報告です。

大雑把な場所は本宮山麓の南側、宝陵高校の、すぐ西側。

花の木古墳群は7基の古墳からなるそうですが1号墳は少し北側に離れており今回の説明会の対象にはなっていません。その他の2~6号墳は集中していますが4号墳だけは、わずかに工事区域(新しい道路が造られる)から外れており今回の調査域には入っていませんでした。

因みに花の木遺跡は弥生時代の住居跡の遺跡とのことで、その住居群の上に土を盛って古墳が造られているのだそうです。今後、古墳の調査が終わるとその下層にある弥生時代住居群も発掘調査され、その際は発掘説明会がまた行われる予定とのことでした。

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↑北東部分から南西部分方向を見ています。中央に見える盛り土は掘り起こした土の仮置き場で、その左手に2~6号墳が集中しています。

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↑2号墳、埋葬部分。古墳時代中期の円墳で直径約30mほど。この部分は昭和43年に発掘されており今回は再調査になります。大きく、くぼんだ所には三つの棺が収められていたということです。

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↑昭和43年の発掘で2号墳から出土した鉄剣、勾玉、管玉なども展示されていました。

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↑4号墳はネットの向こう側、わずかに工事区域から外れており今回は調査されません。

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↑7号墳から6号墳を見たところ。

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↑6号墳と7号墳の間の周溝に見える土器。

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↑7号墳の周溝外の土器。ともにお供えされたとものと思われます。

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↑調査域を北側(土の仮置き場を利用した展望所)から見たところ。手前のブルーシート部分からは弥生時代の住居跡などがたくさん出てきているそうです。次の発掘説明会が楽しみ。

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↑ここまで見てきて何か気が付くことはありませんか・・・

そう、古墳の発掘説明会なのに埋葬施設部分を発掘しているのは最初に見た2号墳のみ。他は埋葬施設部分を全然、掘っていません。質問してみると、どうやら周濠部分の発掘に時間がかかり説明会、当日までに埋葬施設の調査が間に合わなかったようです。この後、埋葬施設を調査すると2号墳のように、いろいろな遺物が出てくるかも?

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↑調査域を見渡す私。サイクリングを兼ねて自転車で行ったので自転車の服装。靴は前日まで雨だったので、ぬかるんでいるだろうとハイキングシューズを背負って行き現地で履き替えました。(撮影はK隊員)

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↑調査域の南側を見たところ。新しく道路が出来て遺跡は破壊されてしまう・・・

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↑調査域を南側から見たところ。奥に見えるのは本宮山。今見ている平地から北側に続く高台に弥生時代の村が営まれ、のちに古墳が造られた。それから千数百年・・・

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