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カテゴリ: 三河の戦争遺跡

コルサ探検隊 老津町史跡巡りその2

豊橋市老津町の史跡巡り、前回は太平寺、老津神社、妙見古墳を
ご紹介しました。
今回は戦争遺跡をご紹介します。

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↑老津町の海岸部にある、といっても現在は埋め立てられてしまい水路
しか残っていませんが・・・

昔の海岸線近くにある海軍の通信壕です。
現在の様子は、このようになっています。
もともとの入り口がどのようになっていたかはよくわかりません。

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↑↑、↑上部、側面の様子。もともとは土に覆われていたはずですが現在は
コンクリートがほぼ全体にわたってむき出しになっています。
これは、戦後すぐ近くの「船かけ」(ふなかけ、船着き場のこと)
を作る際にこの山の土砂を利用したからとのことです。

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↑上部にはいくつかの穴が開いています。
これは発電機の吸排気口でしょうか?

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↑穴の一つ。鉄筋が見えていました。

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↑内部は約20mほどで3つの部屋に分かれています。
一番手前の部屋の奥には機会が据え付けられていた跡が残っています。

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↑現在はサビの塊ですが強固なボルトと思われる物があります。
ここには通信機を作動させる為の発電機があったようです。

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↑2番目の部屋を奥側から見たところ。土砂が半分ほどを埋めています。

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↑通信壕の一番、奥壁(3番目の部屋)

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↑3番目の部屋にも天井の穴から土砂が流れ込んでいます。

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↑天井の穴。こちらは大きな丸形の穴が開いています。

 

※戦時中の海軍の通信壕とされる今回の戦争遺跡、今回の記事を
アップするにあたり資料を探したのですが見つからなかったので
詳細は不明です。

以前行ったものの記事をアップできなかったものを取り上げています。

今回は豊橋市の二川トーチカ。
二川トーチカと呼ばれているものの地図で調べてみると存在するのは
大岩町になるようです。
ただ、JR二川駅の、すぐ北にあるので二川トーチカと
呼ばれているのでしょう。

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二川駅のすぐ北にある住宅地に溶け込むように?存在する二川トーチカ。
もともとは山の斜面を利用して作られたもので住宅地の造成により
むき出しになったものらしい。

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トーチカ前から南側を見ると遠くに太平洋が見えます。
大戦末期、本土決戦を見越し上陸してくる米軍を迎え撃つために
作られたのだそうです。
ちなみに周辺の山には榴弾砲陣地、陣地壕群が存在するようです。

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車と比較してみるとトーチカの大きさの目安がつくかと思います。

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開口部の様子。
ここに九六式十五糎榴弾砲が備え付けられていたということです。

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望遠レンズで見た内部天井の様子。
多くのボルトが露出しています。
すべてのボルトにナットがついたままになっていますが使用目的は不明。

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東側から見た様子。

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西側から見た様子。
通路なのか換気用なのか使用目的は不明ながら、こちらには煙突状?の
構造物が見て取れます。
風化したように見えるのですが、これはもともと山肌を掘り込んで
型枠などなしにコンクリートを流し込んで作られたためなのだそうです。
(周辺にあった礫などがコンクリートについたもの)

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改めて全景を見てみます。
手前は駐車場なので何とか観察はできますが画像の通り左右は
住宅、北側(画像の奥側)も住宅地となっており立ち入ることは
できませんでした。
トーチカ左右の斜面を登って内部や上部を観察したいと思いましたが
周辺の住宅のことを考えると・・・
まあ、ネットを検索すれば以前に内部を観察した画像も発見できますし、
と言うことでここまでで撤退することにしました。

今までも何度か書きましたが豊橋市はかつて軍都でした。
現在の愛知大学周辺の陸軍第十五師団、豊橋公園周辺の歩兵第十八連隊、明海町には
豊橋海軍航空隊基地などがありました。
ただ、こういった事実を知る人は地元でも、少ない印象があります。
(特に若い人は)

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灰捨場と呼ばれているレンガ造りの施設。
上部に丸い穴があった痕跡があり、ここから灰を投入していたのか?
たばこの吸い殻や暖炉の灰などを捨てたものとされています。

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昭和五年兵記念樹の石碑。
他には見当たりませんが・・・昭和五年兵だけが何か理由があって立てたのか?
かつては各年代にあったのに、この石碑だけが残ったのか?どちらかは不明。


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貯水槽とされているコンクリート施設。
吉田城の本丸を囲う土塁の上(北側)に作られています。
防火水槽ではないかと言われています。

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弥健神社。
連隊の営内神社だそうです。

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神社の奥には神武天皇銅像。
神武天皇のお顔はわからないため、当時の明治天皇のお顔に似せて
作られたとのこと。

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将校集会所の門柱。
一部に黄色のタイルが貼られているのは真っ暗でもわかりやすくするため
とのこと。

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この奥に連隊記念碑があるのですが・・・
(わずかに見えています)
豊橋美術館増築工事の為、立ち入り禁止になっていて、こんな画像しか
撮れませんでした。
もともとはこの台座の上に砲弾型の碑が載っていたのだそうです。

※吉田城の戦争遺跡終わり

今までも何度か書きましたが豊橋市はかつて軍都でした。
現在の愛知大学周辺の陸軍第十五師団、豊橋公園周辺の歩兵第十八連隊、明海町には
豊橋海軍航空隊基地などがありました。
ただ、こういった事実を知る人は地元でも、少ない印象があります。
(特に若い人は)


今回は豊橋市役所東側、吉田城城跡(豊橋公園)周辺にあった歩兵第十八連隊の痕跡を
探しに行ってみました。
(もちろん、戦争を繰り返さないようにとの思いをもって)

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歩兵第十八連隊営門、明治31年に新設された営門とのことで現在のコンクリート製の
門は昭和10年代に作られたものとのこと。

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哨舎(しょうしゃ)
出入りする人をチェックする哨兵(しょうへい)が立つ小さな建物。

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西門門柱。
明治18年、連隊創設時の営門とのこと。
ただし、国道1号線の工事に伴い移設されて現在の位置になったとのこと。
現在は一号線の歩道沿いにあり信号待ちの車の中からも見られますから
気が付いた方も見えるのでは。

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軽油庫(機械油の保管庫)、資料によってはこれを弾薬庫とするものもあります。
連隊の弾薬庫としては規模が小さすぎるような気がするので軽油庫で正解なのでは
と私は思っています。
軽油庫とする資料には弾薬庫は隣接してあったと書かれていますが現在は、
これといった痕跡がありません。

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軽油庫を土塁の上から見たところ。
壁が丈夫そうな割に屋根が簡単に作られているのは万一爆発しても爆風が
上に抜けるためともいわれますが・・・
本当は弾薬庫なのか軽油庫だったのか?

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馬頭観世音。
紀元2600年(昭和16年)、軍馬の守護神または供養の為に建てられたもの。
吉田城、三の丸の土塁の上に立っています。

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馬頭観世音の近くには石材が集められています。
中にはライオンをかたどったものもありますので吉田城や連隊関連のものではなく
豊橋公園に、かつて動物園があった名残ではないかと私は思っているのですが。
(もちろん、もともとは、お城や連隊関連の石材もあるかもしれませんが)

※つづく

退院してからも体調はあまりぱっとしませんが(笑)
あまりの天気の好さに近所にポタリングに行くことにしました。
(お医者さんからは「無理しないで」と言われているけど)

目的地は以前行ったものの季節が悪く(ヤブ蚊に悩まされた)あきらめた
豊橋市 天伯神社。

ここには米軍上陸後、戦う為(本土決戦)に構築された陣地跡があるそうです。
(この辺りは明治時代から天伯原陸軍演習場でもあった)

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まずは天伯神社遠景、北側から見たところ。
左手の丘が神社の裏山で鳥居は反対側(南側)にあります。
右端に写る丘の更に右手に現在の県道405号線が南北に通っています。

画像奥(南側)に数キロ行けば太平洋で、こちらから米軍が上陸して
豊橋市街地方面に進んだ場合、いったんやり過ごし背後から攻撃を
仕掛けるつもりで神社北側に陣地を作ったのではないかと言われています。

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南側の鳥居。

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拝殿。

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神社の裏山(北側斜面)の林を探索しますが・・・
樹木が生い茂り、なかなか大変。
以前来た時は、ここでヤブ蚊に悩まされ撤退。

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下手な画像では地面の凹凸すら、よくわからないと思いますが
それでも、ほぼ東西に掘られた交通壕や「タコ壷」(兵士が身を隠す小さな穴)、
小銃掩体(小銃を据え置き隠す場所)と思われる場所が確認できました。

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神社南側も探索すると少し大きめな窪地がありました。
こちらは太平洋の方向ですから上陸してきた米軍を観察するためのもの
だったのかもしれません。
ここは北斜面の遺構に交通壕などではつながっていませんが豊橋市教育委員会の
資料によれば、この窪地も
「北斜面と一連のものと思われ」、「用途としては指揮所などが考えられる」
とされています。

地元の人々が安全などを願う神社に残された本土決戦陣地跡を思うと
複雑な気持ちになりますが・・・いずれにしても、
この辺りが戦闘の場所とならず幸いでした。

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