さすがに年末でいろいろ、やらなければならないことがあります。
でも・・・
とりあえず、午前中、2時間ほど走りに行くことにします。
(年間走行目標も、まだ達成していないし 笑)
とりあえず、午前中、2時間ほど走りに行くことにします。
(年間走行目標も、まだ達成していないし 笑)
時間があまりありませんので、自宅近くの史跡を訪ねることにします。
近所ですが今まで調べた事がないところです。
近所ですが今まで調べた事がないところです。
まずは豊橋市から西の田原市を目指します。
田原市の神戸地区、西神(にしかんべ)戸交差点にある道標。
ここは、よくロードトレーニングで通るところです。
以前から気になっていた道標を調べてみます。
全体的に風化が激しく字が読み取りにくくなっていました。
年号は大正11年のようで、あまり古い物ではありませんでした。
右と、左という文字は読み取れるのですが、その下の文字が両方向とも確認できません。
どうも現在の地名と符合しないようなんですが。
全体的に風化が激しく字が読み取りにくくなっていました。
年号は大正11年のようで、あまり古い物ではありませんでした。
右と、左という文字は読み取れるのですが、その下の文字が両方向とも確認できません。
どうも現在の地名と符合しないようなんですが。
この地点は現在、交通量の特に多いところでは有りませんが、
位置的に、江戸時代頃は田原藩の城下町から東の遠州(浜松地区)に抜ける道の
ひとつだったのかもしれません。
位置的に、江戸時代頃は田原藩の城下町から東の遠州(浜松地区)に抜ける道の
ひとつだったのかもしれません。
そして、西神戸地区から南西の大草地区に向かいます。
この道路脇の林が今回の目的地。
惣作(そうさく)古窯跡群です。
ここは以前から、ロードトレーニングで良く通ったところで怪しい?と思っていました。
立派な石碑にも気が付いてはいたのですが、立派過ぎて史跡の物だとは
思っていませんでした(笑)
この辺りで、このような石碑は「土地改良記念碑」等が多く、そういったものと思いこんでいました。
(たいていの場合、史跡は木の棒かブリキの看板程度の簡単なものが多いので)
思っていませんでした(笑)
この辺りで、このような石碑は「土地改良記念碑」等が多く、そういったものと思いこんでいました。
(たいていの場合、史跡は木の棒かブリキの看板程度の簡単なものが多いので)
最近、手に入れた資料でこのあたりが惣作(そうさく)古窯跡群だと知りました。
それで、確認する為に今回、久しぶりに訪れてみると
「あれ、ちゃんと窯跡が表示されている?!」
「あれ、ちゃんと窯跡が表示されている?!」
以前は気が付かなかったけど、なぜ? (いつも横目で見ていた場所だった)
どうも白いテープは新しく設置されたものではありません。
どうも以前から設置されていたのでしょうが、ずっと下草が生え放題になっていて
気が付かなかったようです。
最近、下草を刈って白いテープが見えるようになったのでしょう。
どうも白いテープは新しく設置されたものではありません。
どうも以前から設置されていたのでしょうが、ずっと下草が生え放題になっていて
気が付かなかったようです。
最近、下草を刈って白いテープが見えるようになったのでしょう。
この辺りには、このような古窯跡は数百基もあったといわれています。
(渥美古窯 ほとんどが12~13世紀ごろ)
そのなかで、なぜ、ここに、こんなに立派な石碑が立ったのでしょうか?
その理由は全国的にも珍しい
「ざれ歌」が刻まれた碗が出土したからなのです。
その理由は全国的にも珍しい
「ざれ歌」が刻まれた碗が出土したからなのです。
帰り道に、これまた以前から気になっていた豊橋市老津町(おいつ)の高縄城址(たかなわしろ)
に立ち寄ることにします。
(画像は南西側から見たところ)
ここは、母親の実家にも近く、昔から馴染み深いところでしたが城跡だとは、
最近まで知りませんでした(汗)
最近まで知りませんでした(汗)
小高い丘(城山とも呼ばれる)全体が高縄城址で右側の建物は「豊橋市立家政高等専修学校」です。
学校のあたりも、かつては城郭の一部だったようです。
学校のあたりも、かつては城郭の一部だったようです。
現在は学校、道路、宅地化で、かつての姿はほとんど残っていないということですが、
愛知県の調査では城郭の規模、東西230m、南北120mほどだったそうです。
愛知県の調査では城郭の規模、東西230m、南北120mほどだったそうです。
学校の近くに、かつての空堀、土塁が残っているとも聞きますが今回は時間がなく未確認。
西側から城山の上部に登ってみました。
学校の西側は畑になっていましたが林の中に、このようなところが。
嘉永、弘化、天保などの年号が読み取れました。
どうも江戸時代の墓石のようです。
どうも江戸時代の墓石のようです。
この城が築かれたのは明らかではないようですが戸田宗光が、このあたりの領主になった
1475年前後と推定されています。
1475年前後と推定されています。
いつまで、この城が存在したのかも判りませんが・・・
この墓石?類は城とは直接関係ないのかもしれません。
(後の時代に近くに点在したものを、ここに集めたものか? これも私の妄想ですが)
この墓石?類は城とは直接関係ないのかもしれません。
(後の時代に近くに点在したものを、ここに集めたものか? これも私の妄想ですが)
城跡を歩いてみると林の中に貝類が散乱しているところが2ヶ所ほど見つかりました。
城内で食べられた物か?
貝塚の一部?
探してみると、こんな物も見つかりました。
大きな物は両方とも石ではありません。
どうも、前述の惣作古窯等と同じ時代(12~13世紀前後)くらいの窯跡から
発見される物に似ています。
大きな物は両方とも石ではありません。
どうも、前述の惣作古窯等と同じ時代(12~13世紀前後)くらいの窯跡から
発見される物に似ています。
左の上のものには陶器の破片が付いていますし左の下の破片は陶器です。
この城山にも古窯跡があるのかもしれません。
でも貝殻との関連は??
(海岸線は、すぐ近い)
この城山にも古窯跡があるのかもしれません。
でも貝殻との関連は??
(海岸線は、すぐ近い)
今回は時間がなく、ほんの3時間弱のサイクリングでした。
それでも、興味深い史跡がたくさんありました。
まだまだ、訪ねてない史跡が周りにはいくつもあります。
ほんとうに、豊橋市、田原市(渥美半島)は史跡も多く、地形的にも走るところに恵まれていますね。
それでも、興味深い史跡がたくさんありました。
まだまだ、訪ねてない史跡が周りにはいくつもあります。
ほんとうに、豊橋市、田原市(渥美半島)は史跡も多く、地形的にも走るところに恵まれていますね。
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