今回は昨年、訪ねながら諸般の事情で(単にものぐさだっただけ?)記事を
アップできなかった奈良県の史跡をご紹介していきます。
この企画は今回だけでなく、不定期にしばらく(時々)続くと思われます(笑)




今回は「文武天皇陵」です。

場所は明日香村の南部、石室壁画で有名な「高松塚古墳」のすぐ南側になります。


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田畑の中に文武天皇陵が見えてきました。
今回は南西側から文武天皇陵に近づいています。

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やや方向を変えて文武天皇陵を眺めています。
画像の奥、この先、すぐの所に(距離にして200~300m程度?)「高松塚古墳」があります。
高松塚古墳の更に北側には「真の文武天皇陵ではないか?」といわれる「中尾山古墳」があります。


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第四十二代の文武天皇陵は・・・
檜隈安古岡上陵(ひのくまのあこのおかのえのみささぎ)
というのですね。

ちなみに先の画像の所でも書いたとおり、近年、研究者の間では
真の文武天皇陵は中尾山古墳といわれています。

では、この古墳が、いまだに文武天皇陵と言われているのはなぜか・・・

明治時代に当時の学問水準(研究状況)などで比定されたまま宮内庁は新たに調査する気も
検討、対応する考えも、まったくないからなのです。
天皇に限らず被葬者を取り間違えたまま祀る・・・大変、失礼な話ではないでしょうか?
(もちろん、発掘したからと言って墓碑銘でも出てこない限り被葬者が完全に特定できるとはいえませんが)


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文武天皇陵の案内板
太陽の反射が写りこんでしまうので、読みにくいのですが、こんな角度で写しました(笑)

「文武天皇は707年、火葬の上、葬られたとあります」
なぜ、わざわざ「火葬にされた」と書かれているのでしょうか?

それは現在では一般的な火葬が当時はまだ珍しかったからでしょう。
火葬にされた天皇は文武天皇が二番目とされているようです。

では最初に火葬された天皇は・・・702年持統天皇が火葬にされた最初の天皇と言われています。
ちなみに火葬にされた最初の天皇、持統天皇は、ここから1キロほど北に天武天皇と合葬されています。
(天武、持統合葬陵=檜隈大内山陵「ひのくまおおうち」)
こちらは過去の資料などから考古学上も被葬者は天武、持統天皇で間違いないだろう、
といわれているようです。

※今回終わり