18日は新城市西部周辺で歴史サイクリングに行ってきました。
うでこき山(桜渕公園)から少し西に戻り一鍬田地区(ひとくわだちく)の
摩詞戸神社へ。
摩詞戸神社は「まかごじんじゃ」と読むのだそうです。
(創建年代はあきらかではない)
摩詞戸神社周辺には摩詞戸古墳群があります。
(かつて15基の古墳が有ったらしいが現在、残るのは8基程度らしい)
(かつて15基の古墳が有ったらしいが現在、残るのは8基程度らしい)
摩詞戸神社、裏山の林の中に摩詞戸古墳1号墳がありました。
摩詞戸古墳1号墳は横穴式石室を持つ古墳時代後期の円墳(径約12.3m)だそうです。
「よい子は、ここで遊ばない」との表示はあるものの意外にも石室入り口は開口しています。
(石室入口の石組みは、しっかり残っており周辺をブロックにて補強)
入り口は、とても狭いものの何とか入れそうです。
「よい子ではない」(笑)ので石室に入ってみることにします。
この辺りの、この時代の古墳に共通する造りの、しっかりした石室でした。
石室内部から羨道(外側)を見たところ。
入口付近は低いものの石室内部は170cm前後の高さがあります。
両袖式の石室であることがわかります。
あるようなので、あきらめました。
最後に向かったのが新城市豊島地区の野田城跡。
中央に見える木々に、おおわれた所が野田城跡。
(画像は城跡を南側、豊川右岸から見ています)
現在の国道は野田城跡の向こう側、奥にとおります。手前には飯田線が通ります。
古道、伊那街道は手前に通っていたようです。
この城跡周辺が三河と信州を結ぶ伊那街道が通る重要な場所だったことが判ります。
手前奥が二の丸、奥が本丸。
背後の谷には現在、お寺などがありますが、当時は小川をせき止めて堀にしていたとのこと。
野田城の有名な話・・・
小さな野田城ですが備えが固くなかなか攻め落とせない野田城を
武田信玄は、甲州の金堀人足に穴を掘らせ水脈を切って井戸を枯らせた。
城を守る菅沼氏は水も枯れ徳川の援軍も来ない為、城を明け渡したとのこと。
井戸は、けっこう大きく直径、4mぐらいはありそうでした。
野田城址の石碑。
右手の「のぼり」に「笛の盆」とあるのは
野田城の、もう一つの有名な話からでしょう。
それは・・・
場内の名手が吹く笛に信玄が聞き惚れ城近くまで進んだところ城内より狙撃されて
手傷を負い、それがもとで信州へ戻る間に亡くなると言う話。(諸説あり)
その時に使われた銃(と言う伝がある)は設楽原歴史資料館に展示されているとのこと。
野田城址本丸には野田城稲荷がありました。
三の丸、北東部。
遠景ではそれほどの高さに思えなかったかもしれませんが
城内から見てみると、かなりの高さがあり、その上、急斜面でした。
現在はは小川が流れていますが、こちらも当時は堰き止められ堀になっていたそうです。
これでは、なかなか攻められませんね。
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