コルサの毎日がヒルクライム

2009年01月

以前、ケーブル式のスピードメーターを2回にわたって十数種類取上げました。

今回、数は少ないものの、また、面白いメーターが手に入りましたので
ご紹介したいと思います。

その1
http://blogs.yahoo.co.jp/corsa2003sp/23959909.html

その2
http://blogs.yahoo.co.jp/corsa2003sp/24977229.html



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いままで+今回、ご紹介するメーターの中でも、とびきりの一品がこちら。

「VDO」 (ビドォーと発音?)

裏面を見るとスピードメーター側に「5.66」、時計側に「6 66」の刻印

がありました。

同型のメーターを、お持ちの関西のY氏にお伺いしたところ、これが製造年だそうです。


VDOは西ドイツの会社で自動車やモーターサイクルのメーターなどの製造で有名な会社。

左側が速度計。

針が右から左へ動くのが特徴です。

右側は、なんと時計。

手前のステーの切り込み部分をステムの引上げボルトに挟み込んで自転車に取り付けます。



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右側の時計部分のアップ。

上部に「MADE IN GERMANY」の文字が見えます。



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VDOのパッケージ

ゴムスタンプの「26」の文字が見えますね、当然、26インチ車輪用ということでしょう。

その下の小さなステッカーには「26」「DM 33.50」の文字があります。

26は先のゴム印のとおり、車輪径でしょう。

「DM 33.50」はドイツマルク33.50でしょうか?

ちなみに他の面には日本の販売店で記入されたと思われる\4,500の文字がありました。

60年代の4500円だとすると、当時の日本では、

かなり高価なものだったという事がわかります。



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こちらはサンヨー製。

目覚まし時計のように大型の物ですが機能的には他の物と変わるところはありません。

機能が変わらないと言うことは単に大きければよかったと言うことでしょうか?

そういえば70年頃?「大きいことはいいことだ」というCMがありましたね(チョコレートでしたか)

表示は速度、距離、回転計でライトもつきます。

でもいつも言うとおり、速度はともかく回転計っていったい・・・?

同じ速度でもギヤが違えばねぇ、当時はジュニアスポーツでも5段変速は当たり前なんでした。

それに表示数値が意味不明(笑)

50キロ出すと回転は400回転になるらしい(笑)



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こちらもサンヨー製です。

これも速度、距離、回転計でライトもつきます。

ただ、先のモデルに比べて非常にコンパクトな物です。



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またまたサンヨー製。

以前に紹介したものもサンヨー製は、たくさんありました。

サンヨーはライト、ブザー、スピードメーターなど自転車用品にも力を入れていたメーカーなんですね。



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このメーターはシンプルなデザインで非常に惹かれる物があります(笑)

ケースの色使いも秀逸ですね。

このメーターの特徴は距離表示が縦であること。

デザイン上の特徴を出す為にわざわざこの設計を採用したのでしょうか?

先日、H氏から
「クランクのネジが駄目になってBBシャフトが抜けないけど、なんとかならないか?」と
依頼がありました。

今回、いろいろ小物部品をいただいたこともあり、断れず(笑)引き受けることにしました。


問題はクランクの拭き工具が入るところのネジが駄目になっていることです。

念の為?、工具をねじ込んでみましたが、やはり工具が効くほどネジ山は残っていません。

それならスギノより、ネジ径の大きいTAやストロングライトの抜き工具を
ねじ込めないかと思ったのですが、これも無理でした。

それでは次にBBシャフトにクランク固定ボルトを、ねじ込んでからクランクを万力に固定、
ボルトの頭をプラスチックハンマーで叩いてみます。

しかし、これは予想通り簡単には外れません。
案外、このテーパーで勘合する方法というのはしっかり止まるんですね。
クランク固定ボルトのネジがシャフトに、それほど噛んでいないのであまり
叩きすぎるとねじ山を駄目にしてしまうので、この方法も諦めます。


工具に詳しい方なら、ここまで読んで
「ベアリングプーラーを使えば良いんじゃないの」と言われるかもしれません。
もちろん、ベアリングプーラーがあって、うまくセットできれば
(クランクの内側の形状に、しっかりツメがかかれば・・・)
簡単に抜く事が出来そうですが残念ながら手持ちがありません(泣)


それでは、いよいよ仕方有りませんので荒っぽい作業で行くことにします(笑)



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まずはカナノコでクランクの上部をカット。
それからBBシャフトを傷つけないようグラインダーで少しずつクランクを削っていきます。



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ギリギリまで削ったところでBBシャフトを軽くプラスチックハンマーで叩いて見ます。
BBシャフトは丈夫ですから少しくらい叩いても曲がることはないはずです。



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軽く叩くとギリギリまで削ったアルミに亀裂が入りました。



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こうなれば、もう大丈夫(笑)
半端のクランク固定ボルトをねじ込みます。



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それではボルトの頭をプラスチックハンマーで軽く叩いてみます。



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はい、一丁上がり!

これにて、
貴重な初期型?プロダイナミックPT-68シャフトを救出、完了です。

久しぶりに天狗党メンバーでサイクリングに行きました。

目的地は静岡県の浜名湖北部。
隣の県ですが豊橋市からは峠を越えれば片道20キロ程度の気軽なルートです。
集合地点は豊橋市役所に近いK君のお店の駐車場。

ここから豊橋市内を抜けて、まずは多米峠を目指します。
多米峠は、豊橋地区のサイクリストなら一度は越えたことのある?という峠です。



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多米峠の東側(静岡県)。
峠自体は、それほど標高も高くなく越えるのは簡単ですが豊橋と静岡県を結ぶ
ルートとして結構、交通量が多いので緊張します。



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奥浜名湖の瀬戸地区、通称「赤橋」
今日は昨日とうって変わって風も弱く、やや暖かい。まさに春の海?



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我々は赤橋ではなく平行してかかる旧道?の通称「銀橋」を渡ります。
ここは狭いので信号による一方通行です。
右が浜名湖、左は猪鼻湖になります。



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裏道を、のんびり行きます。
右手はもちろん浜名湖です。
近年、平行する有料道路が無料になった為、こちらの裏道は、
あまり通る人もなく車が少なく快適です。




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食事処に寄るには、まだ少し時間があったので東名高速の浜名湖SAに立ち寄ります。
ここも今では外から利用できるようになっています。
ただし、自転車の服装では気恥ずかしく、早々に退散(笑)

これは浜名湖サービスエリアから見た画像です。
東名高速の橋が見えていますね。
右側の気に隠れている山が舘山寺温泉の北側にある大草山でしょうか?

ちょうどよく時間がつぶせたのでK君お勧めのうなぎ屋さんで食事。
(画像なし すみません)



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食事後は、本坂峠を越えて帰る予定です。
朝は穏やかだったのですが西風が出始めて(向かい風になる)走りにくくなってきました。

やっとの思いで向かい風+登り坂の本坂峠旧料金所の所まで登ってきました。
ここで某一名はトンネル(無料になった方)に、残りの5人は旧道を登ります。

ここで、もとイタリアのチームに所属していた
K林君が登りの走り方をレクチャーしています?



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K林君を先頭に皆で上り始めます。

画像を撮っているコルサも、もちろん、この後、旧道チームを追いかけます。



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本坂(旧)トンネル豊橋側。
皆で写真を撮ろうと思いましたが西側から吹き上げてくる風が強く、
冷たく皆さっさと下って行ってしまいました。
しかたなく(笑)トンネルの画像だけでも押さえておきます。



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下りきって、新トンネルを通って楽をした某一名とも無事合流。

少し下って姫街道「すせ宿」で記念写真を撮りました。



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途中、喫茶店で休憩して無事、豊橋市内まで戻ってきました。

ちょうど市役所前の信号待ちで市電が前を通っていきます。
久しぶりに見たら結構モダンな電車が走っているんですね(笑)
更に最近導入された新型車両もあるはずです。


というわけで久々の天狗党サイクリング。
天狗党も高齢化でガンガン、レースに参加する人は少なくなってしまいました。
これからは、こういったサイクリングも(の方が)いいですね。

その1より続く
(その2)で回ったところ

鳶ヶ巣山砦 ~ 鳥居強右衛門磔死之跡碑 ~ 新昌寺にある鳥居強右衛門の墓 ~馬 場美濃守信房の墓
~ 小山田五郎兵衛昌晟之墓 ~ 横田十郎兵衛康景之碑





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さて、今度は長篠城本丸から見た鳶ヶ巣山砦に登ってみます。

ちょっと画像ではわかりにくいのですが現在、段々畑のようになっているのは
武田軍が構築した防御の為の「切岸」だといわれています。

長篠城攻撃の為、想像以上に大規模な、このような工事が行われていたとは驚きます。



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現在の鳶ヶ巣山頂上付近
ここに武田軍の砦があり武田信玄の弟、武田信実などがいましたが、
織田軍の酒井忠次による奇襲攻撃により討ち死に。

残念ながら杉林になってしまい、まったく見通しがありません。

合戦当時は切り払われて長篠城が良く見えたことでしょう。
画像のように地面が平らにならされているのは砦を構築した際の作業によるものかもしれません。
実際、まわりを歩いてみると自然の地形とは思えず人の手が入っていることを感じさせます。



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鳶ヶ巣山から、やや東の方向になる山から見た長篠の町。

中央付近に見える町並みの、やや左よりに長篠城があるのですが
手前の樹木で残念ながら見えません。

帰ってきてから知ったのですが(残念)鳶ヶ巣山の中腹、やや西側からだと
現在も長篠城が見渡せるようです。
いずれ、もう一度登って「切り岸」を確認しながら展望を見てきたいと思います。

画像の中央、やや手前寄りにある、こんもりとした森が大通寺のあるところ。
大通寺山にも武田軍陣所があったらしい。
ここは、もう長篠城と接していると言っていいほど近い。



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鳶ヶ巣山山中の道路脇にあった山火事注意の、のぼり?を、よーく見ていただきたいですね。

「一筆啓上 山火事注意」と、あります。

この文面を見て「にやり」としたあなたは、さすがです。


この元ネタは長篠の戦いに参加した徳川方の武将「本多作左衛門重次」の有名な手紙でしょう。

「日本一短い手紙」?として知られる、この手紙は長篠の戦いの陣中から妻あてに書いたものです。

その手紙を、ご紹介しましょう。

「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」

この手紙を元ネタにした地元、「新城市消防本部」「新城防火協会」 なかなか、やりますね(笑)



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最初にも書いたとおり

「長篠の戦い」「設楽原の戦い」は織田信長が大量の鉄砲を効果的に使い、武田勝頼の
騎馬隊を打ち破り大勝したことで知られていますが、この合戦には、
もう一人重要な人物が存在していました。

詳しくは画像の文面を読んでいただければと思います。


磔にされた姿は髪の逆立ち具合などから「逆さ磔」だったと言う説もあるようです。



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こちらは長篠城跡内にあった鳥居強右衛門についての説明



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長篠城南西側、対岸にある、「鳥居強右衛門磔死之跡碑」
このあたりで、磔にされたようです。



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新昌寺にある鳥居強右衛門の墓。

鳥居大権現の文字もありました。



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長篠の西側にあった武田方の有力武将「馬場美濃守信房の墓」

馬場美濃守信房は敗走する武田軍の殿(しんがり 最後尾のこと)を務め
大将勝頼の退却を見届けた後、戦死。

実際に討ち取られたのは、もっと北の方で、そちらにも墓があるそうです。
ここには首が葬られているとのこと。



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飯田線鳥居駅の近くの民家の間にあった

「小山田五郎兵衛昌晟之墓」

「横田十郎兵衛康景之碑」

不勉強で良くわからないのですが武田軍家臣で長篠城の南西側を監視して武将のようです。



今回の長篠付近、探索はこれで終了。
次回は、今回見逃した場所+いよいよ、両軍決戦の古戦場に行く予定です。

少し前になりますが1月12日は
愛知県新城市の「長篠城」周辺に行ってきました。

(その1)で回ったところ   長篠城~天神山~医王寺~医王寺砦

ここは有名な「長篠の戦い」の舞台になったところです。
「長篠の戦い」を簡単に、ご説明すると
1575年 現在の愛知県新城市にある小さな城、「長篠城」をめぐり
武田勝頼と織田信長、徳川家康の連合軍が激突した有名な合戦のことです。

一般的には織田信長が大量の鉄砲を効果的に使い、武田勝頼の騎馬隊を打ち破り
大勝したことで知られる戦いです。

長篠城は三河地方の小さな城ですが大きな合戦の原因になったのはなぜでしょうか?
長篠城周辺は武田軍にとって信濃、美濃方面(または遠江)から三河に攻め入るには
絶好の場所であり、裏を返せば徳川軍としては武田軍が三河に攻めてくるのを防ぐ重要な拠点が
長篠城だったようです。

1575年、武田軍は東三河に進攻、長篠城を包囲します。
激しい攻撃に落城寸前になりましたがこの状況を岡崎城の徳川軍に知らせることに成功。
織田軍(すでに畿内から岡崎に到着していた)と徳川軍が長篠城救援に出動します。
そして、長篠城から西に約3キロほどの設楽原(設楽原の戦い)で両軍が激突することになります。


今回は長篠城と医王寺(武田勝頼本陣)、鳶ヶ巣山(武田軍の砦)等をめぐりました。
有名な合戦の舞台となった設楽原は、時間切れで、また後日訪ねる事にします。



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長篠城を南西側から見たところ。正面中央に長篠城がありました。

右に売連川、左に寒狭川(豊川)が流れ、深い谷は容易に攻めることは出来ません。
(武田軍は画像右手、画像左手ともに川の手前側にも軍をおき完全包囲した)



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長篠城に入り本丸から本丸土塁を見たところ(南から北を見る)。

一枚目の画像を撮ったところは(川を越えた)背中側に当たります。



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本丸土塁、堀を東側から見たところ。
右側には二の丸、帯郭、弾正郭などがありました。

手前に、わずかに飯田線の線路が見えています。

1枚目の画像の谷は左側になりますから基本的に攻撃は、この画像の右手側から
(北側+東側中心)行われました。



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本丸から南東側を見ると武田軍の砦があった鳶ヶ巣山が見えます。
(鳶ヶ巣山には後で登って見ます)



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さて、長篠城を見て今度は北上します。

ここは長篠城から北に進んだところで荏柄天神社のある天神山。

今は杉林で遠望はききませんが長篠城が見下ろせたところで武田軍の
天神山陣地が築かれました。



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天神山から北東に進むと、すぐに武田勝頼が本陣をおいた医王寺があります。

医王寺の裏山に武田軍は医王寺砦を築いていました。



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医王寺砦に登ってみましょう。
かなり険しい山道です。



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医王寺砦にはヤグラが復元されていました。



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ヤグラに登ると、あたりが一望できます。

真ん中に見えるのが先ほど登った天神山陣地です。
その先に長篠城があります。

また、合戦の舞台となった設楽原は、ここから、やや右手になります。

当時、砦を築いた際には木は切り払われたでしょうから長篠城から
設楽原、鳶ヶ巣山なども一望できたと思われます。



「その2に続く」

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