コルサの毎日がヒルクライム

2009年06月

奈良県サイクリングシリーズ?、今回は「箸墓古墳」を取上げます。

奈良盆地の東南部、三輪山のふもとに作られた大きな古墳です。

三輪山の大物主神(おおものぬし)に使えた巫女で妻でもあったと伝えられる
「倭迹迹日百襲姫命」(やまとととひももそひめのみこと)の墓であるとされています。

ただ、その大きさ、作られた時代から一般的には「卑弥呼の墓ではないか?」
と語られることも多い古墳です。



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纒向(まきむく)古墳群から少し南下したところから眺めた箸墓古墳です。
全長約280m、奈良県内で3位、全国でも11位といわれる巨大古墳です。



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宮内庁では第7代孝霊天皇の皇女「倭迹迹日百襲姫命大市墓」
(やまとととひももそひめのみことおおいちのはか)としています。

天皇陵と同じく墳丘への立入は一般人はもちろん、研究者も禁止されています。
その為、過去に10回以上の調査が行われているようですが、いずれも周辺部に限られていて
石室などの状況はまったく判っていないようです。

ただ、2度ほど宮内庁による墳丘への立入調査も行われているようで、
その際、壺、埴輪の破片などが採取されているそうです。

しかし、現地に行ってみれば柵があるとはいえ簡単に乗り越えられる程度ですし急斜面でも
登ろうと思えば登ることは容易でしょう。
発掘調査を受けないうちに心無い人間に荒らされたり盗掘されなければいいのですが。



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近くでは全景が収まらないほど巨大な古墳で左が後円部、右が後方部になります。

この古墳は日本列島で「最初で最大の定型化した前方後円墳」といわれてます。

日本書紀の中では「昼は人が作り、夜は神が作った」という伝承があるそうです。
また大坂山から箸墓古墳まで人が並んで?手渡しで石を運んで作られたとも言われています。



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珠城山古墳群から見た箸墓古墳(後円部側より)
右の山は大和三山のうちの「耳成山」、古墳と耳成山の間に見えるのが同じく
大和三山の畝部山でしょうか?

箸墓古墳は、かつて築造時期が3世紀後半から4世紀前半と推定されていたこともあり
卑弥呼の時代とは合わないと言う意見もありました。
しかし、最近の研究では3世紀の中頃に築造とする意見も出され一部では?
卑弥呼の墓説は今も根強いようです。
(卑弥呼 一説には3世紀中頃 248年頃没とも言われる)



「盗掘など荒らされて後悔しないうちに研究者の立入り調査が許可されると良いのですが・・・」

古いサイクルショップの紙袋が手元にあります。
これが、なかなかいい味を出しているので皆さんに、ご紹介したいと思います。



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右側の小ぶりなのは、トモダさんの物だと思われます。

左の2点は2枚目の画像のように「WANGEL-CHAIN」の文字がありますから城東輪業さんが
販売店向けに作った物だと思います。
(ベージュの物にはショップさんの名前が印刷されています)

このイラストはダニエル ルブール氏のものだと思われます。
当時、ちゃんと許可を取って使用していたのでしょうかねぇ?



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この写真はトモダさんのカタログの表紙に使われている物と同じですね。



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当時としては普通だったのかもしれませんが(当時としても珍しい物もあるでしょうが)
今となっては、お宝になってしまった物がいっぱい写っていますね(笑)

いま、この部品と、あの部品が手元にあればなぁ・・・・




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トモダさんのカタログがありました。
やはり紙袋と同じ写真ですね。

中の「ごあいさつ」のページに「S.49.4」とありますから1974年発行の
カタログなのでしょう。
残念ながら、このカタログ、裏表紙はコルサが入手時にはすでになくなっていました。



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カタログの中を少しだけ・・・



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ネルバーの5ピンクランクのCW、フリーは英国製のTDCのように見えます。
いずれも日本国内ではあまり流通していなかった部品ではないでしょうか。



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グリーンの袋は裏表、絵が違っています。
こちらにはイデアルのサドル、リジダのリム、CLBのブレーキ等がかかれています。



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ベージュの方は裏表とも同じ絵柄になっていました。
裏返しのCWはカンパのインナー44T時代(PCD151)のレコード、珍しいトリプルですね。



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面白い物を見つけました。
なんと我らがサンツアーのグランプリRDではありませんか!
60年代と思われるサンツアーを書いていたとは。




当時の少年達は必死で貯めたお小遣いやバイト代で買った大切な部品や用品を、
この袋に入れてもらい少し興奮しながら帰宅したのでしょうね。

(そういえばシマノなどにも紙袋がありましたねぇ)

先日の奈良行きで回った古墳のうち、奈良盆地東南部、三輪山のふもとにある
纒向(まきむく)古墳群、箸中古墳群、柳本古墳群を中心に訪ねた画像をアップします。
ただし天皇陵(先に記事をアップ済み)、箸墓古墳(後日アップ予定)はのぞきます。

纒向(まきむく)遺跡は奈良盆地東南部に3世紀初めごろ出現し、4世紀前半に姿を消した
巨大集落跡だそうです。
その巨大な遺跡は当時の一般的な集落とは異なり国内最初の「都市」との見方もあるそうで、
邪馬台国(やまたいこく)論争での畿内説の根拠の一つともなっています。

纒向(まきむく)遺跡からは
①関東から九州までの各地域の土器が多数出土すること、
②土木工事用の工具が多数出土すること、
③古墳時代初期の前方後円墳が多数、築造されたことなどから
 「ヤマト政権」成立の都市跡とも言われる非常に興味深い地域です。

(全国各地の土器が多数見つかる=全国から人が集まった3世紀の都市=纒向こそが邪馬台国と言う説)

※※私の思い違いなど、明らかな間違いなどに、お気付きでしたら、ご遠慮なくご指摘ください。



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「纒向石塚古墳」
 全長約96m
前方後円墳ですが通常のものと少々形が異なる為、「纒向型前方後円墳」と
呼ばれているようです(周辺の古墳も含めて)。

纒向石塚古墳が「思わず、どこが古墳?」と思ってしまうほど低いのは戦時中に
高射砲陣地!?を作る為、削り取られたのだそうです。
明治時代の資料では墳丘高さは現在の倍以上、6m以上あったとされているようです。



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「纒向大塚古墳」
 全長約96m
纒向古墳群の古墳は周辺の古墳とほぼ同じ規格(形状、大きさ)を持って
作られていたと言われています。



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「纒向矢塚古墳」
 全長約96m
纒向(まきむく)古墳群は弥生時代の築造と言われていた時期もあったようですが
発掘調査の結果、現在では3世紀前半と推定されているようです。
(近年の研究でも諸説あります)



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「纒向勝山古墳」(左側) 右は「纒向矢塚古墳」
  全長約110m



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「ホケノ山古墳」
 全長約80m
先の4ヶ所の古墳からやや東に離れていますが纒向古墳群に含まれています。
ここには発見された埋葬施設が再現されていました。
※訂正します。すみませんが上側の画像はホケノ山古墳の墳丘ではありません。
(削除しようとしましたが他の画像にもなぜか影響が出てしまう為、そのままにして訂正文を追加します) 


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「茅原大墓古墳」
 全長約66m
 帆立貝式前方後円墳
 箸中古墳群に属する。



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「珠城山古墳群」 
 柳本古墳群に属します。
 いずれも前方後円墳
1号墳から3号墳がありました。残念ながら3号墳は、ほぼ滅失。
三基の古墳はいずれも6世紀後半?
1号墳 約50~55m、2号墳 約80~85m、3号墳約55~60m



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珠城山1号墳は後円部に石室を見る事が出来ます。



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「櫛山古墳」
柳本古墳群に属します。
崇神天皇陵の東側に隣接するように存在していることから崇神天皇と関係が深かった
有力者の墓?との説があります。
全長約155mの大型古墳で左が前方部、右が後円部になります。
墳丘が大きすぎて全体像が納まりませんでした。
基本的には前方後円墳?ですが前方部の反対側にも大きな祭壇部分がある為、
双方中円墳とも呼ばれています。 



今回は大和古墳群(おおやまとこふんぐん)(柳本支群)のなかでも多数の鏡が発見されて
有名な黒塚古墳には時間切れでいく事が出来ませんでした。
(もう一度現地に行く理由作りの為、あえて残した? 笑)

黒塚古墳からは卑弥呼の鏡と言われる「三角縁神獣鏡」が33面も出土したそうです。
その為でしょう、「天理市黒塚古墳展示館」という施設が作られているようです。
これは、やっぱり、もう一度行かなければ(笑)

小学生の頃から憧れていた(笑)石舞台古墳を初めて、この目で見る事が出来ました。

小学生の時、母が買ってくれた歴史の本で見た、あまりに異様な姿が印象的で、
ずっと記憶に残っていたのです。



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石舞台の名前の由来は「月夜の晩に狐が、この上で踊っていたから」(笑)
とか諸説があります。



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被葬者は蘇我馬子で間違いないだろうといわれています。

理由としては

①古墳の所在地、島庄地域には蘇我馬子の屋敷があったといわれていること。
(島庄は蘇我氏の所有地だったらしい)
②巨石を使った大型古墳であること
③7世紀前半に作られたと推定されていること
 (馬子は626年没とされる)

等があげられています。
以上から当時、天皇に匹敵する権力を持つ者、蘇我馬子の桃原墓の
可能性が高いと言われています。



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約4.7mあるという玄室の高さには驚いてしまいました。



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形式は両袖式横穴式石室でした。
実際行ってみて初めて玄室内部三方の壁沿いに排水溝が設けられていることを知りました。
画像のように羨道中央には排水溝が設けられています。
子供の頃は、この排水溝が異質に思え観光用の為、現代になって作られた物かと
勝手に思っていましたが、そうではありませんでした(笑)



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少し離れた丘から見た画像。
一般の人は、その石室の天井石の巨大さに関心を示すだけのようですが・・・
まわりにも少し注意して、いただきたいのです。

まわりには幅の広い空堀があります(その更に外側には堤があります)
これは古墳築造時からの物だそうです。
だとすると、その形から、この古墳の基礎部分は方墳だった事が判ります。
(一辺約55mあるそうです)
上部の土は失われていますから墳丘上部がどのような形だったかはわかりません。
(方墳だったのか上円下方墳なのか)

また石室の天井石がむき出しになっている姿は本来の古墳の姿ではありません。
これは蘇我氏への怒りから後年、墓が壊されたからと言われています。

ただ、コルサの妄想では
「本当に盛土が崩されたのか?もともと完成しなかったのではないか?」
と思ってしまうのです。
でも当時の蘇我氏の権勢(馬子、蝦夷、入鹿と続く)から見れば、
何らかの理由で未完成で終わるということは、まず考えられないでしょうけど。

完成した古墳を現在のような姿に破壊するのは簡単ではないはずです。
では、それを命令した権力者は誰だったのか?・・・・



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戦前の発掘調査で、たいらに加工された石材(凝灰岩)の破片が石室から見つかっているそうです。
そこで、同時代の別の古墳の石棺を参考に再現したものが南側に置かれています。



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石舞台古墳から北西150m程のところから20年ほど前、島庄遺跡が発見されています。
ここは嶋宮と呼ばれた離宮跡と推定されています。
この離宮は蘇我馬子の邸宅跡地に立てられたのではないかといわれているようです。

乙巳の変(大化の改新)後、馬子の邸宅は取り壊され天皇家に接収され
離宮として作り直されたと推定する説があるようです。
これと時期を同じくして石舞台古墳も破壊されたのでしょうか?
(離宮造営に墳丘土も使われた?これはコルサ個人の妄想ですが)

それはともかく島庄は今でもこのような雰囲気です。
このあたりの道も飛鳥時代の道と、それほど変わっていないのかもしれません。

先日、遊びに寄って下さった田爺さんに、ドイツのWERA(ヴェラ)のドライバーを
いただいたことは記事に書きました。

WERA(ヴェラ)の記事→ http://blogs.yahoo.co.jp/corsa2003sp/32055293.html

実は、もう一つ「ドイツブランド」の、お土産をいただいていたのです。



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それが、これ。
ドイツの一流工具メーカー「HAZET」(ハゼット)の「190L-1」です。

えっ、画像では「なんだか、わからないって?」それでは・・・



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ジャーン、これがハゼット「190L-1」の全貌です!

そう、ドイツ製「おか持ち」なんです(笑)
輸入元では「トートトレー」と呼んでいるようですが。



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上から見るとこんな感じ。
寸法はW390×D290×H215ミリ程度。



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横から見たところ。



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ステイ部分は2重になっており、アルミの持ち手を包み込んでいます。
この構造でプラスチック製とはいえ、かなりの荷重に耐えてくれそうです。



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ふちの部分はメジャーになっていて便利です。
こちら側は「INCH インチ」(13インチ)、反対側は「CM センチ」(33センチ)に
対応しています(笑)



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サイクリストの正しい使い方・・・



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もちろん、整備の場所だけでなくキャンプ場、部屋の中、お店でも?
使い方は使う人のアイディアによって無限です(笑)

今回、コルサがいただいたように友人、知人へのプレゼントにも
気がきいているのではと思います。


このハゼットの「おか持ち」、コルサは、ずっと気になっていたものなので
本当に嬉しかったですねぇ。
田爺さん、どうもありがとうございました。
大切に使わせていただきます。

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