コルサの毎日がヒルクライム

2013年06月

「日吉神社から西の民家の畑にある」という古墳を探しに先ほど
走ってきた道を戻ります。

来る時、気が付かなかったので、きょろきょろ両側を見ながら戻ります。

気になる場所はいくつかありましたが決め手がありません。
あきらめかけた時に民家の倉庫前に遺跡の案内看板を見つけることが出来ました。

ちょうど良いことに民家の方が古墳の上の木の枝を刈っています。
早速、声を掛けて古墳見学の許しをいただきます。

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道路側から見た不幸寺塚古墳(ふこうじづかこふん)

道路から少し入っている上に畑や倉庫の影なので、最初通ったときには
気がつかなかったのでした。
古墳時代後期の横穴式石室を持つ円墳(直径約20m)だそうです。
ただし、現状3分2ほどは失われていて当時の形をとどめていません。
案内板には明治時代には「人骨、金環、銀環、などが石棺内にあった」と
書かれていますが現在は何もありません。
「石室内には直刀」などの記述もありましたから当時は石室も、
もう少し原形を留めていたようです。
民家の方に伺うと
「戦後の、どさくさ時に盗掘にあったらしい」
とのことでした。
重要な遺物が、つい戦後まで残っていたのに散逸してしまったのは
非常に残念なことです。
(古墳自体は、その民家より可児市に寄付されたとのこと)

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民家敷地に入れてもらい石室入り口、やや側面側より。
画面左手の土がほとんど失われ石室の石材が見えています。
細かな石を使った積み石は後の物で古墳築造時のものでは有りません。

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石室入り口を見ます。
石室上部の天井石が何枚か失われていますが石室入り口付近の天井石は
残っており門のようになっています。

奥に見える自然石のような石が石棺です。

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石棺には盗掘者があけたのでしょうか?
直径10センチほどの穴があいています。
石棺は凝灰岩質砂岩で作られており外観は自然石のまま、のように見えますが・・・

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穴からカメラを突っ込みフラッシュ撮影を試みました。
外観は自然石のままのように見えた石棺も内部は綺麗に整形されて
積み上げられていることがわかります。
この2枚の画像では、どこから盗掘者が入ったのか、わかりません。
(民家の方にも聞き忘れました)

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墳丘の上に登らせてもらいました。
石室上部の天井石が、すっぽり失われていることがわかります。
(中央、草が生えている所が石室内)

※可児市、古墳めぐりサイクリング終わり。

前波三ツ塚、御隠山古墳群とまわり、さらに東南方向に進むと羽崎地区と
いうところがありここに羽崎古墳群があります。

まずは古墳を探す目安となる羽崎日吉神社を見つけます。

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羽崎日吉神社を見つけましたが・・・
奥の建物は社らしくありません??

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近づいてみると、さらに神社らしくありません・・・

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回りこんで境内から見ると・・・
ここは、江戸時代に庶民の娯楽として盛んだった村芝居の舞台なのだそうです。
ここの舞台は棟札から1868年の建物だということが判明しているそうです。
舞台の正面は本殿と相対しており神様が特等席になっているのでした(笑)
(残念ながら今は舞台は使われていないようでした)

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神社から左手の山中に羽崎中洞横穴墓(はざきなかぼらおうけつぼ)があります。

凝灰岩質砂岩(比較的、柔らかい)の崖に掘られた横穴で古墳の横穴式石室に
似た構造となっています。
この辺りには20基以上の横穴墓が知られているそうですが、この羽崎中洞横穴墓は
全長15m近くも掘られており最大級のもののようです。
珍しい、お墓なので時代を判断しかねますが案内板によると
古墳時代後期のものとされていました。

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きれいに見える白っぽい部分は近年、コンクリートで補強したものです。

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普段は入ることは出来ませんので内部の参考画像です。
内部には石棺が岩盤から削り残される形で作られています。
玄室、周囲の壁も一部コンクリートで補強されているようです。

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ここ、羽崎中洞横穴墓だけではなく周辺の崖では横穴をいくつか見かけました。

これらは先にも書いた「20基以上の横穴墓」の、ひとつなのか、
それとも倉庫代わりに掘られたものなのか?
ちなみに蓋をされた画像の穴の中には草刈り機などがしまってありました。


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さて、羽崎日吉神社本殿の裏山にあるという次の古墳を探します。
社の手前、左手を登っていくと薄暗い林の中に・・・
円墳らしき盛りあがりを見つけました。

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近づいていくと横穴式石室があらわになった羽崎日吉古墳がありました。

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ここの古墳の特徴は・・・
今日、三タイプめ?、の石室だということでしょうか?
①川原の石を積んだ石室、
②山の石をそのまま積んだ石室、
そして、
③「凝灰岩質砂岩を整形して積み上げ」ているのがわかります。
石室の規模が、かなり小さいのも特徴でしょうか?

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最後に訪問した可児市郷土館にあった、ここ羽崎日吉古墳から出土した家型石棺(中央奥)。
石室も狭かったように石棺も小ぶりで被葬者を子供と考える説もあるようです。


さて、羽崎地区には、もうひとつ古墳があるはずなのですが・・・

手がかりは「日吉神社から西の民家の畑にある」と言うことだけなのですが。
「民家の畑にある」というのが気になります。
もう一度、今来た道を戻って探してみることにします。

※つづく

次に向かったのは前波三ツ塚から南に1キロほどはなれた自然丘陵にある
御隠山古墳群(みかくしやまこふんぐん)です。
現在、周辺は「歴史と文化の森」という公園になっています。
その中の歴史ゾーンに二基の古墳があります。

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両側が古墳で中央は古墳ではありません。
中央の整地された部分は、かつて使われていた上水道施設(貯水槽)の跡のようです。

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北側にあるのが御隠山御嶽古墳です。
古墳時代前期の二段築成の円墳(直径36m)だそうで、過去の調査で多くの副葬品が
発見されているそうです。

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御隠山御嶽古墳は上部に御嶽の神社が祭られている為、付いた名前だそうです。

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南側が御隠山白山古墳。
こちらは(左手の奥)、かつて白山神社が祭られていた為、
このような名前で呼ばれているそうです。

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御隠山白山古墳は、やはり古墳時代前期の二段築成の円墳(直径42m)だそうです。
こちらも、過去に多くの副葬品が発見されているそうです。

両古墳とも現在見ると、それほど大きく見えませんが比較的、大型の円墳でした。
そのうえ両古墳とも多くの副葬品が発見されています。
そして、先に見た前波三ツ塚と時代的には、ほぼ同時代とのことです。

これは、何を表しているのでしょうか?
前波三ツ塚は平野部にあり前方後円墳2基(+前方後方墳)、
対して御隠山古墳群は丘陵上にあり円墳、ただし副葬品は、とても立派だった。
私が妄想するに・・・前波三ツ塚は前方後円墳(大古墳の長塚古墳もある)が主体ということで
ヤマト政権との密接な関係を持つ人物の墓、ということが想像されます。
また円墳でありながら副葬品の豊富な御隠山古墳群はヤマト政権との結びつきは
前波三ツ塚の一族?よりは希薄なものの地元豪族の墓・・・
まあ、素人考えなんですけど(笑)

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御隠山の二基の古墳からは少しはなれていますが(500mくらい?)南西に向かうと
次の古墳が見えてきます。

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こちらは古墳時代後期の円墳(直径約30m)、熊野古墳です。
天井石、石室の石材が露出していて、かえって、すごさが伝わってきます。

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最初に見てきた次郎兵衛塚1号墳とは違い使われているのは丸い川原の石ではなく、
ごつごつした山の石が使われています。
(次郎兵衛塚1号墳からの距離は3、4キロほど遠い程度に過ぎないのですが)

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古墳時代後期古墳ということで立派な横穴式石室(全長約13m)です。
内部には入れませんが石室内が観察できます。


まだまだ、可児盆地は考古学ファンを楽しませてくれる遺跡があります。
東南へ自転車を走らせましょう。

※つづく

朝一番で川合地区の次郎兵衛塚1号墳を見学。

つづいて南東へ2.5キロくらいの場所にある古墳群に向かいます。
この古墳群は前波三ツ塚(まえなみみつづか)と呼ばれ、その名からも
推測されるとおり代表的な三つの古墳から形成されています。

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まず、見つけたのはお寺の敷地にある西寺山古墳(にしてらやまこふん)。
古墳時代前期の前方後方墳なのだそうです。
(前方後円墳ではありません)
現在の姿は、どちらに後方部が広がっていたのかも判らないほど削られていますが
調査の結果、全長60mもあったとのことです。

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現在の墳頂部の様子。

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墳丘には先に見学した次郎兵衛塚1号墳と同じように川原石が葺石として
使われています。
(こちらは、ずいぶん小ぶりな石が多いようですが)

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西寺山古墳から北を見ると・・・こんもりとした山が見えます。
これが多分、次に訪ねるべき古墳でしょう。

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思ったとおり東濃地方、最大の前方後円墳、長塚古墳です。

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後方部(左)から後円部を見ます。
東濃地方最大の前方後円墳と言われるだけのことはあり現地の表示によると
全長82mもあるそうです。
(資料によれば72mとするものもある)

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墳丘に登り前方部から後円部を見ます。
全体によく保存されているようです。

国指定遺跡になっている長塚古墳ですが整備の予定もあるようですが・・・
樹木を切り倒し小奇麗な古墳公園としてしまうより
墳丘はこのままに、あまり手を入れないで保存していく方が良いような気がします。

墳丘に登った際、前方部に石材が見えていたのですが、かえって調べてみると
後円部(石室はなく粘土核に木棺)だけでなく後方部にも埋葬施設があるのだそうです。
(前方部の埋葬施設が石材による物かどうかは不明なのですが)

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さて、前波三ツ塚のうち、二つの古墳は見つけましたが・・・
最後の一つがどこかわかりません。

以前、読んだ本には、
「長塚古墳の西側にある」
「もともとは60m級の前方後円墳だったが大きく壊されている」
とあったのを思い出しました。
それならばと、長塚古墳の西側の住宅地を探索してみることに。
そして、見つけたのがここ。
こちら側以外は住宅地に密接しており探索できず詳細はわかりませんでしたが、
畑にしては不自然な地形なので、ここが野中古墳ではないかと・・・


なお帰宅して資料を検討してみると前波三ツ塚の古墳の築造順番は・・・
西寺山古墳(前方後方墳)→野中古墳(前方後円墳)→長塚古墳(前方後円墳)
なのだそうです。
前方後方墳から前方後円墳と変化していったことを考えると、この地域の首長が
ヤマト政権と関係を強めていったことが想像できます。
(前方後円墳の形はヤマト政権との関係が深いとされます)
※つづく

6月22日は岐阜県可児市に古墳めぐりサイクリングに
行ってきました。

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以前から見たかった・・・
まるでピラミッドのような異様な姿のここは・・・

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可児市川合地区の住宅地にある次郎兵衛塚1号墳(じろべえづか1ごうふん)。
古墳時代終期(7世紀はじめ)と推測されている古墳です。
(南側、公民館の外部階段、踊り場から見たところ)

一辺約30mの方墳(ほぼ正方形)(岐阜県下最大級の方墳)で
墳丘は二段、石室は三ヶ所にあります。

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先の2枚の画像は少し高い所から見ていましたので、通常の目線の位置から見てみます。
積み上げられた石の古墳は近づいていくと、けっこう威圧感があります。


中には、この石積みは後年の過剰な装飾と思われる方も見えるかもしれません。

ところが発掘中の画像でも土の間から、この石積みがはっきりと見てとれますから
造られた当時の姿ということになります。

現在の多くの古墳は草木や土に覆われていますからピンときませんが作られた当時は
表面に石を積み上げて装飾していた(ふき石)古墳も多いのです。

ただ、ここの古墳も基本的には土を盛り上げて作られており内部までピラミッドのように
石で積み上げられているのではありません。
全て石積みの古墳も地域によっては存在するものの、、それほど大型のものは多くなく
また、その数も多くないようです。
(東三河、旗頭古墳群など)

ここの古墳は見ての通り、丸い川原石を使っています。
この古墳の存在する場所の地名が川合というように、すぐ北には木曽川、飛騨川の
合流点があり、そこから運ばれた石なのだそうです。

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石室が3ヶ所あることは先に書きました。
その中で「主室」と呼ばれる最大の横穴式石室。

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その主室の内部。
石室内部には立ち入ることは出来ませんがスイッチがあり電灯で内部を観察することが
出来るようになっています。
外部と同じように石室内部も川原石を使って組み上げられています。

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むかって左側の石室で西副室と呼ばれています。

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向かって右側にある東副室。こちらは奥行きも浅く規模も小さい為、主室に埋葬された
人物の子供か孫の墓ではないかと言われています。

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古墳を北側から見たところ。
左手の柵より左は、普通の道路の歩道ですが・・・古墳からの丸石が敷きつめられています。
多分、これは古墳が作られたときからの物で発掘された、そのままを歩道にも
残しているのではないでしょうか?(私の妄想です)
面白いとは思いますが・・・自転車の走行には向きませんね(笑)

なお、この古墳には川合考古資料館(駐車場有)も隣接されており、
充実した資料を無料で見ることが出来ます。
(その展示は、この地にあった旧石器時代から、縄文時代~古墳時代の出土品などを見ることが出来ます)

さて、最初から、すごい古墳を見てしまいましたが、まだまだ興味深い古墳などを巡ります。
次の古墳に向けてペダルを踏むことにしましょう。

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