コルサの毎日がヒルクライム

カテゴリ: 古道サイクリング

記事のアップが逆になってしまいましたが4月9日は
旧東海道白須賀宿に行ってきました。

最初は、いつものトレーニングで20キロぐらい走ってくる
つもりだったのですが・・・
急に思い立って湖西市の白須賀宿にある「おんやど白須賀」という主に
東海道を歩く人向けの施設に行ってみることにしました。

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これは帰りに撮った画像ですが、かつての国道一号線潮見坂の様子。
現在は以前の浜名バイパスが一号線になり、ここは国道42号線に
格下げ?になったようです。
国道1号線の難所として知られた潮見坂ですが浜名バイパスが無料になって
1号線になったため、交通量は激減しているようです。
今回は、まずここを下り旧東海道に入ります。

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ここが東から東海道を歩いて来て右に曲がり潮見坂に入るところ。
まっすぐ行くと、かつての国道1号線(現在の42号線)、画像の奥に
現在の国道1号線の高架が写っています。
(ややこしい)

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こんなに標識が出ているのですが、まっすぐ歩いて来て唐突に
曲がるので見逃して道を間違う人が意外に多いのだそうです。
(国道の潮見坂が旧東海道の潮見坂と思い込んでいる人も多いらしい)

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右に曲がると旧東海道の難所、潮見坂。
見えている部分より更に上になるほど傾斜がきつくなってきます。

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途中で振り返るとこんな感じ。
遠くに太平洋が見えています。
西国から来ると初めて太平洋が望めるところなのだそうです。
景勝地として多くの紀行文にも潮見坂の地名が記され安藤広重の版画にも、
このあたりの様子が取り上げられていると言われているようです。

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ここから更に傾斜は増してきて・・・結構きつい(笑)

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登りきったところに休憩所、おんやど白須賀があります。
内部には休憩所、トイレ、そして展示室があります。
利用は無料ですが基本月曜休みで朝10時以降開館なのでご注意を。
(最近、トレーニング中に二度ほど立ち寄ったが閉まっていました。
今回、やっと開いているときに寄れた・笑)

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コンパクト?な展示ですが旧東海道や地元の歴史に関心がある方は
興味深いでしょう。
館長さん?も地元の歴史に詳しく話し込んでしまい気が付くと
2時間ほど・・・(笑)
また伺って周辺の史跡などに、ついて教えていただくことにしましょう。

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おんやど白須賀から西へ白須賀宿に向かっていくと景色の良いところが
あります。
太平洋が見え旧国道1号線(現国道42号線)が見えます。

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ここには潮見坂上の石碑群があります。
明治天皇が明治元年に休憩された記念碑などがあります。

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小学校の前で大正時代に作られたという潮見坂の峠道
(下部は旧国道1号線と、ほぼ重なっているらしい)
と合流し白須賀宿へ。
余談ですがもともとの白須賀宿は2、3枚目の画像のあたりの坂の下に
あったのですが津波でほぼ全滅した後、現在の場所へ移転したのだそうです。
画像は白須賀宿の中、曲尺手(かねんて)、意図的にクランク状に曲げた場所。

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白須賀宿を西側から見たところ。
こちら側より東側から見たほうが宿場の風情が
もう少し感じられるかもしれません。

今回はいつもの「コルサ探検隊」とは「やや流派が違う」友人たちと山の中に
残る古い道を辿ってきました。
今回の遊び場所は「千万町街道」と書いて
(ぜまんじょかいどう、あるいは、ぜまんじょうかいどう)
といいます。
大雑把に説明すると現在の新城市作手方面から岡崎市東端の
千万町町(ぜまんじょうちょう)を通り岡崎市街方面を結ぶ山の尾根を中心とした
古道です。
途中には山の中に点在する民家、耕作地などに通じる枝道が無数にあります。
戦国時代の「長篠の戦」の際、長篠城から岡崎城に情報を伝えた
鳥居強右衛門(とりいすねえもん)もこの道を通ったのではないかという説もあるようです。




前回、ご報告した通り本格的な山道の入り口は荒れていました。

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思った通り、最初から押し、担ぎに。

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山中の斜面には、かつて耕作地であったらしく石垣が何段にも連なっています。
道は少しは良くなったものの昨日の雨の為、とても滑りやすく大変です。

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尾根に出ました。
良い感じの古道が続いています。
昨日の雨の影響もほとんどないことからも、いにしえの人たちが尾根に道を
作った理由が理解できます。

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古道の様子。
起伏のある地形に土を盛って凹凸を減らし道が歩きやすくしてあることがわかります。

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マウンテンバイク、パスハンター、ミニベロ・・・
今回はコルサ探検隊と違って道案内を丸投げしているので気楽です(笑)

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古道を利用する人もめっきり減ってしまったようで倒木も多くあります。
利用しているのは林業関係者、猟師のわずかな人たちだけなのでしょう。
(このあたりの山中では以前、何度か猟師のグループに遭遇した)

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この辺りは、良い感じですが実際は枝、倒木等々で以前よりずいぶん
走りづらくなっていました。
マウンテンバイクですら降りなければならないところがたくさんありました。

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ここでは沢沿いの道が削られてしまっていました。

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山中の峠。
この先の日当たりの良い場所で休憩、昼食をとりました。

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先ほどの場所から木々の間に異様な崖らしき場所が見えたので単独で偵察に
行ってみると採石の跡でした。
岡崎市は良質な花崗岩の産地そして加工の町としても知られています。
(現在は中国やインドなどから輸入される石材の加工も多いらしい)

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いったん林道に出てしまい迷ったものの古道に再突入?
後半は比較的良い道で古道ツーリングを楽しむことができました。

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中古のユーラシアのフレームを利用して完成したばかり、今回が初の
山サイだったS氏のパスハンター。
TA、マファック、サンプレックス、ブルックス、サンシンLFハブなど
1980年代前半風の部品アッセンブル。
今となっては実走パスハンターとしては、「もったいない?」部品構成か?
中古のマウンテンバイクを買う日も近いのでは?(笑)

今回はいつもの「コルサ探検隊」とは「やや流派が違う」友人たちと山の中に残る
古い道を辿ってきました。
今回の遊び場所は「千万町街道」と書いて
(ぜまんじょかいどう、あるいは、ぜまんじょうかいどう)
といいます。

大雑把に説明すると現在の新城市作手方面から岡崎市東端の千万町町(ぜまんじょうちょう)
を通り岡崎市街方面を結ぶ山の尾根を中心とした古道です。
途中には山の中に点在する民家、耕作地などに通じる枝道が無数にあります。

戦国時代の「長篠の戦」の際、長篠城から岡崎城に情報を伝えた
鳥居強右衛門(とりいすねえもん)もこの道を通ったのではないかという説も
あるようです。

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まずは新東名東岡崎インターの北、桜井寺町から山に入っていきます。
画像は町名にもなっている桜井寺の様子。
813年に空海が開いたと伝えられる古刹なのだそうです。

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山中の集落、切越町の須佐之男神社

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須佐之男神社には「切越の夫婦ヒノキ」と言う天然記念物の巨木があります。

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さらに山中に向かって登っていきます。

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ここが一番奥の民家。

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一番奥の民家の前を通っていくと「切越の八面塔」と呼ばれる
構造物があります。
これは中世の何らかの祭祀によるもの、
平家の落人あるいは南朝の関係者の墓など諸説があります。

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さて、ここからは本格的な古道になりますが入口からして数年前に来た時より
はるかに荒れているのが不安です・・・

さて、この後はどんな道が続くのでしょう。

以前から古典ピスト走行会を行いたいと思っていますが競輪場を
借りることはなかなか難しく実行出来ていません。
(公営ギャンブルの舞台なので一般人を走らせる事は基本、考えていない為)

今回は朝練習の時間に古典ピストを持ち込み「古典ピスト走行会」の
リハーサル???を行いました。
(ただ古いピストで走っただけですけど)

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今回、自分が持ち込んだのは最近時々乗っているデローザ。
1977年ぐらいのフレームだと思われます。

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今回、T氏が持ち込んだのは国産古典ピストの王道?
片倉シルク スピードマスター。
1970年前後のフレームかと思われます。
詳細については以前、書庫「友人の自転車たち」に3回ほどにわたって
取り上げていますので興味ある方はご覧ください。

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今回は乗らなかった以前、ご紹介したチネリ スパーコルサ ピスト。

実は、古典ピスト走行会、予行演習に参加したのは二人だけ、
参加した自転車は3台のみでした。

スチールフレームのピストであれば50年代から現在まで、
ほとんど変わり映えしない???ピストレーサーですが
(もちろん年代によってスケルトンも部品にも違いがありますが)
いつか、もっと台数を集めて走行会を行いたいと思います。

※前回よりの続き。
※しばらくは前回と同じ文章をアップしています。


先日、新城市の船着山から下山する際、通った松山峠を今回(2月14日)は
自転車で越えてきました。


松山峠は松山越とも呼ばれており調べると長篠の戦では重要な場所の
一つであることがわかりました。
ごくごく簡単に書きますと・・・
長篠の戦(1575)の際、武田軍、鳶ヶ巣山砦に織田、徳川連合軍の武将、酒井忠次が
奇襲をかけた際、進軍したのが、この峠だったのだそうです。
ちなみに、この奇襲成功は武田軍を大いに動揺させ主戦場(設楽が原)に展開していた
武田軍が決死の突撃を繰り返さざるを得ない状況に追い込んだとする説もあります。


以前行った鳶ヶ巣山砦の記事。
http://blogs.yahoo.co.jp/corsa2003sp/28749064.html


まずは豊川左岸の県道69号線を走り市川という集落に向かって南に折れます。
この市川という集落は山の中で、なんでこんなところに集落があるのかと
思うような場所です。
しかし地図を見てみると長篠地区から松山峠を越えれば吉川を通り宇利地区に
抜ける最短距離のように見受けられます。宇利地区に出れば豊橋にも
浜松方面にも行くことができます。
もしかしたら、このルートの為に、ひらけた集落なのかもしれません。



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新城市市川集落から林道船着山線に入りました。
以前、舩着山から松山峠を経て、この林道に下っています。
ただし、以前は別ルートで歩いて下ったので、こちらは初めてです。

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見覚えのあるところまで登りました。
前回、松山峠から下った際、比較的道ははっきりしていたものの最後の最後、
林道へ降りる直前で道を見失い、ここの崖を転げ落ちるように?降りたのでした。

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先ほどの崖から、すぐ上に松山峠の登り口があることは前回確認しています。
ここから入ればよいのですね・・・
と言っても不安にさせる感じですが・・・

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不安は、ほんのわずか数mで的中。
沢沿いに道があったようですが地盤が悪いようで倒木が、これでもかと倒れています。

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何とか山の斜面を迂回して突破しようとするも動けなくなりました。
仕方なく林道に戻って前回、転げ落ちた崖から登ってみることに。

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ここを登るのか・・・
見た目以上に??急斜面のうえに上の方は、さらに・・・
場合によったら前輪、後輪、フレームとばらして登るしかない?(笑)

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何とか登り切ることができました。
上から見ると林道までが近く急斜面なことが伝わるでしょうか?
ここから峠までの道は前回歩いているので気が楽です。

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画像の奥が登れなかった登山道方面。
これは、あきらめて正解でした。
画像左の方が従来の道のようです。
そちらの道が駄目になった為?画像の右の方に道が出来たのかもしれません。
しかしその道も地形的に林道に降りにくく自分が登った崖辺りを行くしかないようです。

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ここからの道ははっきりしているので???後は自転車を押して登っていくだけ(笑)

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峠手前で鳶ヶ巣山の分岐がありました。
記事のトップに書いた酒井忠次軍の奇襲ルートは峠の向こう、吉川地区から登り松山峠
を越えて、ここから鳶ヶ巣山に向かったのでしょうか。

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林道でけっこう標高を稼いでいたようで意外に早く林道から30分ほどで松山峠へ。

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松山峠

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松山峠を南側から見たところ。
背中側は吉川地区、奥は新城方面。
右手に行けば常寒山、左は舟着山へ。

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峠から見た吉川方面の様子。
いい雰囲気の道が続いています。
予定通り吉川方面に下ることにしましょう。

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雰囲気は良い道なのですが・・・
急傾斜などで意外に乗って下るのは、しんどい。

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結局、ほとんど押して下り登山道入り口まで下りました。

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ここからは林道で吉川の集落へ。

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左が舟着山で松山峠方面かな?・・・多分(笑)
吉川峠から下ってくる道に出て、後は下り基調かと思いきや
強烈な向かい風の中、駐車した場所まで戻る羽目になりました。

※松山峠終わり

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