コルサの毎日がヒルクライム

タグ:その他自然科学

前回、前々回、ご報告の通り午前中は豊橋市内の遺跡を
巡りました。
古墳女子は地学にも興味があるという事で午後は田原市
赤羽根町高松海岸、貝化石の出る地層を見に行きました。
ここの化石は新生代第4紀更新世という時代のもので資料に
よって年代にばらつきはありますが・・・
古いところで30万年、おおむね10万年前後の化石だと
言われているようです。

ただ、化石と言っても、化石化が進んでおらず粘土や砂を
洗い落とすと現在の貝のように見えるので「化石マニアには
物足らない」という人も多いのです。

なお、ここから出た化石の様子は、この記事の最後の方に
アップしていますので、ご覧いただければと思います。
画像の化石は私が昔、採集していたもので現在は豊橋市の
豊橋自然史博物館に収蔵されています。

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久しぶりに降り立った海岸の海食崖は様変わりしていました。
それは・・・

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この画像で少し様子がわかるでしょうか?
以前は、いま彼女が立っているあたりから更に垂直に近い崖が
2~3m下までありました。
渥美半島の太平洋岸に続く崖は地質的にもろく以前は酷いところ
では年に1~2mも崩れていたそうです。
余談ですが鎌倉時代の街道は現在の海岸から4キロぐらい沖に
通っていたのではないかという説もあるほどです。
その為、崖手前にコンクリートブロックを置き崖との間に土を
盛って道路状にして浸食を食い止める工事が行われているのです。
その為、化石を含んだ地層の下部、2~3m(場所によっては、もっと)
が道路状の部分に埋められていしまったのでした。

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こういった水の流れで浸食された谷は化石採取に最適な場所
だったのですが・・・
古い地層(下の方)は見られなくなってしまいました。
(崖側の谷も土砂が積もり水がたまって下の地層の化石の露頭は見えない)

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当時露出していた化石を含む地層は下から
①イボウミニナ、
②ウラカガミガイ、
③オオノガイ、
④ヤツシロガイ
で代表される4つの層に分かれていたのですが・・・・
現在は①~③の化石層は見受けられませんでした。
特に③オオノガイ層は貝がぎっしり詰まっている層(泥、砂もないほどに)
で化石採取にはもってこいの地層だったのですが残念です。
化石を探している地層はヤツシロガイ層の下部あたり。

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こちらは化石が含まれる最上部に登ったところ、
ヤツシロガイ層の最上部あたり。

ここから下の画像は以前採取した化石類の画像。
(汚ない画像ですみません)

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貝化石を中心とした標本。
当時、学会(?)には高松海岸の貝化石が114種類、報告
されていると聞いていたので、それを絶対上回ろうと
集めていました。
自分での分類では120種類を優に超えていたはずですが・・・

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2枚貝の代表例。

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僅か数ミリ(以下)の貝化石も採取。

以上は、かつてコルサが高松海岸で採取した貝を中心とした
化石標本。
(貝化石以外にウニ、スナモグリ、フジツボなどが含まれる)

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こちらは、高松海岸から東の豊橋市赤澤海岸で採取したもの。
対象物がないので大きさがわかりませんが40㎝を優に超える
マガキ(ナガガキ)の化石。

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こちらは流木の化石。
上はボロボロでしたが下の流木は保存状態も良くきれいな
木目が浮き出ていました。

最初にも書いた通り、この標本類は現在、豊橋自然史博物館に
収蔵されており新生代展示室に何点か展示されています。

新生代展示室から出る時に注意して壁を見ていただくと
「協力者一覧」という案内板があり、
その中に私の本名(高〇 〇)の名前があります(笑)

5月2日は豊橋市自然史博物館(のんほいパーク内)、新生代展示室
リュニューアルオープン記念式典に出席してきました。

豊橋市自然史博物館では古生代、中生代と展示室を改装して来て
今回の新生代展示室の改装で完了となりました。

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新生代は大雑把に言えば恐竜やアンモナイトが絶滅して以降、
現在に至る時代を指しています。
したがって新生代は恐竜に代わって哺乳類が進化、大繁栄した
時代になります。

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新生代を代表する大物哺乳類といえば・・・
マンモス、ナウマンゾウなどの象(長鼻類)そしてクジラ類でしょう。
したがってメインの展示は画像の通り。

もちろん、新生代には哺乳類の時代の後半には人類も生まれ進化を
遂げます。
予算、スペースの問題もあるのでしょうが人類の進化についての展示を
もう少し充実してほしかった感もあります。
(新しい人類化石が発見され研究も日々進歩しているという理由もあるでしょう)


また少し自慢をさせていただくと(笑)今回の新生代展示室には
私が個人的に収集、寄贈した化石類も何点か展示されています。

恐竜時代に比べてしまうと地味にみえてしまう時代かもしれませんが・・・
骨格標本、化石の展示+大型壁面映像(象の仲間の進化紹介)などの映像も
併せて、ぜひ新生代を体感していただきたいと思います。

車塚遺跡と岩津第一号古墳の見学を終えた後、私は矢作川にある念願の物を、
くさやんさんにお願いし案内していただくことにしました。

くさやんさんは以前に(念願の物を)見ていて、その際の資料をいただいた私は、
ずっと気になってしょうがなかったのです。
「矢作川なら近いのに、なぜ今まで見に行かなかったの?」
と疑問の声も聞こえてきそうですが、それには訳があるのです。
それは・・・まあ、この後の画像を見ていただければお判りになるはずです。

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おっ、この程度の水量なら少しは見えそうですよ!(笑)
全てでは有りませんが川底に突き出している黒っぽい物体が目的です・・・・

イメージ 2

じゃ~ん、これが念願だった物の画像です。
「えっ、何これ?ただの木の根っこじゃん?」と言われそうですが・・・
そう、これが私の見たかったものなのです。

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少しアップにして見ましょうか?

イメージ 4

さらにアップにして見ましょう。
お判りになりましたか?
そう、ただの木の根元部分なんです(笑)

これがなぜ、念願の物だったのか?
それは、この「立ち株」の年代にポイントがあります。
(人が切ったのではなく自然にこの姿になったものなので切り株ではなく立ち株と呼びます)
各種調査の結果、この「立ち株」の年代は約3000年前(縄文時代晩期)~約2800年前のものと
されているからなのです。

矢作川の天神橋、下流域を中心とした川床に古そうな立ち株や倒木が存在することは
古くから知られていたそうです。
そこで平成17年から豊田市、岡崎市の元で調査委員会が組織され約2年間の調査研究が行われました。
その結果、約3000年前の落葉広葉樹林の痕跡で約2800年より新しい物がない為、
その時代に洪水などで埋没したと考えられています。
その後、地下に埋もれたままだった森林は近年の川床低下により再び地表(川底)に
姿を現したのだそうです。
調査委員会は、この縄文時代の森の痕跡を「矢作川川床埋没林」と読び樹木、
土壌のサンプリング、ボーリング及び測量などの調査を実施したのです。

今回の水量は、それほど多くなかったとは言え調査委員会の調査時には、
ずいぶん水量が少なかったようで(上流のダムの協力か?)当時の画像を見ると、
もっと多くの立ち株や倒木が見えています。
もちろん、いくつかは調査、研究、保存の為、調査委員会に持ち去られているはずです。
(そう、念願の物は水量が少なくないと見られないのです)
調査の際に確認できただけでも50以上の立ち株や倒木があったようで、
倒木の中には長さ17mもあるものも確認されています。
今回、自分達も数ヶ所の痕跡を川底に見つけました。
ただし、水中の物や岸から遠い物がほとんどだったので写真は上のものしか撮れなかったのです。

この立ち株や倒木、もちろん古いものですが約3000年程度ですから
化石化(石化)しているようなことはまったくありません。
ここから持ち出せば、ただの木片にしか見えません。
これを読んで見に行かれる方は、持ち出そうとか考えず、
いためない様に、ご注意くださいね。

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