コルサの毎日がヒルクライム

タグ:人類学と考古学

日向山古墳の後は丸山古墳に立ち寄りました。
イメージ 1
↑丸山古墳、幸田町最大の古墳だそうですが・・・未調査の為でしょうか、案内板や資料には大きさについて触れられていません。墳丘の形は名前からもわかる通り?円墳です。
イメージ 2
↑墳丘に登っていくと2段築成の様子がよくわかります。また、葺石もよく残されているようです。
イメージ 3
↑墳頂近く。
イメージ 4
↑墳頂付近は盗掘の為か切通し状になっています。
イメージ 5
↑切通部分に天井石が見えていました。説明版によれば「築造は5世紀後半とされ横穴式石室の可能性もある」とのことですが、いずれにしても未調査とのことで詳細は不明です。
イメージ 6↑墳頂から幸田町役場方面を見たところ。

幸田町深溝にある日向山古墳(ひむかいやまこふん)に行ってきました。
この古墳には、この地域には他に例がない北部九州の影響を受けた石室があるというので楽しみです。
イメージ 1
↑愛知工科大学南西の日向山頂上にあり丘陵西側の道路から登れるという情報をたよりに見当をつけて行くと道路際にちゃんとした標識がありました。幸い、交通量も少ない道で道幅に余裕もあるので、ここに車を置いて登ることにします。
イメージ 2
↑住宅の横を抜けると・・・すぐにこんな山道です。ただ、要所要所に標識が設置されているので初めてでも道に迷う心配はありません。
イメージ 3
↑頂上に近づいてきました。周りはほとんど竹林です。
イメージ 4
↑墳丘が見えました。説明版もあります。資料によれば古墳時代後期の築造、直径13mの円墳で径9mの外護列石が巡っているということです。墳丘上部は削られて天井石が露出しており崩壊を防ぐ為にシートで覆われているようです。
イメージ 5
↑石室入り口。最初にも書いた通り、この地域には他に例がない北部九州の影響を受けた竪穴系横穴式石室という形式なのだそうです。入り口から玄室床面まで約1,4m下がり玄室まで2mほどの通路があります。
イメージ 6
↑玄室は、およそ長さ4m、幅1,8m高さ2,2mほどあるそうです。
イメージ 7
↑奥壁前には板石3枚が敷かれた棺台がありました。
イメージ 8
↑玄室内部から見た入り口付近。入り口からは約1,4mほど玄室内床面が低くなっています。
 
なぜ、この地に北部九州の影響を受けた竪穴系横穴式石室を持つ古墳があるのか?想像はふくらみますし興味は尽きません。

6月8日は豊田市の曽根遺跡にも弟子を連れて行きました。
ここは縄文時代から古墳時代までの複合遺跡が公園化されています。
イメージ 1
↑縄文時代中期の竪穴住居跡越しの豊田スタジアム。この二つの建物の間には、およそ4千年から5千年の開きがあります。
イメージ 2
↑縄文時代の建物跡、古墳時代の溝などが保存されています。
イメージ 3
↑発掘報告写真によくある「柱穴に人が入って」というこの画像。これが弟子の憧れらしい(笑)
イメージ 4
↑縄文時代の竪穴建物の復元家屋。
イメージ 5
↑公園内に移築されている香九礼1号墳(かくれ1号墳・豊田市志賀町にあったもの)。直径12mほどの円墳で築造は7世紀末から8世紀初頭と考えられています。
イメージ 6
↑横穴式石室が開口していますが、狭いので私は入るのを断念(笑)
イメージ 7

イメージ 8
↑↑、↑弟子が撮影した石室内部の様子。上手に撮れてるやん!(笑)
イメージ 9
↑公園に隣接する門守神社(かどもりじんじゃ)は古墳の墳丘の上に作られています。八柱社古墳(やつはしらしゃこふん)と呼ばれ豊田市唯一の前方後円墳なのだそうです。
イメージ 10
↑左手が後円部、正面あたりが前方部にあたるようです。ただ前方後円墳と言っても前方部が非常に短いうえに低く、いわゆる帆立貝式古墳という形式です。(直径33m高さ5.5mの円墳に幅10m、長さ7.5m高さ0.6mほどの方形の造出しが付く)築造は5世紀半ばと考えられています。
イメージ 11
↑林の中には周濠の痕跡も残っていました。
 

曽根遺跡の見学後は、豊田市郷土史資料館にも行きましたが館内は撮影禁止。
せめて建物の外に移築されている古墳をゆっくり見学しようと思いましたが17時閉館で時間切れ。
イメージ 12

イメージ 13
↑↑、↑門が閉まる直前に何とか撮影したのがこの画像。

※6月8日はこれにて終了

6月8日、馬場瀬古墳群を見学した後は矢作川対岸にある豊田市民芸の森にある本田静雄記念館を見学しました。(※ホタルネタが入りアップの順番が変わってしまいました)

本田静雄氏は豊田市名誉市民で古陶磁研究家、科学技術者、実業家で円空仏、狛犬、陶磁器などの収集研究などで知られています。
イメージ 1

イメージ 2
↑↑、↑豊田市民芸の森の一角に本田静雄記念館があり、古陶磁器のコレクションが収められていました。
イメージ 3
↑六古窯(瀬戸、常滑、信楽、丹波、備前、越前)だけではなく地元の猿投、渥美などの素晴らしい古陶磁がありました。
(渥美、猿投は現在、存続していない為か六古窯に含まれていない)
イメージ 4
↑本田静雄 書、塚田重明 画の屏風の前に並べられた壺など
イメージ 5

イメージ 6
↑↑、↑私の地元、渥美半島(12~13世紀の中世窯)で発見された壺類。素晴らしい物ばかりですが、その中でも特に、地元の渥美の作品が特に気になります!
イメージ 7
↑渥美窯を代表する作品の一つと言っても過言ではない?(と私が思う)灰釉蓮弁文壺。
イメージ 8
↑地元、猿投窯(古墳時代から鎌倉時代が中心)を中心とした陶器片のコレクション。
イメージ 9
↑本田静雄記念館の裏手にあった穴窯。陶芸教室なども行われているので現代の物かと思っていましたが豊田市高崎町にあった兼近一号窯(平安時代中頃)を移築したものが原型のようです。
イメージ 10
↑民芸の森には、いろいろな建物が移築保存されています。これは明治時代初期に名古屋で開催された博覧会の迎賓館として建築された建物だそうです。
イメージ 11
↑内部に入ってみました。階段が急で、びっくり。
イメージ 12
↑明治時代の洋風建築としては豊田市で唯一残っているものだそうで国の登録文化財に指定されているそうです。
イメージ 13
↑陶磁の狛犬とじゃれる?弟子。大の犬嫌いの弟子も、陶磁の狛犬なら大丈夫らしい?(そもそも狛犬は犬じゃない?)

6月8日はホタル狩りに行ったことは前回アップしましたが・・・その前には豊田市の古墳や遺跡、博物館などを回ってきました。
イメージ 1
↑最初に行ったのは豊田市平戸橋町、平戸橋の北東の丘陵上にある馬場瀬古墳群(まばせこふんぐん)
画像は一番奥にある8号墳です。(詳しくは後半に)
イメージ 2
↑急坂で住宅地を上っていくと馬場瀬神社があり、ここに駐車できます。神社の裏には2号墳があります。(1号墳は更に北にあったが住宅開発で滅失したとのこと)
イメージ 3
↑神社の裏に、盛り上がったところがあり、ここが古墳だろうな、と思うだけで、特に天井石などの石は見られません。
イメージ 4
↑神社から南に進むと道沿いに案内板があります。ここが3号墳とのことですが、ここもほんのわずかな盛り上がりがあるだけで石材などの痕跡はほとんど見られません。
イメージ 5
↑このような案内板もあるので探しやすくなっています。
イメージ 6
↑4号墳、ここもわずかな盛り上がりがあるだけで石材などの痕跡はほとんど見られません。
イメージ 7
↑5号墳、やっと石室の痕跡らしい石材が見えています。
イメージ 8

イメージ 9
↑↑、↑石室はほとんど破壊されてしまっていますが石材が残り古墳であったことをうかがわせます。
イメージ 10
↑6号墳。石室の石材らしきものはほとんどありませんが丸石?が墳丘に多数あります。
イメージ 11
↑画像でもお分かりになるように墳丘上に石が多数見られます。これは葺石だったのでしょうか?
イメージ 12
↑7号墳の案内板。この木の陰に7号墳があります。
イメージ 13

イメージ 14
↑↑、↑7号墳。ここもほとんど破壊されています。中央の窪みに落ち葉がたまっています。ここが石室の跡でしょうか?周りに石室の石材と思われる石が残っています。
イメージ 15
↑8号墳は他の古墳に比べても墳丘も高く期待が持てそうです・・・
イメージ 16
↑8号墳だけは石室が残存しています。
イメージ 17
↑8号墳の石室内部の様子。実はこの石室、豊田市内では最大の横穴式石室であるとされています。
羨道は一部、破壊されているものの玄室の保存状態は良く玄室長3.5m、幅2.2m、高さ2.3mほどあるのだそうです。側壁から天井にかけてはドーム状に持ち送っているのがわかります。
イメージ 18
↑両袖式石室と思いましたが・・・資料によっては疑似両袖式としているものもあります。
イメージ 19
↑玄室、床面の様子。
イメージ 20
↑墳丘に登ってみると天井石が露出していました。もう少しで天井石が持ち去られるところだったのかもしれません。

このページのトップヘ